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これで終わりです。お付き合いいただき、ありがとうございました!


 山なんとか努……? 分かんない、どこの学校? あ、浪人生? じゃあ全然分かんない、うーん、夏期講習で一緒なのかもって三年生でしょ? 一年の勉強したって仕方ないじゃん、受験の傾向と対策とかするんだろうし。顔が? うん、お笑いの? ごめん、あんまりテレビ見ないもんで分かんない、格好いいの? ふうん、バイク乗ってる人かー、ごめん、ちょっと分かんない。

 なにその山なんとか、って。山田? 山崎? 山岸? 山辺? 山入? なんで苗字分かんないの? 名前分かんなきゃ人捜しは無理でしょ、うん、確かにその予備校は行ってるけど、他の学年の人どころか同じ教室の人だって、制服で高校判断してるレベルだよ、分かんないよ、名前とか。なんでその人捜してるの? 彼氏? ……のわけないか、名前分かんない彼氏なんていないもんね、ごめん、分かんないや、役に立たなくてごめんね。

 知らねー、他人に興味ない。ってか、予備校なんて親が勝手に金払っただけで、あんまし行ってない。サボるのも毎回だと苦労するんだよなー、小遣い多いわけじゃないからさ、毎回ゲーセン行ったりするわけにも行かないし。い、悪い、全然分からん、大体、男なんか見てねーよ。

「むう、確かに浪人生だと受験のための勉強だから、高一のうちらと同じ教室になるはずがないか……」

 昼休み中に学校近くのスーパーへ出かけて買ってきたグレープフルーツのパックジュースにストローを突き立てる。一緒に買ったのは厚切りフルーツパウンドケーキは一切れずつの個別パックで、ビニールを破くと甘い匂いがした。お弁当を食べたばかりなのに、甘いものは別腹。レーズンやくるみ、杏、無花果、干した桃、林檎などが入っていて、愛美が買ったチョコレートパウンドと半分コにする。

「三年生に知り合いがいれば別なんだろうけど、」

「わたし、三年生知らない。部活とか入ってれば先輩とも知り合えるんだろうけどね」

「でも部活やってると予備校なんか通えないんじゃないのー?」

 パウンドケーキは思ったよりもバターが使われているらしく、半分に千切ると指がべたべたする。薄く膜を張ったように。そっと指先を鼻に近づけると、バターのべたべただと信じているせいか、獣の脂の匂いがした。

「なんか、意外と市内も人って多いよね、休みの日にだって、そういえば一日中外にいたって、知り合いにはひとりも会わない日だってあるし」

「そうだよねー、昨日は駅前で買い物してたよ、わたしもだよー、なんて話しても、会わなかったよね、ってしめくくりになることのが多いもんね」

「……ね、本当のこと、言ってね?」

「ほえ?」

 フルーツパウンドケーキを食べ終えて、次はチョコチップのごろごろ入っているチョコパウンド、と人差し指と親指だけで支えたそれを、口に近付けたところで、愛美がさっきより小声になって聞いてくる。

 何が本当のことなのよ、と、チョコケーキはそのまま口に放り込まれた。さすが厚切り、大き過ぎて口の中の水分があっという間に吸い取られたのはもちろん、もそもそと口一杯になってしまって咀嚼が上手くできない。ヤバイ、失敗、とこっちが焦っているのには気付かないで、愛美は続ける。

「……好き、なんでしょ?」

「はひは? はんほほほ?」

「リカコ? ……って、何口一杯にしてんの、リスみたい!」

 いや、食い意地の張った子供だー、と笑われて、むうむう言うわたしに自分が飲んでいたペットボトルのお茶を差し出してくれた。それを断って、グレープフルーツジュースのストローをくわえる。甘いチョコレートの味が、グレープフルーツの苦味を引き立たせてしまい、口の中がものすごい味になる。さっきのフルーツケーキには結構合ったのに。

「うへー、苦甘いー」

「なんでいっぺんに口に入れんのよ」

「愛美、お母さんみたい」

「いや、しかしあのほっぺ膨らました顔はおかしかった」

 でも好きなんだよね、と違う話題からまた元の話題に戻ってつなげられても。きょとんとしてしまうばかりで。

「……何が? 何の話?」

「またまたー。好きなんでしょ、だから」

「チョコケーキ?」

「なんでチョコケーキの話になるのよ、ちっがーう! リカコの話! ……っていうか、山なんとか努さん」

「……はい?」

 リカコの話で山なんとか努さんで、って、努を? 誰が? わたしが?

