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第一話 男は死んだ……しかし、悔恨を晴らす機会を与えられた、女神によって!(1)

      1 『谷井孝雄』という男の呵責


 今、息絶えようとしている者がいた。

 八十二年の生涯を全うすべく病院のベッドに横たわり、誰もいない個室で薄れゆく意識の狭間の中、本当に悔いのない人生を歩んでこれたのかと、この期に及んで誰しもが抱くであろう疑念に苛まれていた。

 確かに妻の正美、子供たち、その孫、自分の存在が確められる家族がいて、それなりに懸命に生きてきたと自負する。それでも過去の記憶を手繰っていると、脳裏の奥底に潜む、まるで金属の錆びた匂いを嗅いだ時のような、嫌な感触に出くわした。

 いいや……それは全くの詭弁だ。私は己を偽っている。本当は、どうしても忘れられない、何故防げなかったのかと後悔し続けた悪夢のような記憶が心の片隅に巣くっていた。私の命がある限り、頭から消え去ることのない心痛な出来事として……


 そう、あれは彼是かれこれ五十年以上前、私がちょうど三十歳の頃の話だ。迂闊うかつにも一人の青年を無残な死に追いやってしまった!

  ……………………


 その当時、言うまでもなくまだ若く血気盛んだった私は、毎日の単調な生活に嫌気が差し仕事さえもつまらないものだと感じていた。所謂いわゆる若者が経験するであろう、常に刺激を求め我武者羅に走ることへの欲求に支配された時代を生きていたせいだ。

 そこで何か刺激のある、安穏たる日々から逃れて自分の生の実感を十分満足させる物はないかと探した結果、スリルと達成感が得られる最も危険なスポーツ、冬山登山を思いついた。

 けれど、流石に初心者ともなれば一人では危険過ぎた。そのため同じ歳の親しい友人、島本も誘ってみることにした。すると、彼も私と同様の気持ちを抱いていたのか、二つ返事で快諾してくれた。ただ、これには少々意外な気もした。何故なら私が見る限り、彼は刺激を求めるにしてもアウトドア派ではない、どちらかと言えば静かな雰囲気の男であったからだ。

 まあそんなことはどうでもいいと、その時の私は深く考えもせず、それよりこれで新しい目標ができたのだから、彼とはお互い気の置けない友同士、気兼ねなく冬山に挑戦できると胸を高鳴らせていた。


 それからというもの、私たちは会社の帰りや休日を利用してトレーニングに励んだ。登頂するには相応の冬山に耐え得る体力が必要だ。それゆえ、確りと訓練だけはしておかないといけない。

 ところがここで、些細な障害も出てきた。その頃、私は今の妻、正美と付合っていたのだが、登山の話をしたら当然のように猛反対されてしまったのだ。――たとえどんなに反対されても私の決心は固かったのだが――仕方なく私は何度も説得する羽目に……。そして一か月後、懸命なる能弁が功を奏したのか、それとも彼女の方が根負けしたのか、兎に角許してくれた。まあ、漸く最初のハードルは越せたということだ。これで心置きなく練習に打ち込めた。


 そうして二ヶ月が過ぎ、遂に最終トレーニングを終え準備万端決行の日となった。


 私たちは順調に頂上を目指して進んでいった。天気は良く、風もない絶好のコンディションだ。私は思う存分自然の脅威を肌で感じながら登っていた。

 だが、午後になってから急に風が出てきた。舞い散る雪で視界も悪くなり、周りを見通せないほどに変動した。これでは前に進むのも困難か?

 それならと、テントを建てて少し休憩することにした。焦りは禁物、体力を温存しなければいけない。そう自分に言い聞かせた。

 極寒の冬山では、暖かい食べ物だけが体力を回復させてくれる。ただちにコンロを暖め、鍋に食材を入れ食事を取った。何とか無事にここまで来れたとホッとする瞬間だ。

 そして食事を終えたところで、島本が徐にポットを取り出し、

「孝雄、コーヒーを飲むか?」と訊いてきた。

 私がコーヒー好きなことを彼も知っていて、ご丁寧に用意してたのだろう。即座に、

「ああ、頂くよ」と答えて、差し出されたコップを受け取った。

 すると次に、何故か島本の様子がおかしくなったような。少しソワソワしたかと思ったら、

「ちょっと、外の状況を見てくるから」と言い残してテントから出て行ったのだ。

 私はそんな彼の行動を気にする余裕もない。のちの行程を考えることだけで精一杯だった。もう少し速いペースで進まないと小屋に着かない、三時までに到着しないと危険だ、などと思案していた。

……ところが、その時! 突然、地鳴りのような物凄い轟音が体の芯まで響いてきて、それと同時にガタガタと地面が揺れ始めたではないか! 私は驚いて持っていたコップを落としてしまった。

 思いも寄らぬ地震? 否、雪崩だ! 雪崩が起こったのだ。私は気が動転して逃げるどころの話ではない、その場に平伏すことしかできないでいた。しかも、益々揺れは酷くなるばかりで、とうとうテントも崩され、私は恐怖で頭が真っ白になりながら必死でそのテントにしがみついた。……そして、走馬灯のように過去の記憶が駆け巡った後、覚悟を決めたのだった。もう、助からないと!

……が、しかし、そののちどういう訳か轟音が静まり地の揺れも穏やかになったような?

 もしや、雪崩をやり過ごしたのか? 運よく巻き込まれずに済んだ?

