第二話 責める男(1)
1 親友
「おい、確りしろ! ヒューイッー!」
奴が懸命に叫ぶ。
俺は己の因果な運命を恨みつつ、ホールの中央に倒れた。そして、客やバーテンダーが見守る中、友の腕に抱かれて、静かに死んでいった!
それは1時間前のことだ。これから自身に起こる出来事など、誰が想像し得ただろうか。
俺はいつもの酒場で酔い潰れていた。砂地の道から数段底上げされた板張りの廊下が外壁に沿って敷き詰められている、何とも西部時代を彷彿させる出入り口で、このパームシティ街の中でも1番小汚い、安酒の飲めるうらびれたホールを目にしながら、まるで人である尊厳なんか微塵も感じられないボロ雑巾のような姿を晒し、今や親しくなった鼠と肩を並べて倒れていた。そのため、道行く人々の視線が突き刺さったのは当然のこと。だが、誰も気にする者はいない、これが俺の日常だったから。
とはいえ、今夜は何かが違う。例えるなら、時間が静かに止まって新たな瞬間が始まったような……。そう感じた直後に、漸く一見紳士風に見える若い男が酒場に現れた! シルクハットに黒マントを身につけ、どう見てもこの場には似つかわしくない金持ちの匂いがするじゃないか。
こいつだ、こいつに間違いない、と俺は思った。すかさず重い瞼を開き薄目で男を観察し始める。すると、思惑通り男は店のカウンターへ進み、ウイスキーをボトルで注文した。
よし、ちょうど良い頃合だ。ここは一発かましてやるぜ! 俺はすっくと立ち上がり男に近づいた。そうして、勢いよく話しかける。
「旦那、俺にめぐんでくれやせんか? お願いしますわ」と。……つまるところ、俺は乞食だ。いつもこうやって金持ちに物乞している、酒を飲むことしか生きる希望がない男だったのさ。
一方、その声を聞いた紳士は、こちらを向いて品定めするかのようにじっと覗き込んだ。ただし、その面は余り芳しくない。やっぱり今回も駄目かな……と思ったのだが、
「いいですよ。あなた、ここの常連ですか?」と意外にも色好い返事をしてくれた。
俺は気をよくして、知らず知らずのうちに軽く媚びる。
「ええ、そうなんです。俺の名はヒューイ・フリックと言うんです。これからお見知りおきを」そして、何だ、結構話せる紳士じゃないか。……と安心したのも束の間、この後がいけない。その若造は少し考える仕草をしてから、
「酒を奢るのは結構なんですけど。その代わり、退屈凌ぎに何か面白い話を聞かせてもらえないですかね」と予想もしないことをほざきやがった。
これには俺も困ってしまった。
「俺が?……旦那、無理ですわ。そんな話は知りませんぜ」と断るも、若造は怯まず、
「ならば、あなたの身の上話をしてください。その身形から察するに、とても興味深い」そう言って、俺のグラスになみなみと酒を注いだ。でかいボトルから!
「俺の話? こんな落ちぶれたオヤジの話が面白いと?」どうやら、相当な暇人なのか。
俺は目の前の酒を一気に飲み干し、これなら酒がたらふく飲めると見越して、
「くーっ、うっういー、まあ話せと言うなら話しますがね。辛気臭くなりますよ、いいですかい?」と酔いにも任せ、結局自分の過去を話し出したのだ。
俺はそう、取り分け語るほどの生い立ちでもない。ごく普通の家庭に生まれ、人並みに育ち、いつの間にか学校を卒業してそのまま仕事にありついた平凡な男だ。
ただし、その俺が何故ここまで落ちぶれた生活をしているのか。それは、親友ジェームス・サーチと送った若き日の出来事から話さないといけない。
ジェームスとは、高等学年に入った時から何故か気が合って、いつも一緒につるんでいた友だ。
俺は貧しい小作の子で、あいつは裕福な地主の子息。俺なんか相手にする家柄じゃないのに、まるで本当の兄弟のように親しく接してくれた。
俺にとってジェームスは、あいつはどう思っていたのか知らないが、親友であり、目標とするライバルでもあった。俺は常に奴の背中を見て、それを目指して進んでいた気がする。
それから敢えて言う程の事柄もなく、学生時代は平平と過ぎていった。
そして、あっという間に卒業を迎え、俺たちは都会に出ることにした。……いいや、そうじゃなかったか? 都会の有名大学に進学することが決まったのは奴の方だ。俺はただ、ジェームスと別れたくない一心で、それに合わせて同じ都で働こうとしただけだ。
その時の俺は仕事なんか何を選んでも良かった。単に親友と楽しく暮らせることを願って故郷を出たまでのこと。それにあいつの方も、嫌な顔はしなかった。同郷の俺を腐れ縁と思ってか、以前と変わらず親密な付き合いを続けてくれた。寮生活を送る奴に対して、俺は近くに安アパートを借りて、暇な時は毎度俺のアパートで将来について語り合った。結局のところ、以前と同様に青年期をともに過ごしたということだ。