「なんで?」

「なんで、って、こんなに一所懸命捜してるじゃん」

「それは、いきなり連絡が取れなくなったからだよ、よく遊んでいたのにいきなりいなくなったから、」

「いきなりいなくなったから気になるんでしょ? で、捜してるんでしょ? それって、好き、ってことじゃん」

「なんでそうなるの、違うよ、えー、好きなんかじゃ……だってその好きって、恋の意味でしょ? えー……?」

 努が好き? 好き、ってことは付き合いたいということで、付き合うってのはキスしたりエッチしたり、手をつないだりデートしたりすることで。努と? わたしは努とそんなことをしたいと思ったことはない、その前に響先生がいたし。響先生に、そういう感情は持っていたし、確かにどこか間違えていたらしくて途中で逃げ出してしまったりはしたけど、でも、努には、そんな感情は持ったことはない、だとしたらそれは好きとかそういうのではなくて。

「違うでしょー、えー、努が好き? わたしが?」

「リカコはさー、鈍すぎるよ、そういうの」

 鈍いと言われてムッ、とする。わたしはしっかり者のリカコちゃんで。小学校、中学校の頃の話だとしても。

「いや、別に全体的に鈍いって言ってるわけじゃないよ? 恋愛において鈍いって言ってるの、全然人の気持ちとかに感付いてないでしょ、リカコ、うちのクラスの男子で、あんたを好きな人がいるのも知らないでしょ」

「はー、うっそ、誰よ?」

「うわー、やっぱ気付いてなかった!」

 うちのクラスの男子ふたりの名前を教えられて、だけどわたしにはピンとこない。

「気のせいなんじゃないの?」

「あのね、大山はあんたが週番の時だけ、ちゃんと生活ノート提出してんのよ。朝会のときにだけ広村が遅刻しないのって、出席順で並ぶと二列になったときにあんたの隣になるからなのよ」

「えー、そんな中学生みたいな。気のせい、もしくはたまたまだよー」

「じゃなーい、あんたうちのクラスでも可愛い部類なの、自分でも知ってるでしょ!」

 自分でも可愛い部類だと思う、なんて言えないじゃないか、どちらかといえばうちのクラスの女の子達は男の子みたいな、ちょっとガサツな子が多いと感じてはいたとしても。

「でも、それは気のせいでしょ、本当に」

 人から好かれて嬉しい、と感じるタイプの人がいるのは理解できる、好きと言われたら自分も好きになってしまうとか、でもわたしはそういうタイプじゃない。というよりも。

「……なんか、自分に自信がなくなってきた」

「えっ、どうしたの、リカコ?」

「わたし、恋愛できない人間なのかも……」

「ど、どうしたのよ、なんで、今うちのクラスの男から好かれてるって話したばっかじゃん」

「それ、間違いのような気がするんだけど……。でも、万が一好かれてたとしても、わたしはその人達に心動かされないんだよ、別に、へー、って感じなんだよ、なんかさ、わたし自信なくなってきた……」

 大山と広村がこんなところで振られてる、と愛美は笑っているけれど、笑いごとじゃない。好きとか好きじゃないとか、恋人とか恋人じゃないとか。どうやってみんなは線を引くんだろう、どうすれば線が引けるんだろう。一目会ったそのときから、相手が輝いて見えました、というのなら話は分かるけれど、世の中にはずっと友達だった人間をある日突然好きだと気付いたりするものでもある、という話もたくさん転がっている。

 好き、って。

 何。

「愛美は、どうして崇さん好きになったの、付き合うとき、この人と付き合うんだーって違和感とか感じなかった?」

「どうして好きな人と付き合うのに違和感感じるの」

「この人が好きだ、って、どうして分かったの?」

 不思議で仕方がない、響先生を好きだと思っていたのに誘い逃げして、だったらわたしの「好き」はみんなのレベルの「好き」よりもっともっと程度が低いのかもしれなくて。だったら、この先、恋なんてできるのかどうか。

「どんどん不安になるよー!」

「パウンドケーキもりもり食べて、ジュースすすってる女が叫んでもあんまり。危機感がないっていうか」

「なんでよ! わたし、ストレス太りするタイプだよ?」

「うっそ、リカコが? どこが?」

 高校受験のとき三キロ太ったもん、と言ったら、そんなのは誤差の範囲、と言われてしまった。

「もー、じゃあ誤差の範囲でもいいけどさ。愛美は崇さんと付き合うとき、違和感なかったの?」

「だからなんで違和感があるのよ、そっちの感覚のが分かんないって。えー、彼氏できたきゃっほー! ってくらいなんじゃないの? 好きな人と付き合えたんだったら、小躍りしたくなるほど嬉しいとか」

