1 風が交わる時
夕日で朱金に染まる町を、駆ける人影があった。
すでに街路の松明には火が灯され、足早に帰路につく人々が行き交っている。そこここから夕食の良い匂いが漂ってきていた。
白いローブを頭からすっぽりとかぶった人影は、胃を刺激するその香りには見向きもせず、先を急いでいる。
道の先には巨大な建造物があった。ちょっとした城くらいの規模はあるだろう。四方と中央に塔をそなえた、白く荘厳な神殿だった。
人影は少し首を曲げてその建物を見上げたあと、辺りに人の姿がないことを確認して、ぐるりと横手に回り込んだ。
建物は幅の広い水路で囲われている。人影はその手前で足を止め、何事か呟いた。ぱしっと火花が散るような音。満足げにうなずく。
人影は続けて重しのついた紐を取り出した。手首だけで器用に回し、近くの木めがけて放つ。重しは太い木の枝に何度か巻きつき、引っ掛かった。かなり手慣れた様子である。
「よっし」
ロープを一度引いて確かめてから、人影は躊躇することなく跳んだ。簡単に水路を飛び越え、建物の敷地内に忍び込むと、軽い足取りで奥へと進んでいく。
かがり火に照らされながら人影が辿り着いたのは、中央塔の前だった。
それに寄り添うようにして伸びる木にするすると登っていき、壁にはめ込まれた窓をノックする。
待ってましたとばかりに窓が開き、人影は身軽な動きで床に足を着いた。
「たっだいま、アスレイ」
「まったく、ぎりぎりだよ」
上機嫌でローブを脱ぎ捨てた人物とは対照的に、応えた声は不満そうだった。
「塔を抜け出して町で遊ぶなんて、カルシー様にバレたら大目玉だよ」
「いいのよ、あんなじいさま。説教するしか能がないんだから」
短めの髪を手櫛で整えながら、けろっとした様子で少女が言う。そして相手に向き直ると、いたずらっ子のように笑った。
「毎度のことながら、似合いすぎてて怖いわね。女にしか見えないわよ、アスレイ」
「嬉しくないよ」
アスレイと呼ばれた少年は、長い法衣の裾をちょいと持ち上げた。
「それより巫女、もうすぐ夕餉だよ。カルシー様がいらっしゃるんじゃない?」
「そうね、あの説教じじいに見つかったら厄介だわ。アスレイ、早く服脱いで……」
「ちょっ、巫女! こ、ここで脱がないでっ」
「……その必要はございませぬ」
しわがれ声の闖入に、二人はそろって絶句した。
扉口に立つ老人が二人を見比べ、顔のしわを深くする。杖を突きつつ部屋の中央までやってくると、異様に大きな目で少女を睨みつけた。
「巫女。また遊びに行ってらしたと?」
「そ、それはぁ……だって、異国の商隊が来てるって聞いたから、一度見てみたいじゃない? ねえ」
助けを求める少女の視線に、少年は弁護を試みた。
「カルシー様。巫女も決まり事ばかりの毎日なので、少し息抜きがしたかったんです。何事もなく無事だったのですし、あまり怒るのは――」
「馬鹿者!」
ぴしゃりと怒鳴られ、少年はそれ以上の言葉を呑み込んだ。
老人は杖を振り上げながら、唾を飛ばし怒声を上げる。
「アスレイ! そなたは巫女の守役じゃろう! そなたが止めんでどうする! 巫女は世界でたった一人の貴き御方じゃぞ、それを、それを、日が沈むまで一人で遊ばせるとは何事かっ!」
「も、申し訳ありません」
「……何よ、少しくらい一人で遊んできたっていいじゃない」
少女からぽそっとこぼれた文句を、耳ざとい老人は聞き逃さなかった。
「巫女! あなたはご自分の立場を自覚なさっておいでか!? あなたは世界樹の巫女! 悪しき者どもが御身を狙うこともお考えなされ!」
「分かってるわよ、でも少しくらい自由があったっていいでしょ」
「分かっておられませぬ!」
「……あの、カルシー様、そのくらいで」
「そなたは黙っておれ!」
くどくどと説教を始めた老人に、少女はうんざりとそっぽを向いた。
「アスレイ、お腹が減ったわ。早く下行って食べましょ」
