2 魔界の少女
「魔界? 魔界ですって?」
彼女は焦りを隠しもせずに繰り返した。
「カルシー、それは本当なの? アスレイは魔族に連れて行かれたのね?」
「間違いございませぬ、巫女」
部屋で霊力感知を行っている女たちを見ながら、カルシーは重々しくうなずいた。
「霊力の残滓から、アスレイ以外の――それも魔族が力を使ったのは明白です。空間のゆがみも残っておりますし、アスレイは異界の扉を開ける力など持っておらぬはず。となれば、魔族に連れ去られたと考えるのが妥当でございましょう」
「なんでアスレイが……」
カルシーはわずかにためらった後、間違えたのでしょう、と告げた。
「間違えた?」
「アスレイは巫女の衣装を着ておりました。男には見えぬと常々巫女もおっしゃっていたでしょう」
(わたしのせい……)
巫女は唇を噛んだ。焦燥と自責の念で胸が焼けつくようだった。
「アスレイは連れて行かれたんじゃないわ……自分でついていったのよ」
彼女に危険が及ばないように。
そういう少年なのだ、アスレイは。平気で自分を犠牲にする。外見はたおやかな少女のくせに。
「扉を開くにはどうしたらいいの?」
「それは……巫女であれば可能でしょうが、あなた様の力はまだ安定しておりませぬ。失敗するだけならまだしも、下手をすれば御身に危険が――」
「わたしの危険なんてどうだっていいの!」
感情的に叫んでから、巫女は口を閉ざした。
これではただの八つ当たりである。彼らは巫女を第一に考えるのが仕事なのだ、こんなことを言い合っても意味がない。
巫女は監視し、護らねばならない。強い霊力を悪用されないために。それは承知していたが、こんな時まで自由に動くことは許されないのだ。やりきれない思いでいっぱいになる。
彼女は濃茶の髪をぐしゃぐしゃと掻きむしり、寝台に腰掛けると、怒りを吐き出すように長いため息をついた。
カルシーが労わりに満ちた言葉をかけてくる。
「……お気持ちはお察しします。ですが、アスレイも類まれな力の持ち主。簡単にやられはいたしますまい。アスレイを助ける方法はあとで考えるとして、まずは巫女の安全を確実なものとしなくては」
それからカルシーは、警備と結界の強化や、巫女の付き人の増員などの細かい指示をその場の者たちに出した。
「巫女、くれぐれもお一人にならぬように」
「……分かったわ」
(アスレイ……)
きっと無事でいるはずだ。彼はああ見えて、何者にも屈服しない強さを持っているのだから。
巫女は自分にそう言い聞かせると、寝台に倒れこんで目を伏せた。
激しい閃光と爆発音が夜空を埋め尽くしていた。火が次々と弾けては消えていく。空を一条の光のように駆ける灰狼が、獣達をことごとく撃墜していっているのだ。紙くずでも吹き飛ばすかのごとく。
負けじと獣達が放った光線は、狼に当たるどころか反対側にいた味方を撃ち抜く始末である。完全に狼が優勢だった。圧倒的な数の獣達が、舞い散る枯れ葉に見える。
(一体何者なんだ)
アスレイは不審と警戒を口調ににじませた。
「魔族が、何の目的で巫女を?」
「世界を救うため」
相手は大真面目だった。アスレイはますます表情をかたくする。
「そう警戒しなくても、別に取って食おうなんて思ってないわよ。肉キライだし……」
「世界を救うって、一体何の冗談だ?」
「別に信じろとは言わないけど。世界の滅びを止めるために、地上の巫女が必要だそうよ」
「どういう……?」
その時、灰狼の猛攻をかいくぐって、一匹の獣が部屋へ侵入してきた。豹に似たしなやかな体をぐんと伸ばし、一息でアスレイ達との距離を詰める。
突然の展開に多少なりとも動揺していたアスレイは、反応が遅れた。狙いは自分だ。反射的に急所を守るようにして腕を突き出す。
しかし、その鋭い牙が肉を貫くことはなかった。
「……ネコ科ごときが」
ぞっとする声音で女性が呟いたと同時に、彼女の羽衣が一瞬にして豹に巻きついた。顔を、首を、腹を、ぎりぎりと締め上げる。
「あたしは今機嫌が悪いのよ……ワンちゃんと戯れてろ!」
ぶんっと外に放り出される豹。
羽衣は途中で獲物からはがれ、元通り女性の身を飾った。
「このバカ犬っ! 今度こっちに敵を通したら、ただじゃ済まないわよ!」
その脅しが聞こえたらしく、狼はびくっと耳を伏せて加速した。
女性がくるりとアスレイに向き直る。