「でも、でも、片想いしてたときと違って、付き合うと相手のいろいろが見えてくるわけでしょ? あ、なんか想像と違ってた、ってときはどうすればいいわけ?」

「そんなのあんた、妥協でしょ。自分だって幻滅されてるところが出てきてるかもしれないし。でも、相手の知らなかった部分、って、怖いばっかじゃないよ、弱いとことか、なんか違ってたな、ってとことかも、愛しいって思えたりするし」

「そういうのを、愛しいって思えなかったら?」

 どうしたのリカコ、と愛美が怪訝そうな顔をする。自分の分のパウンドケーキを一口大にちぎり、口の中に放り込んでる。いいな、という顔をしたら、自分の分は食べたでしょ、と笑われた。

「何を心配してるのよ」

「だって、心配じゃんか」

「何が」

「わたしもちゃんと、誰かのこと好きになれるかな」

「中学のときの家庭教師の先生、好きだったんでしょ?」

 好きと憧れの区別が付いていない。付き合うってなんだろう、エッチとかキスとかから逃げちゃったら、付き合うってなんになるんだろう。

「あのさー、そんな俗物的な事柄にだけ縛られるものじゃないんじゃないの?」

「じゃあ、メールでだけ交流のある、顔も見たこともなければ会う予定もなくて、電話ですら接触したことはないけど内面を晒し合ってるふたりがいたとして、それは付き合ってることになるの? 恋人同士ってことになるの? 本人達が付き合ってるって言い張ったら、」

「ちょっとー、リカコ、それはうちらの悩むべき問題じゃないって、どうしたのよ?」

「なんか、わたし恋とかできない気がしてきたよー、どうしようー。エッチとか怖いもんー」

「そんなの、時期がくれば自然と怖くなくなるよ……多分、」

 努を捜す話がいつの間にかズレてしまっている。ベランダから見る空は高くて青くて、呑気そうなのが癪に障る。

「あ、そういえば山なんとか努さんの番号って何よ」

「番号?」

「携帯の。私の携帯からかけてみたら、結構あっさりつながっちゃったりしてね」

 そんなことって、もしそれがあったら、わたしがそのまま無視されていることの決定打になってしまうような。だけど家の電話でかけてみたりもしていなかったし、毎回自分の携帯でだけで連絡を取ろうとしていたし。

「……でも、知らない番号からって出なくない?」

「あー、私も出ない、っていうか、でも最近ワンギリってないよね」

 ものは試しで、と言われたので、自分の携帯を開いて発信履歴を表示する。ツトム、の十一桁の番号を読み上げると、愛美が自分の携帯のボタンを押していった。

「かかったら笑えるよねー」

 通話ボタンを押して発信させる。呼び出し音は聞こえない、ボリュームの設定を小にしているのだろう。時々やたらと通話音が大きかったり着メロを最大で設定している人とかが街中にいて、道を歩いているだけでやたらと驚かされることがある。会話、駄々漏れですよ、みたいな人がいたり。大きすぎる着信音に本人がびっくりしていたり。そうかと思うと、明らかに鳴っている携帯の持ち主だけが気付いていなくて、周りが迷惑そうな顔をしてたり。

 しばらく呼び出し音を鳴らしていたらしい愛美が、突然携帯を耳から離した。ほら、どうせ出なかったんでしょ、と言おうと思ったら。

『……もしもし、誰?』

 わたしの方に差し出されたモスピンクの携帯電話からこぼれてきたのは。

 聞き覚えのある声。

「えっ、」

 どうして愛美の携帯が、努とつながっているの?



 努の声が他の人の携帯から聞こえる。やっとつながった、という感激より、どうして胸の奥がざらりとする苦さの方が強いんだろう。痛い、というより、苦い。吐いた後のすっぱい喉みたい。周りから見れば普段と何も変わらないのに、本人だけが不快感を抱えてる。

 なんだろう。

 わたしじゃなくて、どうして愛美? って。別に愛美が憎いとかじゃないけど、なんだろう、なんだろう、もやもやした感じ。だって愛美は努と会ったことがない、わたしを通して知ったのも最近のことで、わたしの方が仲良くて。

 嫉妬?

 仲良い友達を取られたような?

 喉の奥が、ちりちりする。

 いやいやをするように頭を振れば、長い髪がワンテンポ遅れてその軌道を追ってくる。首を撫でるように絡む、絡むように撫でる。長い髪、響先生が切れなくした髪。

「あー、もう、」

 目を開けたら知らない天上があって、驚いて起こした半身には引っかかっているだけのブラジャー。慌てて布団をめくると触り心地も柄も違って、自分の足の隣にすね毛の生えたもう一本の足が視界に入って――。

