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第一話 苦悩する男(ラスト)

 どれくらい、経ったろうか? 正気に戻った時には、私は横たわる自分の体をすぐ脇で見ている。どうやら精神が遊離して、もうこの世の者ではなかったのだろう。しかも、橋からかなりの距離まで流されたみたいた。堤防の道に寝かされ、側では救急隊員が私に蘇生術を試している。ちょうど今、陸地へ引き上げられたに違いない。正美が私の亡骸の近くで泣き崩れている。彼女が救急車を呼んだのか。島本は逃げていなかった。

 クソッ! 本当に何ということだ。島本を助けたために私の一生は最悪な結果になった。しかも、相手が最低な野郎、下劣な悪人の代わりに自分が死ぬなんて!

 私が生きた人生の記憶も今の三十才まで、過去に戻った時点で以前の記憶は既に消え失せている。それ故、これから人生を謳歌しようという歳に命を絶つとは……! くうっー!? 死んでも死に切れないとはこのことだ。

 私は今さらながらに、島本なんかを救うべきではなかった。あまりにも浅はかなことをしてしまったと後悔した。涙を流しその場に肩から崩れ落ち、嘆き悲しんだ。

 ところがその時……

「谷井孝雄よ。何を嘆いているのです」と突如、天の声が聞こえてきた!

 そしてその途端、またも場面が変わって、もう一度あのテントの中へ戻っていたのだ!

「あーっ、え?」私は驚きと混乱で放心状態になる。けれどそれを無視して、女神からのメッセージが続いた。

「あなたの生涯を苦しみのない優雅なものにするよう選択しなさいと言っておきましたよね? それなのに何故悲しんでいるのです。……いいでしょう。もう一度、機会を与えます。これが最後ですからよく熟慮して決めるのですよ。さあ、悔いのない選択をしなさい」とだけ言った後、声が途絶えた。 

 全く早い転換に惑わされてついて行けない、と辟易した。とはいえ、今この場で私の目に映るのは、テント内でのシーン……奴の姿を捉えていた。島本が何食わぬ顔でコーヒーを注いでいる。まるで、エンドレスな悪夢を見させられているかのごとく。

 私は何とも言えない心持ちでその様子を眺めるしかなかった。そうすると不意に、

「おい、受け取れよ」と島本の声が聞こえる。

「えっ」

「コップだよ」と差し出した。

「ああ、すまなっ……」咄嗟に答えてコーヒーを受け取った。

 それでどうにか我に返り、取りあえず一呼吸置いて落ち着かなければと思った。女神が言った通り、もう一度チャンスを得たのだから。

 無論、今の私は、心が決まっていた!

 と、言いたいところだが……ここにきて、正直迷い始めた。確かに、現段階では島本を殺したいほど憎んでいる。だけど、実際どんな悪人でも死ぬことが分かっていて助けないというのは、人として最低の行為、それこそ大悪人の所業ではないのか? そのうえ今回は明らかに見殺しとなる訳で、当然最初より罪が重い。となれば、それほどの大罪を犯して私は残りの人生を平穏に暮らせるだろうか? たぶん、自分が胸を張って生きることは到底無理だろう、死んだも同然になるかもしれない。それでは駄目だ! これからの人生、生きてはいけない。……うううっー、私はどうしたらいいんだ?

 するとその時、とうとう運命の一言が、苦悩する自分を袖にして発せられた!

「ちょっと、外の状況を見てくるから」

「…………!?」私は未だ声を失ったまま。

 そうして奴は、テントから出ようと入出口のファスナーを開いた。……それを目の当たりにしたところで、くっ、駄目だ! 堪え切れない。思わず言葉がついて出てしまった。

「待て!」私は膝の上に置いた手を強く握り締めて、「ま、待て! 何か変だ。今は出ない方がいい」と噛み締めるように叫んでいたのだ。やはり、悪魔にはなれない。奴の勝ちだ!

 そんな私の忠告に、島本の方は疑念を抱いた表情を見せた。ゆっくりと外を覗いたのち、

「うっ……まあ、お前がそこまで言うなら、後にするか」それでもあっさりと私の指示に従っていた。

 それから間もなく、雪崩が起こったのは、言うまでもない。

 だが、その地響きの音を聞いた後、私は絶望のあまり意識が遠退き、その場に倒れ込んでいた!――


 晴れ渡った空に、何事もなかったかのような静けさが広がっていた。ただ一時前、驚異的な自然の力に圧倒されたことは、疑いようもない事実だった。その証拠に、テントから数百メートル離れた所で、雪崩によって形造られた巨大な雪の山が出現していた。しかもその頂上には、いつの間にか谷井たちに視線を向ける不思議な人影さえもあった。

 その容姿はどう見ても人間だとは思えない。半透明なカシャーヤをまとって、まるで雪の表面に浮かんでいるかのごとく仁王立ちしていた。

「貴方は正しい選択をした。それでいいのです、谷井孝雄よ」続いて微笑を浮かべながら徐に呟いたなら、高々と両手を伸ばし天を仰いだ。

 途端に、つむじ風が吹き抜ける。と同時に、その姿はいつの間にか掻き消えていた。まるで揮発したかのように。

 後には、大空高く舞い上がる風だけが、音を奏でていた。


 私は……気がついた。どうやら川の、あの堤防にいるようだ。前回と同じく、橋から落ちて溺死したのだろう。島本を救ったせいで、当然の結果だった。ただし今回は、ここまでの記憶がないのだが?

 ともかく、思った通り以前と違わず……私は死んでいた! 何故なら自分の亡骸を目の前で見ている。それに、救急隊員が蘇生させようと試みていた。側には正美が寄り添って、悲しそうに下を向いている。涙が出尽くしたのか落ち着いた様子だ。

「うっーう、だけど、死ななくても」正美がポソッと言った。私も同感だ、死にたくなかった。

「これも運命ね、そうでしょ」それから正美は、誰かに話しかけるかのように言った。

 仕方がない、自分が決心して運命を変えたのだから。今は……後悔していない!

 さらに彼女は続けた。顔を上げて全てを悟ったとでも言いたそうな口調で。

「彼も苦しんでいたのね。それで直接、彼がしようとしたことを貴方に責められて、良心の呵責で居た堪れなくなったのね、きっと」

 んっ……はて? 何の話をしているんだ。

「それが突然、橋から飛び降りるなんて! もういいんじゃない、貴方は自殺を止めようとしたし、救急車も呼んだんだから」と彼女は締めくくった。

 その話し方は、明らかに誰かと会話しているかのようだ。私は不審に思い、誰だ? 誰がいる、と辺りを見回したが、霊魂の自分と私の死体を処理している救急隊員しかいなかった。

 すると次に、正美は唐突に振り返り、私の方へ近寄って来たかと思ったら、

「さあ、行きましょ」と言って肩を叩いた。

「…………?」

 えっ、まさか、信じられない! 私の肩に? そう、私の肩に触れたのだ! 正美の手の感触があった。

 つまり私は……霊魂ではない、生きてその場に立っていたのだ!

 目の前で、救急車の担架に横たわる男を見ながら……

 そして、その男の顔は、紛れもなく、島本! だった。


  …………………………


――最後に、蛇足のごとく天空の住人たちの呟きが聞こえてきた――


「これで人々の未来は安泰ですか?」

「いいや、まだだ。一人だけではのう」

「また試練を与えるのですか?」

「そうじゃ。けどのう、それはまた今度にしておくとするか……」




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