第一話 苦悩する男(2)
帰ってから三日が経っていた。
私は溜まっている仕事を片付けるために、会社に出かけた。久しぶりの仕事でとても新鮮な感じだ。そのせいもあって、時間も忘れるほど熱中し、すぐに夕方の退社時間になっていた。
時間は六時過ぎだ、まだ家に帰るのは早い。それなら久々に酒でも飲むかとの考えで、いつもの居酒屋へ足を向けた。
私は意気揚々と歓楽街の通りを歩いていた。
そこに、あれっ? 正美の姿だ。ちょうど彼女が、向かいの歩道の遠めにある喫茶店から出て来たところだった。
だけど私は、ふっと思い出した。――今日は残業があると言っていたはず――ならば、もう終わったのだろうか? だったらタイミングが良いな、彼女も誘って一緒に飲もうという算段を咄嗟に立てる。右手を上げて呼び止めようした。
が、その時、同じく喫茶店から正美を追いかけるように一人の男が出てきた。
誰だ、会社の同僚か? 訝しげに見てみると……あっ、少し驚いた。島本だ! 何故か奴が、正美と一緒にいた。これはいったいどういうことだ?
さらに島本の方は、逃げる正美の腕を取り、頻りに何か言っている。正美はそれに反論しているかの様子だ。
私はそのやり取りから、見てはいけない物を見ている気がして思わず街路樹に身を隠していた。
続いて彼らは、少しの間言い合いをしたかと思ったら、正美は怒った感じとなり、つかつかとその場を去って行き、対する島本は肩を落とし落胆したみたいに立ち止まって見送っている。そして諦めたのだろう、すぐまた店の中へ入った。
……これはいったい、どうなっている? 私は街路樹の側で思いを巡らした。二人が何を話していたのか、勿論とても気になっていた。このままでは気が晴れる訳もない。そこで、ただちにその足を正美のマンションへ向けたのだった。
「はあはあはあ」私が急いで駆けつけると、上手い具合にマンションの入り口で正美を捕まえることができた。
「正美、待ってくれ」
「あら、孝ちゃん! 来たの?」驚きとばつが悪そうな顔で正美が答えた。
「ああ、近くに来たついでに寄ってみた」と適当な言葉ではぐらかし、彼女をじっと覗き込む。すると、その目が泳いで不自然な感じに見えた。直近の出来事を気にしているかのように……。やはり何かある! 私はそう直感した。ならば、もう黙っているのもまどろっこしい。単刀直入に切り出していた。
「さっき島本と会っていたのを偶然見かけたんだ」
途端に、正美の表情が変わった。明らかに隠し事があると思える変化だ。私は畳み掛けた。
「何を話していたんだい?」と。
けれど正美の方は、困惑して、「……ううん、大したことじゃ、ないの」とまともに答えない。
駄目だ、こうなると益々気になる!
……仕方がない。私は強く詰め寄り、彼女を問い質していた。
懸命に島本を探した。来るなと言ったが、正美が反泣きでついてきた。
先の喫茶店には既に姿がなかった。そこで川沿いにある島本のアパートを訪ねてみたなら、まだ帰っていないのか部屋は真っ暗だった。止むを得ず近くで待つことにした。
そうして暫くすると……川幅のある一級河川に架かる橋の上で、街燈の光に浮かび上がる人影を見つけた。島本か! 奴のご帰宅らしい。
私はその姿を見るや否や、怒りとともに島本に向かって突進していた! 何故なら、とんでもない話を聞かされたからだ。それは、この島本が私という者の存在を知っているにも係わらず、図々しくも正美に交際を求め、しかも半ば強引に付き纏っていたというのだ。全く呆れた内容に腸が煮えくり返る思いだ。絶対に奴を許す訳にいかない。
私は大いに憤慨して近づいていった。
島本の方も、そんな私に気づいたようで橋の途中で歩みを止めた。
私は構わず橋を渡り、欄干の下は川の最深部と思える所で佇む島本に向かって、前置きもなく喧嘩腰にかましていた。
「おい、島本! 俺が言いたいことを分かってるよな」
しかし、異質な私の様子を見ても、
「誰かと思えば、孝雄か? それに正美も一緒かい」といやに余裕のある言い回しで答えた。
私はその言葉すら腹立たしく思い、
「お前な、俺と正美の関係を知ってるのに何で正美にちょっかい出すんだ!」と強い怒りをぶつけたところ、次に呆れ果てる言葉を返してきた。