 そういうのに憧れていない訳ではない。

 酔っ払って知らない人に拾われて帰るとかではなくて、自分の、大切な人と向かえるピカピカの朝、を。

 狭いベッドにぎゅうぎゅうと眠っている相手は、できればわたしより背の高い人がいい。抱き込まれたら周りからすっぽり見えなくされてしまうくらいの。警戒心のない寝顔。無精ヒゲ。鼻をつまんだら、きっと息が詰まってしばらくしたら目を覚ますだろう、もしくはわたしが起きたときにはもう目覚めていて、寝顔見ちゃってた、なんて笑われるのもいい。そうしたら照れてわたしは怒るだろう。

 初体験、に抱いていた、わたしのイメージ。

「そんなの、エッチ後じゃん、後!」

 独り言でも口にしないと、なんだか切なくなる。 

 自分を笑っておかないと、泣いてしまいそうになる。

 お子様なリカコちゃん。

 どこがしっかり者だって?

 よだれ垂らしてた、なんて言われて、急いで唇をぬぐうと、嘘だよ、と微笑まれる。ひどい! って言いながらわたしも唇の端がむにむにして結局笑ってしまって、好き、なんて言いながらキス、して。朝ご飯はどうしよう、ご飯とお味噌汁って感じじゃない、バターいっぱいのトーストとオレンジジュースとサラダ、相手はきっと野菜が嫌いだから渋々って感じで食べる。もしくはフレンチトースト、牛乳と卵をたっぷり使って、メイプルシロップもあふれんばかりに。もしくはブランチ、トマトケチャップのナポリタンとか、ツナのスパゲッティとか、パスタ関係ばかりが思い浮かぶのはなぜだろう。

 ドラマやマンガや小説で、そういうシーンを見たんだと思う。重要な部分はいつも隠れていて見えない、大人が見せないようにしていてだけどわたし達は覗く術を知っている、こっそりと、でもわたしはそういう重要なシーンに興味がないらしい、まだ、知りたくないと思ってる、生々しい部分には目を閉じておきたい耳を塞いでおきたい、お子様な。

 お子様な、リカコちゃん。

 日曜になら、と努は電話の向こうで言ったらしい。

 愛美のモスピンクの携帯の向こう。

 わたしの真っ赤な薄型携帯とは、つながろうともしなかったのに。

 急に連絡が取れなくなって心配してますよ、と愛美は言ってくれた。わたしに代わろうとはしなかった、わたしも代わって欲しいとは思わなかった。愛美の携帯を握った瞬間、通話が切れたらもう立ち直れなくなる。理由が分かっているならともかく、どうしてここまでいきなり嫌われないといけないのか。

「……なによ、日曜日ってさ、」

 もったいぶって。愛美の携帯が努とつながったのが水曜日。指を折って数える、木、金、土。その次の日。そんなに長く、努を待ったことはない。

 立場が逆転してる。

 わたしが、待たせる方だったのに。

「ムカつくー」

 指を折って数える、金、土、その次の日。

 指を折って数える、土、その次の日。

 指を折らなくて思う、明日――。

 連絡しなくなったのは死んでたからじゃないし、生きてたのが分かったんだからもういいだろ、という努に、愛美は「顔を見せなきゃまだ生きてるって信じない」と言ったらしい、それで努が指定したのは駅前にあるチェーンのコーヒー専門店だった。なんでそんなところを、と思ったけれど、全面ガラス張りのあの店からだと駐輪場に停めてあるバイクがしっかり見えるはずだと気付いた。

 バイクバカな努らしい。

 日曜日の朝、約束は夕方なのに、普段学校へ行くときよりも早くに目が覚めた。ねぼすけのリカコが珍しい、と、休みの日でも普通どおりに起きているらしい母親がお風呂掃除の途中で声をかけてくる。珍しくないよ、と言い返してから、日曜日に朝ご飯を食べた記憶がここ最近ではなかったかも、と思った。六枚切りの食パンをトーストして、バターを塗る。ぼんやりと齧りながら、努と出会う前は何をしていたんだろうと考える。

 努と出会う前は、ひとりでふらふらと夜の散歩をしていた。六つ年上の姉を厳しく育てすぎて、大学入学と同時に二度と家に帰らなくなってしまった彼女が反省材料になったのか、わたしは随分と放任で育てられていたから、夜の散歩も十時を過ぎなければまず何も言われなかった。携帯だってある、何かあれば助けだって呼べる、連絡だってすぐ取れる。

 行ってきます、と、ただいま、さえちゃんと告げていれば、親はそう心配をしないでいてくれる。心配されてしまうのは、どこで何をしているのかが分からないせいだ、内緒で悪いことでもしているんじゃないかと思われたら最後、なんだかんだと言われることになる。

「なんかお天気悪いわねー」

 洗濯物、二階の干し場に持って行ってよ、と母に言われて、洗濯済みの洋服が入ったカゴを運んだ。

 努と出会う前の自分――。

 努と出会ったからって、ものすごく何かが変わったわけじゃない。

 人生観が変わったとか、性格が変わったとか、人を見る目が変わったとか、そんなことは何もない。

 何もないのに、努と会うことができないと、夜の散歩も色褪せて楽しさが半減するような気がする。ぽっかりと胸がスカスカする。失くしてはじめて大切だったことを知る、なんて格好悪いし、大切なら最初から大切にしとけ、と思っていたけれど、自分がいざそうなると慌てるものらしい。

 好き――?