老人は怒りのあまり言葉を失った。ぶるぶると細い体を震わせ、自分の前を通り過ぎようとする少女の腕をがっしりと掴む。
「ちょっと! 何すんのよ!」
「あなた様には、もっとよく巫女の存在意義とその重要性、危険性についてお話しする必要がありそうですな」
「ちょっ、離してよ! そんなもん耳タコよ! 聞き飽きたわよ! このっ、モヤシじじい! 枯れ枝じじい!」
老人は見た目に似合わぬ力で少女を引きずり、強引に部屋の外へと連れ出した。少女の金切り声がだんだん小さくなっていく。
「……あの様子じゃ、三時間はお説教だな」
少年は苦笑いすると、本棚から一冊取り出し、綺麗な装飾が施された椅子に腰掛けた。
かたんっ。かたたた……
窓が揺れた。どうやら外は風が強いらしい。気がつけば星や月の光が消えている。窓を開け放つと、湿った風が勢いよく頬を撫で過ぎ、ばたばたとカーテンや本のページをめくった。獣の唸りのような音が遠くで鳴っている。
「雨が降るかな」
呟いて窓を閉めようとしたアスレイは、ふいにその動きを止めた。
(違う)
顔を上げ、空を見据える。
風の音に混じる異質な声を、彼の耳は捉えていた。
『……まえ……か』
少女のような容貌に緊張が走った。神経を鋭くして侵入者を探す。
一際強い風が押し寄せ、思わず目を細めた瞬間、長身の影が部屋に滑り込んだのを察知した。
ランプの火が消え、暗闇が侵入者にまとわりつく。狼のような金の瞳が鮮やかに輝いた。
「……悪いが、一緒に来てもらうぞ」
低い男の声。アスレイは身構えて叫んだ。
「何者だ!」
「ほう、随分と勇ましいな……おまえが巫女なのだろう?」
アスレイは今更ながら、自分の姿を思い出した。
もともと細身で女顔の上、ゆったりとした法衣が体型を隠している。はしばみ色の目は優しげな印象を与えるし、亜麻色の髪は長い。巫女でない――どころか、男と見抜くことさえ容易ではなかろう。
「……………」
巫女の住む神殿とはいえ、張り巡らされた結界に頼っているため、警備はそれほど厳重ではなく、出入りする人間も少ない。特にこの一棟は巫女の居住区、この時刻、側仕え以外はほとんど立ち入らない。
騒いだところで、説教中の巫女本人がやってきてしまうだけだろう。
アスレイは用心しながら答えた。
「……ええ、確かに私が巫女です。一体何の用ですか」
「おまえの力が必要だ。共に来てもらう」
一瞬。
男の手の中で星が瞬いた。かと思うと、真白い光が爆発するように広がる。光に吸い込まれ、呑み込まれる――そんな錯覚に襲われた。
いや、錯覚ではなかったかも知れない。光が中心点へ集束するように戻り、視覚が回復した時、そこはすでにアスレイの見知った部屋ではなかったのだから。
城の一室を思わせる広い空間だった。ただし、家具などの生活用品や装飾は一切ない。陰気な石壁に扉が一つはめこまれているだけだった。
どういうわけか、窓も灯もないのに昼のように明るいが、疑問に思っている場合ではない。アスレイは戸惑いを無理矢理振り払うと、静かな金色の目でこちらを観察している相手に意識を戻した。
長い灰色の髪を後頭部で結った青年だった。彫像のような、彫りの深い秀麗な顔立ちをしている。しかし優男といった感じではない。その身にまとっているのは刃物の鋭さだった。
暴力的な匂いはないが、明らかに常人とは異なる存在感を放っている。実際、神殿の結界を難なく越えてみせたのだ。
巫女に近づかせるわけにはいかない。
「ついてこい」
目で扉の方を示すと、青年は無防備に背中をさらした。
その瞬間、アスレイは彼に向かって駆ける。
そして早口で唱えた。
『星無き夜の音色を聴け! 我に妖精の杖を与えよ!』
ブン……とアスレイの右手に白い光剣が生まれる。
青年がはっとして上げた腕と、光の刃とが交差した。同時に目をつぶるアスレイ。
――カッ!