「うーん、そうだな、恋愛は自由だからな、俺の場合人の物を奪うのが好きなのかもな」と悪びれることもなく、奴は無茶苦茶な理由をのうのうとほざいていたのだ。
「何だと!?」
さらにここで、耳を疑うことまでも言い放った。
「さーて、違うな。どちらかと言えば俺の方が正美とお似合いだな。お前は身を引け」と。
流石にそれを聞いては、怒りとともに驚きも湧いてきた。
こいつは、どうしたんだ! ぬけぬけと言いやがって……。まさかこれが、奴の本性だったというのか? 私は全く信じられない気持ちになった。ただ、事実だとすれば、今の今まで騙されていたことになる……
「なんて野郎だ!」島本が最低の族だとは予想もしなかった。私はこんな奴のために長年苦しんできた訳か! 一気に虚しさと悔しさが心の底から込み上げてきた。そのため知らぬ間に、
「お、俺はなあ、お前を救えなくて……どれだけ」と憂いを込めた声が口をついて出たのだが、言うに及ばず奴に通ずるわけもなく、返って胸を抉るような雑言が容赦なく聞こえてきた。
「チャンチャラおかしいんだよ、友達ごっこは終わりだ。俺にとってお前は邪魔な男でしかない。いいかよく聞け、正美を諦めて俺の前から消えろ!」
私はその言葉を聞いた途端、とうとう我を忘れ、怒気に任せて言ってしまった。
「くくくっー! お前なんか、あの時雪崩で潰されていれば……」と。
ところが島本の方も、
「そうそう、雪崩さえなかったら正美も俺に靡いてただろうっ……」と言ってから、仕舞ったというような顔をして口を閉ざした?
……はっ、何だ! 今何を言おうとした? 私はその一瞬を見逃さなかった。
「どういう意味だ!」それ故、すぐに訊いた。とても重要なことを吐露したような? 奴の奇妙な態度がそれを如実に示していると感じたのだ。……私は嫌な予感がした。「どういう意味だと聞いているんだ!」続けて島本に噛みついた。が、奴は何故か、
「い、いや……こっちの話だ」と口篭もるだけ。
私はその様子から、最悪のことを秘めていると感じた。この男の悪に接した感触だった! もう抑え切れない。憤りが頂点となり、気づいた時には島本の胸倉を掴んでいた! 両手で力一杯のど元を締め上げて、
「どういうことか、はっきり言え!」と攻め立てたのだ。
しかし、島本も大人しくやられている男ではない。私の手を捻り返して突き放そうする。そして、捨て鉢気味に、その真実を漸く暴露した。
「うるせーな! お前は消えるべきだったんだよ。俺の睡眠薬入りのコーヒーを飲んでな」と……
えっ!? 何だって。私はその声に、心底驚いた! まさかそんな恐ろしいこと――私を冬山で眠らせようとした?――。と言うことは、私を凍死させて殺害する計画を立てていたということかァー。
……想像だにしなかった!
「き、きさまー! 俺を冬山で殺すつもりだったのか?」思わず私は絶叫した。
するとその問いに、奴はきっぱりと言い切った。
「そうだよ、お前さえいなければ、正美は俺のものになったんだ!」
なるほだ……これで漸く私も理解した。
「きさまがすんなりと冬山登山を承知したのはっ、くっ、こういうことだったんだな!」
島本は最低の族どころか、とんでもない悪党だった、私は愚かにもそんな男を親友だと思って、今まで接してきたのだ――何と、道化っ!
私は裏切られた無念さと悲しみで 怒りを通り越し、本心から憎しみが沸々と湧いて、
「ぐぐぐうう……」力の限り島本の上半身を橋の欄干から押し出し、奴の首を絞めた。それでも島本の方は、全然降参する気配も見せず、それどころか強気で反撃してきた。私の手を押さえつつ徐々に私の体を持ち上げようとしたのだ。
ならば、こちらも負けてなるものか! 重心を落とし踏ん張ってみた……のだが、次の瞬間、えっ、ふっと体が浮いたような?
「……うっ!?」まさしく悪夢! 気づいた時には、欄干の外側へ飛び出したではないか。私は焦り、急いで何かに掴まらなければ、と思案したものの、周りに掴まる物などある訳もない。
そのまま、「うわー!?」大河に向かって一直線に落ちてしまったのだ!
――水面との衝突音が頭の中で響く――忽ち気を失っていた
そしてゆっくりと沈み始め、遂には川底へと吸い込まれていったのだった――