しかしそんなある日、ちょうど1軒の雑貨屋に立ち寄った時のこと。俺たちにとって運命の出来事が起こったんだ。
それは――うら若き女性、メアリー・カレン!――との出会いだった。
最初、彼女の存在に気づいたのは俺の方だ。――とてもチャーミングな娘がいるな――と側でそっと覗いていたら、彼女は上の棚の奥まった所にあるチィーカップを取ろうとしていた。
その姿は栗色のウエーブのかかった綺麗な髪とグリーンアイの眼差しを有した天使のようだった。手を上に伸ばして、上腕の細いが確りした筋肉を震わせ、顎から胸、腰までの膨よかな曲線を見事に曝け出し、カップをつかもうと難儀をしていた。
俺はそれを見て、どうしても手助けしたい心境に駆られたため、急いで彼女の代わりにチィーカップを取り、「これかい?」と手渡した。
すると彼女は、「ありがとう、助かったわ」とつぶらな瞳で真正面から俺に微笑んだ。
その彼女の微笑み! 俺はその笑顔を見た途端、雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。何と素敵な女性なんだと、さらなる心からの叫びを聞いた気がした。しかも、うしろにいたジェームス。奴の顔にも同様の感情が芽生えたことがありありと窺えた。2人とも彼女の魅力に当てられたんだ。
けれど、その時はお互い名も知らず、これ以上の言葉もないまま別れた。とはいえ、それからというもの、何かにつけ雑貨屋を覗くことになったのは言うまでもないがね。
そして何度か彼女を目にする内に、お互い会話を交わし、俺たち3人はいつの間にか友達になっていた。そうさ、この時はそうなるのが自然の成り行きだったんだ……
その後、俺たちは時々メアリーとカフェでお茶を飲んで他愛のないこと、例えば、彼女の家は古くからの旧家の出で、親父さんは貿易関係の仕事に就いているらしいけど、当の彼女は学校を出てから家事手伝いしかしていないので、時間を持て余しているとか、俺の仕事ぶりがさまになってきた等や、ジェームスが大学生活に馴染むも学業には置いてきぼりだ云々のことを楽しく御喋りした。今考えると、この時が一番楽しかった。お互い友情を育み、夢を語り……
でも、月日が流れるのは早いもので、俺たちが親しい友達としての関係を続けた数年後、多少環境が変化した。と言っても変わったのはジェームスだけだったけど。俺とメアリーは相変わらずの生活ぶりで、奴だけが立派になって一流商社に入ったんだ。
初めに俺がその話を聞いた時は、確かに喜んだよ。それは、奴の出世は俺にとっても誇らしい。自慢できる友がいると言うのは嬉しいに違いないと思ったからだ。
ならばその記念にと、俺たちはレストランで小規模ながらお祝いをすることにした。――実に楽しい夜だったよ。時間を忘れるぐらい幸せな時を過ごしたねえ――しかし、そんな極上の時というのは、得てして早く終わるものだ。俺たちは名残惜しくとも早々に切り上げた。そして彼女を家まで送り届けてから、帰宅の途に着いたんだ。
するとその帰り道で――
「おい、お前、彼女をどう思う?」とジェームスが、突然問いかけてきた。
俺は唐突な質問に少々戸惑いつつ、
「良い娘だな……俺は好きだよ」と半分答えを紛らわして言った。
途端に奴は、必死の形相で、
「どのくらい好きなんだ? ライクか、ラブか?」とけたたましく訊いてきた。
俺はその口調から、奴の心が手に取るように理解できた。明らかにメアリーに惚れていると。たぶん奴は就職が決まった時点で、彼女に交際を申し込むつもりだったんだろう。
「…………」俺は奴の問いに正直、迷って声にしずらい。実のところ、俺自身も同じ思いを以前から持っていたからだ。だけどジェームスは俺にとって兄みたいな存在、仲違いだけは避けたい。
だから――今回は残念だけど身を引くしか、それにまだ若い、出会いなんてこれからもあるさ――と心に言い聞かせたのだ。そこで、
「ライクだ、俺はライクだな」と努めて明るく答えた。
そうすると、ジェームスの方は嬉しそうに、
「だったら、俺がメアリーと結婚を前提に付き合っても文句はないよな?」と言った。
「ああ、いいんじゃないか。お前たちお似合いだよ」と俺もついつい進めてしまう。
「ありがとう、やっぱりそうだよな。よかった。あはははは……」
何とも、奴の笑顔が羨ましい。
俺はそれを見ながら、逆に自分の顔が強張っているのを感じて、知られまいとそっと隠していた。