「――ま、こっちの巫女に会ってもらえれば話は早いかしらね。話せれば、だけど」
「魔界の巫女、に……?」
地上と魔界に一人ずつ存在する、世界樹の巫女。強大な霊力を宿す彼女らならば、確かに異界の扉を開くこともできるだろう。
「……………」
アスレイは胸に妙なざわめきを覚えた。巫女が、もう一人の巫女を喚ぶ。尋常ではない。地上と魔界は一切の交流が途絶えていたというのに。
「ついてらっしゃい――ええと、そういえば名前は?」
「アスレイ……」
「アスレイ。そんなに身構えなくたって、何もしやしないったら。あたしはイオリ。あっちのバカ犬はクエン。さ、ついてきて」
まだ一人で奮闘中の狼――クエンにはまったく目もくれず、彼女はさっさと歩き出した。慌てて後ろから声を掛ける。
「か、彼は放っておいてもいいのか? まだ相手はたくさん――」
「平気よ、体だけは丈夫だから。よしんば死んでも、バカが直っていいんじゃない?」
本気なのか冗談なのか、彼女は恐ろしいセリフを返してきた。さっきまでの激越な様子は鳴りを潜めていたが、案外まだ怒っているのかも知れない。
反論する勇気が持てず、アスレイは黙ってイオリの後を追った。
内部の構造は複雑を極めた。
アスレイは眩暈をこらえて歩き続ける。
部屋の外は細長い通路になっており、やたらと分岐がある上、曲がりくねっていた。
しばらくして着いた階段は、最後の段が見えないほど奥底へと続いている。
それがようやく終わったかと思えば、次に待ち構えていたのは、円形の広間に並ぶ何十もの扉である。
「こっちよ」
イオリは迷わず扉を選択する。
その向こうは、再び蟻の巣並みに入り組んだ迷路であった。
「……………」
いささかも躊躇しないイオリの足取りに、妙に感心してしまう。
だが、迷路の終着点で上に続く階段を昇り始めた時、さすがに疑念が沸いてきた。
(さっきは降りたのに?)
「あの……」
「こうしないと行けないの。面倒なんだけどね、巫女の安全を考えると仕方ないわ」
心でも読まれたのか、と言葉をなくしたアスレイに、イオリは不思議そうに振り返った。
「違った?」
「いえ……よく分かりましたね」
いつの間にか敬語になっていた。
「聞いてもいいですか」
「構わないけど、ほとんどの質問には答えられないと思うわよ。あたしは巫女の言う通りにしただけで、何も聞いてないの」
「……なら、一つだけ」
「どうぞ?」
「巫女に――地上の巫女に何をさせる気なんですか?」
前を行くイオリが、わずかに苦笑したのが気配で分かった。
「可愛らしいわね。そんなに巫女が大切? それとも仕事熱心なだけかしら」
「……………」
答えに困って沈黙するアスレイ。
そんな彼をおかしそうに見やると、イオリは答えを返した。
「悪いけど、あたしは知らないわ」
「……そうですか」
イオリがふいに足を止めた。
「着いたわ」
通路がいつの間にか終わっている。
目の前には、天井まで届く鉄扉が不自然な唐突さで出現していた。
イオリが手を触れると、赤い光が血管のように扉の表面を走る。光は何度か明滅し、一瞬、強く輝いた。
きしみながら扉が開いていく。
絨毯の敷かれた、上品な部屋だった。古そうなクローゼットや机、椅子などが目についたが、ほとんど使用感はない。展示物のような佇まいだった。
アスレイはイオリに続いて部屋へと入る。
「――巫女」
薄いカーテンを少しよけて寝台を覗きこみながら、イオリが声を掛けた。カーテンに細い人影が映っている。
「起きて平気なの?」
「……異界の風が流れてきたのを感じました。地上の巫女を連れてきてくれたのかと……」
アスレイは儚げな声にどきりとした。
もう一人の、巫女。
「イオリ……巫女は、どこに?」
「あー……それなんだけど。バカ犬が、巫女と間違えて違う奴連れてきちゃってさ。――ごめん」
イオリはしおらしかった。狼の青年――クエンを相手にしていた時とはまるで態度が違う。
「だから、どうすればいいか聞きに来たの」
「……………」
弱々しい影がうつむいたように見えた。
「わたくしには……もう、異界の扉を開く力は残っていません。けれど……地上の巫女には……来てもらわなければ……」
星の瞬きのようにかすれていく声。
アスレイは立ちすくんだ。あまりにも生命力に乏しい。
「……世界樹に……」
「世界樹? ――なるほど、分かったわ。すぐに行って地上の巫女を連れてくるから」