 愛美に言われて、努なんかそんな目で見たことないよ、って言い返したけど、どうなんだろう、少なくとも出会いの期間の長さなんかでは人の好き嫌いは決まらないんだってことが分かるくらいは嫌いではなくて、好きかもしれなくて。

「混乱するー!」

「リカコー? 何ひとりで騒いでるの、暇なんだったらお洗濯物干しといてよー」

 階下から母の大きな声がして、嫌だ、というのは面倒くさがってる以外の理由にはならないし、と、たまには手伝いをすることにする。

 確かに灰色の雲が青空より広い範囲を占めている。降るかな、と思っていたら予想通り、約束の一時間前にぽつぽつと雨が落ちはじめた。

 待ち合わせ場所には、愛美も来てくれることになっていた。別に用事はないし、話すこともないから、という努に、無理やり約束を取り付けたとき、じゃあ電話してるあんたも一緒なら、と言われたらしい。ふたりきりで会うのが嫌なのかな。今までふたりきりでしか会ったことはなかったのに。響先生がちらりと、混じったことがあるくらいで。

 行けなくなったレンタルビデオ屋を思う、流れていた音楽だとか、新刊が積んであるマンガの棚とか。そこにいた響先生を思い出そうとして、顔が上手く思い浮かばないことに気付く。



 降り出した雨はガラス張りの店内から、その叩きつける様子がよく見て取れた。そう大降りではないものの、風の向きのせいで丁度ガラス窓にぶつかってくる形になっている。ベーコンと目玉焼きの薄いサンドイッチ、アメリカンコーヒー。愛美が隣の椅子でそれらをすいすいと口にしていくのを、カフェオレボウルを両手で受け止めたままのわたしは見ている。

「なんかもっと、」

「……え?」

「リカコって恋愛慣れっていうか、男のあしらいが上手いかと思ってたのに」

 わたしも思ってた。ちょっと冷たくして、ご機嫌斜めのところを見せて心配させて、相手が困った顔になったところでにっこり笑う。安心してくれて、甘くなる。男のあしらい、だけじゃなくて、それは男も女も友達も親も、みんな同じだと思っていたのに。

「全然、だったね」

「……う、」 

 雨のせいで表は薄暗いのを通り越し、道を行く自転車も時々通る車もライトを点けているのが見えた。

「あー!」

「わっ、何よ、」

「時計!」

 思わず店内の時計のことかと思ってきょろきょろすると、違うよ、と突っ込みが入った。外せって言ったのに、と続けられて、腕時計だと気付く。

「だって、つけておかないと失くしちゃいそうで」

「だってそれ、山なんとか努さんじゃない男の人のやつでしょ?」

 六時を過ぎても、努は姿を現さなかった。日曜日って予備校あるんだっけ、と愛美に聞いてみるけれど、分からないと言われる。五分、十分、十五分、三十分。

 愛美はコーヒーのお代わりをして、わたしのカフェオレは冷えている。

「……来ないつもりとか?」

 クルミのガレットも頼んできちゃおうかな、と愛美が席を立つ。カウンターで先に注文したものをもらってくるようになっている店なので、リカコも何か欲しいなら、と言われたけれど断った。カフェオレも飲み切れずに持て余しているだけなので、他になにかいるかと聞かれても。

 愛美に行ってらっしゃいと手を振る、その背中が注文カウンターのところへ並んだとき、店のドアが開いて、雨の湿気っぽい空気が一緒に流れ込んできた。

 あ、と思う。

 努だ。

 ぐるりと店内を見回して、彼はすぐにわたしを見つける。目を逸らした方がいいのかそのまま見詰め続けていいものなのか、悩んでいるうちに努はさっさとこちらにやって来てわたしの正面に座った。

「……久しぶり、」

「……だな」

「バイク、で来たの?」

「……ん、」

 ぎこちない空気が気まずい、愛美早く帰ってこないかな、と、注文カウンターの方を見たいのだけど、努が目の前に座っているのでできない。

 二週間ぶりくらいに見る努は、何も変わっていなかった。たった二週間会わなかっただけなのに、それだけの短い期間、連絡が取れなかっただけなのに。何も変わっていないのに。なぜか、すごく久しぶりな気がする。それまでは、ずっと頻繁に会っていたせいだろうか。