 そのようだ!

 何と、私は生き残れた。天地神明に感謝したことは言うまでもない。

 とはいえ、次にある心配事が私の脳裏をよぎった。「島本は?……」外に出て行った島本のことを思い出したのだ。

 私は急いで、力任せにテントを押し退け外に目をやる。……と、その途端、目前に見えた風景に肝を潰された! 実に、私のいる場所からほんの五、六歩先で、落雪が数百メートルに及び、全ての物を飲みこんでいたのだ。そこにできた巨大な雪の山こそがこの地の主人だ、とでも言いたそうな形貌で。

 私は驚愕と恐れでその場から一歩たりとも動けない。それでも辛うじて、「島本!」という叫び声だけは自ずと口にしていた。

 それから何度も、「しまもとー、どこだ! どこにいる」と呼んでみた。

 答えは、全く得られない……

 まさか、雪崩に巻き込まれたのかー!

 私は酷く不安になり、遂には「し、ま、も、とー!」と膝をついて泣きながら名前を叫んだが、聞こえてくるのは山に木霊する自分の声だけ、彼の声は微塵も聞こえてこなかった。……やはり、最悪の結末を迎えていたのだ。

 私はその場で泣き崩れた。もう諦めるしかないのかと悲嘆して。そのうえ、冬山に誘ったせいで彼を死なせる羽目になった罪悪感が重く圧し掛かってきた

「すまない……島本」私は彼に心の底から詫びた。

 そうして一人小屋へ向かい、己だけが生き延び平地に帰ってこれた。無念さに打ちひしがれつつ。

  …………………………


 かくして月日が流れた。私は今、若い彼の人生を奪ったという自責の念を背負ったまま、八十二歳の生涯を終えようとしている。

「許してくれ、わるかった。ううう、島本」いまわの際に許しを請うた。

 その後……病院のベッドの上で、私は息絶えていた!


――どれだけ過ぎただろうか、気づいた時には、私の意識が自分の肉体を足元の方から見ている。所謂いわゆる、幽体離脱という現象が起こっていた。深夜の病院にあっては、医師も暫くの間は私という亡骸の存在を知る由もないのだろう。部屋には誰の姿も見当たらなかった。

 するとその時、不思議な現象を目の当たりにする。突然、目も眩むような光が現れたのだ。これは死後の世界の洗礼か? 私は訳が分からず立ち尽くしていると、次に光の中から……えっ、女? 少しウエーブのかかった金髪、西洋風の顔立ち、豊満な胸をした美女が出現したのだった! 同時に頭の中でも声が響く。

「我は女神。貴方の宿業を浄化するために現れました」と。

「えっ、め、女神ですか?」と私は即座に聞き返した。霊となった今では驚きも湧かないが、それでも奇妙な出来事に戸惑った。

「そうです。貴方は何十年も苦しんだ。その苦しんだ分を静穏に変えるのが私の使命なのです」

 何とも、理解し難い話だ。天上界にはそのような死者を慰めるルールがあるのだろうか?

 だが、そんなことはどうでもいい、私の苦しみをどう浄化してくれるというのだ?

 そこで、半信半疑ながら訊いてみた。

「どうやって?」

 そうすると、生前ならば驚嘆するであろう返答を告げられたのだ。

「貴方が最も心を痛めた過去に帰してあげます」と。

「ええっ! まさか、過去に帰してくれるですってー?」もう一度戻って、やり直せと言うのか。これを聞いた時は、本心から喜びが込み上げてきた。

 さらに彼女の啓示が続いた。

「けれど注意してください。過去を変えると思わぬ結果になることがあります。よーく考えてから実行するように。安易な選択はいけませんよ。さあ、再び人生を楽しみなさい」と言った後、女神はあっという間に霞のごとく消えてしまった。

 その途端、彼女の言葉が現実のものに……

 何と、私は、あの日の冬山のテントの中へ、戻っていたのだ!――島本が目の前にいる。勿論、彼は生きていた――

 全く信じられない! 己の目を疑うような光景だ。それでも、明らかに島本の姿を目にし、彼の声を聞いた。

「孝雄、コーヒーを飲むか?」と。

 私はすぐさま我に返り――その言葉を聞けてどんなに嬉しかったことか――「ああ、頂くよ」と満面の笑みで答えた。これで彼を死なせずに済むと感謝の気持ちで一杯になりながら。

 だから次に、「ちょっと、外の状況を見てくるから」と島本が運命の一言を口にした瞬間、必死になってめたのは当然のことだった。

「いいや、嫌な予感がする! 今は出ないほうが利口だ。もう少し待ってからにしろよ!」と。

 島本は、私の忠告に戸惑っているようだが、

「うっ、……まあ、お前がそこまで言うなら、後にするか」と不信な顔を見せつつも、その言葉を受け入れてくれた。

 よかった、これで何とか救えたぞ!

 そう安心したところに、物凄い轟音が聞こえてきた。やはり雪崩が始まったのだ! ガタガタと地面が揺れだしたなら、コップを落とし地震に任せてテントにしがみついた。前回と同じ現象だ。

 そして暫く揺れが続いた後に、自然と雪崩は終わっていた。

 そうだ。島本と私は無事だった。無傷で私たちは冬山を征し、二人とも生きて帰ることができた! やっと悔恨の情から開放されたのだ。私は心置きなく新たな人生を過ごしていけると、その時は晴れ晴れしい思いだった……

  ……………………


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