「お願いします……」
耐えきれなくなり、アスレイはイオリの横に割り込んだ。
病的なほど白い顔が、緩慢にこちらを見上げる。
硝子のような淡い緑の瞳。色素の薄い細くしなやかな髪。小柄で華奢な体躯。年齢はもう一人の巫女とそう変わらないように見えるが、あの活力に溢れた少女とは正反対だった。
「あ……」
問い詰めるのははばかられて、アスレイは言葉を失う。
巫女が視線でイオリに尋ねると、イオリは肩をすくめて言った。
「バカ犬が巫女と間違えて連れてきた、地上の巫女を護る騎士とやらだってさ」
「巫女を……護る……そうですか、あなたが……」
陰のある面差しに、好意的なものが広がった。
こちらからの言葉を待っているらしい彼女に、アスレイは意を決して口を開く。
「地上の巫女を、どうする気なんですか」
少女の睫毛が苦しげに揺れた。アスレイの質問に反応したのか、それとも体調が思わしくないのかは判断がつかない。ただ、ひどく深刻な理由があるらしいことだけは察して、アスレイは言いつのった。
「巫女に何をさせたいんです? 世界の滅びを止めるためというのは、一体どういうことなんですか」
少女の呼吸が乱れはじめる。その様子にアスレイははっと息を呑んだが、これだけは聞かねばならない。
「答えてください。巫女に、何をさせるつもりなんですか?」
口調に苛立ちが混じっていたのだろう。イオリがアスレイの前に腕を伸ばして牽制した。
感情が昂ぶって怒鳴りかけた瞬間、ようやく巫女が荒い呼吸の合間に何事かを呟く。
「え?」
それは『契約』と聞こえた。
「……わたくしの、死を、きっかけとして……世界は滅びに向かってしまう……それは……契約なのです。でも……まだ、契約を、成立させるわけには……そのために、どうしても、もう一人の巫女が……」
「巫女、もうよしなさい! もういいからあんたは眠って。あとはあたしが何とかするから」
イオリがそう言うと、巫女は糸が切れた人形のように意識を失った。
思わず身を乗り出したアスレイを、イオリが扇で遮る。
「教えておいてあげるけどね、巫女はもう寿命が少ないの。起きていると命を縮めるから、今では滅多に起きないわ。――あたしが何も聞いていない理由が分かった?」
「……分かりました」
アスレイは素直に従った。巫女の護衛役としてはこのまま捨て置けないが、かといって無理に起こすわけにもいかない。
(彼女の死をきっかけとして……? それが契約?)
分からない。巫女に益となるのか、害となるのか。
ただ、彼女の平穏を脅かすことだけは間違いないだろう。
「それで、あんたはどうするの?」
イオリが問いかける。
「どうする?」
「聞いてなかった? 世界樹に行くって言ったじゃない。あれは唯一、魔界と地上、両方の世界に存在するもの。あそこからなら、巫女の力を使わなくても地上へ行けるかも知れない」
「巫女をどうしても魔界に連れてくるということですか?」
「それがこっちの巫女の望みだからね」
イオリの金の瞳に、ちらりと試すような光があらわれた。
「こっちの不手際だから、あんたを帰すのに協力するのはやぶさかではないけど……地上の巫女が扉を開かない限り、可能性があるのは世界樹だと思うわよ?」
現時点では彼女達を信用することはできない。だが、彼女達が巫女を狙っていて、その理由もはっきりしないのなら、一緒に行動していた方が都合はいいだろう。
アスレイは即座に心を決めた。
「あなた達が世界樹に行くというなら、僕もついていきます。あの子の言うことは……嘘ではなさそうでしたけど、それが巫女にとって害になることなら、黙っているわけにはいかない」
「ご自由に」
おかしそうに笑ったイオリは、つと開けっ放しの扉に視線を転じた。
灰色の髪の青年が音もなく部屋に入ってくる。
「巫女は?」
アスレイと目が合うと、クエンは照れたようにそっぽを向き、それから巫女の方を確認した。
「少し起きたけど、また眠ったわ。バカ犬が失敗したってのにちっとも責めないで……巫女の優しさに感謝しなさいよ」
「……………」
「世界樹に行くわ。良かったわね、アスレイもついてってくれるそうよ」
「アスレイ?」
イオリがアスレイを指すと、クエンはその名を何度か呟き、そうか、とうなずいた。うつむいたその顔は、どこか嬉しげに緩んでいた。
(……不安だ)
このメンバーで、これから無事にやっていけるのだろうか。