「……もう、リカコはオレと連絡取れなくてもいいんだろ?」

「……は? なんで?」

「あの男と付き合うんだろ?」

「……誰?」

 なんだか会話が噛み合っていない。

「誰、って、あのレンタルビデオ屋の男、」

「響先生? なんで、どうして響先生とわたしが付き合うのよ」

「なんで、って、お前、そのなんだ、あの、処女もらってくれとかって話してたじゃんか」

 処女、のところだけ声が小さくなる、わたしも聞いてて耳が熱くなるのを感じる、どうして前はそんな単語を平気で口にしていたのか、自分が不思議になる。傲慢なこと言ってたよな、と。反省、より、恥ずかしくなって。

「違うの、あれは違うの、わたし、逃げちゃったの、途中でやっぱ怖くなって、それから会ってないもん、響先生とは。っていうか、それでなんで響先生とわたしが付き合うことになるのよ」

「はあ? 逃げた? なんだリカコ、お前何してんだ?」

 何してんだ、と言われても。愛美が帰ってこない、こうなったら見ちゃえ、と注文カウンターの方に目を向けると、すぐ傍の席で座ってこっちを見ている愛美が目に入った。小さく手を振って、にっこりしてる。

「って、なにしてんのよー、」

「いや、オレが聞きたい」

「あ、それは違って、こっちの話で、」

 わたしのカフェオレをつかんで努が引き寄せる。あ、と思う間もなく口をつけてる。ぬるい、と言われて。うん、と頷く。次の瞬間、大きな大きなため息をつかれた。

「……っていうかさ、も、何?」

「え、え、え、え、え?」

「オレさ、リカコがあの男と付き合うのかと思ってた」

「付き合わないよ、本当に、途中で逃げちゃったの、ホテルまでは行ったんだけど、部屋の鍵が自動的に閉まったらもう怖くなっちゃって、帰してーって」

「……で、無事に帰してもらったとか言う?」

 どうして努は疑わしそうな目をするんだろう。

「無事って? 無事も何も、そのまま帰してもらったよ、車で送ってもらって」

「……お前、男に対してそんな残酷な」

「え、え、え、何が?」

 オレ、リカコが分かんなくなってきた、と努が情けないような声で言って、それがわたしをドキリとさせる。それって、わたしのこと、嫌いになっちゃったってこと? そのまま彼はわたしにカフェオレボウルを返してから、テーブルに突っ伏す。

「オレさー、」

 はねさせている茶色の髪。くぐもった声がする。

「リカコがあの男と付き合うのかと思ってた」

「だから、付き会うも何もないって――」

「処女もらえなんていうのはすげぇ告白じゃん、ああリカコはこの男好きだったんだ、って、だからオレあのとき帰ったんだぜ? ファミレスで。惨めじゃん、好きな女が他の男に告ってて、なーんでオレがそんな現場にいなきゃなんないのって」

 だからもう連絡取るのもやめて電話もメールも無視、とか思ったのにお前バンバン電話もメールも寄越すしさ、と続ける努の声に、だけどわたしはもっと前のところで引っかかってる。なんか、今。さらっと、なんか。

「ちょっ、ちょっと待って、努?」

「なんだよー」

「今、今、さらっとなんか言わなかった?」

「はー? さらっと? なんかオレ、言った?」

 ヘルメット被るのにどうしてちゃんと髪がはねるんだろう、形状記憶合金? それともヘルメットを被るからこそこういう風にはねるの? なんて、ついついそらしたくなる意識を無理やり前に持ってきて。

「好きな女――」

 聞きかける途中で跳ね上がるようにして努が顔を起こした。きゃ、と声が上がる。顔。努の。目が。わたしを、見てる。

「オレ、なんか変なこと言ったっけ?」

「す、好きな女、とか、」

 言った。

 って、上手く言葉が出てこなくてドキドキしてる、今まで努とはくだらない話なんかをいっぱいしてて、男とか女とか関係なくて、なのに、なんで。

 なんで今、目の前で見詰められててドキドキするんだろう。

「好きって、」

「好き? 何が?」

「好きな女って、さっき言った……」

 あ、って表情になる。さっきから、わたし達の会話に店内中が耳を傾けているような気になってしまう、そんなことはないのに。他の音が聞こえてこなさ過ぎる、本当はBGMも他のテーブルの人達のおしゃべりも、雨の音だって満ちているはずなのに。ここに、わたしと努しかいないような。