剣が眩い白光を放った。
体勢が崩れた青年の足を、アスレイは素早く蹴り払う。バランスを保てず尻餅をついた彼の鼻先に、光剣を突きつけた。
青年は、見えずとも追い詰められたことを察したらしい。眩しげに目を瞬かせながらも微動だにしない。
やがて目の焦点が合うと、彼は急に魂を抜かれたような表情になった。その頬が、ぽっと赤く染まる。
「……いい……」
「――なに血迷ってんのよ、バカ犬!」
ごずっ、とかなり痛そうな音がして、青年はその場に倒れこんだ。
彼に蹴りをぶちこんだ脚線美が、するりとスリットの中に戻される。いつからそこにいたのか、美しい女性が烈火のごとき表情で仁王立ちしていた。
妖艶な美女である。狐色の髪を結い上げて様々な珠玉で飾っている。鮮やかな色取りの服を見事に着こなし、優雅に羽衣をまとっていた。
大きく開いた胸元から覗く肌がなまめかしくて、アスレイは慌てて視線をそらす。
露出の多い派手な格好だというのに、下品な印象は受けない。女王のような、媚びを含まぬ厳格な美貌が気品を感じさせるからかも知れない。
「何するんだ!」
青年が頭を抱えて抗議すると、女性は問答無用とばかりに扇子を振り上げた。青年の後頭部に叩き込まれたそれは、骨折に似た異音を立てて折れ、空中を飛んでアスレイの足元まで転がってくる。
「このバカ犬!」
身震いするほどの迫力に、青年だけでなくアスレイまでもが縮み上がった。
「あたしは巫女を連れて来いと言ったのよ!? 誰があんた好みの男を連れ込めと言ったの!」
「……え?」
青年はきょとんとして、アスレイと女性とを見比べた。そして作り笑いをしながら、アスレイを指差す。
「そんな馬鹿な。どう見たって女じゃないか。それに自分で巫女だと名乗ったし――」
「初対面の怪しげな男に名乗るわけがないでしょう! 大体、男か女かなんて匂いで分かるでしょうがっ! あんたの間抜け顔のココについてるコレは単なるお飾りなの? ええ!? ただの空気穴!?」
「痛い痛い痛いっ! 鼻がちぎれる鼻がっ!」
「こんな役に立たない鼻なんかいっそ切り取ってあげるわよ! このバカ! 大バカ! ミラクルバカ! レジェンドバカ!」
「痛い痛い痛い痛い痛いっ!」
本気の悲鳴に少しは気が済んだのか、女性は青年の鼻から手を離し、腕を組んで息をついた。ただ、切れ長の目は据わったままだったが。
赤くなった鼻を涙目でさすっていた青年は、改めてアスレイを見つめ、犬そっくりに匂いを嗅ぐ仕草をした。引きつった笑みを浮かべて尋ねる。
「……男?」
アスレイがうなずくと、ショックを受けたらしく凍りついたように動かなくなった。やがてがっくりと肩を落とし、うなだれる。
何やら物凄く悪いことをした気がして、アスレイは気まずい面持ちで頬を掻いた。
一方、女性は不機嫌を隠そうともせずアスレイに歩み寄る。思わず後ずさりするアスレイ。
「――で? あんたは誰なの。霊術を使ってたわね?」
「僕は……巫女から霊力を与えられた騎士だ」
「なるほど。巫女を護る者ってわけか」
女性はアスレイを通りすぎると、床から何かを拾い上げる。鍵だった。
さきほど光剣を青年に当てた時、彼の手のひらから小さな物がこぼれ落ちていた。おそらく、巫女の部屋で光を放ったのもそれだろう。
「駄目ね、もうこの鍵で扉は開けないわ」
真っ黒く変色した鍵は、彼女が少し力を込めると、あっけなく崩れて粉々になった。
「どうすんのよ、バカ犬! 鍵は往復分しかもたないから慎重に行動しろと言ったじゃない。――ったく、こんなことならやっぱりあたしが行けば良かったわ」
「何のために、巫女を? あなた達は一体何者なんだ?」
女性は黄金を溶かしたような瞳でアスレイを見た。が、ふいに目つきを険しくし、舌打ちする。そしてまだ落ち込んでいる青年を踏みつけた。
「いつまでそうしてるのよ、バカ犬。奴らが来たわ」
その一言で、青年は態度を一変させた。情けなく拗ねた飼い犬から、獲物をうかがう野生の獣へ。
「多いな」
「扉を開いたからね。とうとう巫女を連れてきたんだって勘違いしたんじゃない? 実際、本当になるはずだったんだけど」
「……………」
「頼んだわよ。あたしは気が乗らないわ」
「……一人で? この数を?」
「男だったら失敗は行動で取り返しなさい。それに――」
女性は顎をしゃくってアスレイを指す。
「かっこいいとこ見せれば、最悪だった第一印象も払拭できるかもよ」
「……俺には妙な趣味はない」
そう言いつつも、青年はアスレイと目が合った瞬間に顔を赤くした。くっと悔しげに呻き、顔をそむける。泣きそうであった。
彼に変化が起こったのはその時である。
肉体がゆがむようにぶれた。顔が獣毛に覆われ、犬のように細長くなったかと思うと、衣服が溶け消えた代わりに灰色の毛が全身を包む。膝をついた時には太い尾が伸びてきて、青年は完全な狼へと変貌した。
「…………!?」
アスレイは目を見張る。
狼は後肢を少し曲げてバネのように跳躍し、そのまま壁に突進した。
轟音とともに部屋が揺れ、壁の一部に穴があく。そこから流れ込んだ風が、舞い上がる土煙を晴らした。
壁の向こうは空だった。闇に浮かぶ満月が、空中へと飛び出していく灰狼を白々と照らし出す。
――いや、狼だけではなかった。そこには多くの獣達が、星の姿を遮ってひしめいていたのだ。
(あれは)
「あれは……魔族? じゃあここは……」
「ご名答」
女性が初めて友好的な笑みをこぼした。
「ここは魔界よ」