 ちぇっ、と軽い舌打ちをされて、俯いていたことを知り、ふと正面を向く。

 照れたような、努の顔が。

「そういうのは恥ずかしいから苦手なんだよ、」

「苦手って、」

「分かり切ってること再確認するのって恥ずかしいだろ、好きとか嫌いとかはさ、」

「好きって、誰を、」

「……リカコも案外嫌な奴だな」

「っていうか、もしかして、」

「……なんだよ、」

「……わたしのこと?」

 ピタリ、と。

 世界が音を立てて止まる、目をまん丸にした努がゆっくりと瞬きをする。

「……は?」

 一拍の間が空いて、ぶ、と吹き出した努がぶはははははははは、と大きく笑い出す。驚いた他の席の人が、なんだなんだとわたし達の席に視線を向けている。愛美も驚いたように腰を浮かした。

「なっ、ちょっ、努?」

「わはははは、おいー、マジかよ!」

「なにがよー、もー、そんなに大きな声で笑わないでよっ、」

 あんなに一緒にいたのに、と言われて。ドキッ、とする。

「あんなに一緒にいたのに、なんも伝わってないのかよ」

「伝わるって、」

「オレ、あー、悪い、自惚れてた、すっかり気持ちは伝わってるもんだと思ってた。言わなかったんだっけ、リカコはこういうの鈍かったんだな」

「鈍いって、ちょっ――、」

「オレ、リカコが好きなんだ」

 好きなんだ、の言葉が耳に届く前に、頬は赤くなっていたと思う、心臓が別の生き物みたいに、喉から飛び出しそうに大きな音を立てる。努の照れくさそうな笑い顔が、やらわかく持ち上がった唇が、細められた目が。わたしをクラクラさせる。それって。

「だから、別の男に処女もらってもらうなんて言い出すからさ。オレ、てっきり振られたと思った、だけどお前、なーんにも気付いてなかったのか、無神経だよなー、まったく」

「えっ、えっ、えっ、えっ?」

 頬も耳も、燃えるように熱い、きっとわたしは熟れすぎたトマトみたいな色の顔になってる。

「ご、ごめんなさい」

「って、それ、なんのごめんなさい?」

「えっ、あっ、」

 努が、見てる。

 ただ、それだけ、なのに。

「えっと、無神経っていうか人の気持ちが分かんないっていうか、」

「こういうリカコ、初めて見た気がする」

「え、え、えええっ、な、どんな、って、」

「パニクってるリカコ。しかし、まさか本気で気付いていなかったとは」

 またカフェオレボウルを取られて、今度は中身を飲み干された。今更、なことに気付いて、わたしはますます顔に血を昇らせる。関節キス、なんて。コーヒーやジュースの飲み回しなんて、幾度となくしたのに。今時、小学生でもそんなことでは騒がないだろうに。

「ちょっと、さっきからなんで赤くなりっ放しなのよ」

 こんにちは、と別方向から声が降ってくる。ちっとも戻ってこなかった愛美だ。

「山なんとか努さん、はじめまして」

「電話の人? オレさ、ずっと聞こうと思ってたんだけど、山なんとか努さんって、なに?」

 わたしの隣に腰を下ろして、愛美がちらりとこちらを向く。何かを聞きたそうな目だけど、分からなかったので両手を頬に当てたまま首を傾げる。手の平が熱い。

「……リカコ、あなたの苗字うろ覚えで」

「あー……オレ、矢岸って言うんだよね、悪いけど山はつかないんだ」

 リーカーコー、と怒られて、ごめんなさいっ、と叫ぶ。

「信じられない、間違った名前であんな必死に探してたなんて!」

「……そんなにリカコ、オレと連絡取れなくて焦ってた?」

「焦るどころの騒ぎじゃないですよ、私とリカコ、ケンカしてたのに、矢岸さん捜すので一時停戦したくらいですもん」

「一時停戦? じゃあ、オレ見つかったからって、またケンカすんの?」

 愛美がまたわたしの方を向くから、ぶんぶんと首を振っておいた。

 しかし、山田さんじゃなかったのか、努は。わたしの記憶力もいい加減すぎて、努は努だし、と開き直ることもできない。

「あははは、しないって。あ、矢岸さんってバイク乗る人なんですよね、いいな、うちの彼氏はバイク乗らないから、今度後ろ乗っけてくださいよ。なあんて、」

「あー、いいよ、今日は雨だからやめといた方がいいけど、晴れたときにでも――」

 目の前で交わされていた努と愛美の会話を、それまでは黙って聞いていられたのに。

「――ダメっ!」

 それはダメ、と思ってしまったのは、あのバイクの後ろが。

「それは、愛美でもダメっ!」

 わたしの特等席だと。

「絶対ダメー!」

 自分の中で決めてしまっていたからなのかもしれない。

 突然叫んだわたしを、努も愛美も目を丸くして見ている。何どうしちゃったのこの子、みたいに。でも、努のバイクの後ろに、他の誰かが乗ることを想像するのがすごく、嫌で。

「……リカコ?」 

 努のバイクの後ろはわたし以外が乗ったら嫌だと、思わず声を大きくしてしまう。ふたりはきょとんとしてわたしを見ていたけれど、やがて愛美が鼻にしわを寄せてにやりと笑い、努が照れくさそうに目を細めた。

 あれってば、すっごい告白だったよね、と後で愛美に言われるまで、自分の言ったことがそれ以上の意味を持つなんて、分からないままでいたのだけれど。



 いらっしゃいませ、ご予約ですか?

 あ、二時からの予約で、神澤ですけど。

 はい、神澤さま。今日はカットですね、どのような髪型をご希望でしょうか。

 あの。

 はい。

 ……ばっさり、短くしてください。

 はい、ではこちらにショートのカタログをお持ちしますので、ご覧になって下さい。

 雑誌で見て予約した美容院は、ただ家から近いという理由だけで選んだけれど、マニキュアが窓ガラスの一列にずらりと、色の薄い順に並べられていたり、ゴミ箱が果物の形に編まれた藤の籠だったりして可愛らしい。当たりかもしれない、と嬉しくなる。

 通された中央の席は待つ人用のものらしく、カラーリングの途中の人だとか、パーマのロットを巻いてもらっている人だとかも座っていた。

「いらっしゃいませ、本日担当させていただく茶木です。今回はどのような髪型をご希望でしょうか?」

 可愛らしいスカートを穿いた美容師さんは、わたしよりも少し背が低いかもしれない。見ていたカタログを指差して、二十九番か三十二番みたいな感じで、と告げる。

「あらら、ばっさりいかれるんですねぇ」

 わたしの髪を持ち上げて、後ろで束ねてみせる。

「お耳出すのとギリギリ出さないのと、横側だけ梳いてちょっと長めにしておくのとで全然印象別ですけど、どうされます?」

 鏡の中に映る自分。鼻の頭てかっちゃってる! とか思ったら、顔が赤くなった。人に触れられる髪、響先生に触れられた髪、そこから切れなくなってしまっていたけど。

 ばっさり、お願いします。

「ばっさりいきますかー。じゃあまずお髪濡らしますね、シャンプー台の方へどうぞ」

 髪が濡らされて、やわらかなタオルで拭かれて、散髪台へ促される。濡れた髪はいつもより長く見えた。肩を通り越して、胸の少し上まである。こんなに伸びたんだ、いつの間にか。

「長いですよね、どれぐらいかけて伸ばしました?」

 一年半、とか、二年、くらい?

「痛んでないし、元から髪質がいいんですねぇ。せっかく伸ばしたのに、って思うと、ちょっと勿体無いですね」

 美容師さんは可愛らしい格好をしているので年が分からなかった。ふわふわの茶色い髪の毛を右耳の下でやわらかくルーズに括って、キラキラのピアスが覗いている。

 失恋ですか、なんて聞かれたらどうしようかとドキドキしていたけれど、最近では失恋イコール髪を切る、なんてことは言わないのかもしれない。

「でも髪はね、切って後悔しても時間が経てばまた伸びますし」

 切ってから後悔しますかね、わたし?

「わっ、あたしの言い方なんかネガティブでしたね、腕には自信がありますよ、失敗はしないですよ、大丈夫ですよ?」

 あはははは、美容師さん面白い人ですねぇ。

「面白いって言うか、どっか抜けてるんですよー、よく言われるんです」

 クリップで髪を細かく留められて、そのうちの一本だけ解かれてハサミが入れられる。しゃき、と音がして、そこだけ髪が切り取られる。

「頭の形が綺麗だから、短いのもお似合いだと思いますよ」

 そうですか?

「でも珍しいですね、夏に向けて短くする人はいますけど、これから寒くなるってときに短くする人って」

 変ですかね?

「あーっ、変じゃないです、変じゃ! だけど、なんで短くしようと思ったんですか?」

 長いの飽きちゃいました? と聞かれたけれど、違います、と答える。

 ……バイクに乗るんで。

「バイク? え、バイクに乗る方なんですか?」

 あ、わたしは免許もバイクも持ってないんです、後ろ専用の人間なんで。

「あっ、彼氏がバイク乗る人なんだ!」

 彼氏、って。

 言葉がまだ慣れなくて照れてしまう、一瞬緊張する。

「あー、ヘルメットね、確かにあれって長い髪だと、脱いだ後がぐちゃぐちゃになりますもんね。ツーリングとかするんじゃなくて、後ろ専門のままなんですか?」

 いや、バイク怖いんで。

「え?」

 あの、バイク、怖いんです、スピード出るところとか。本当は、後ろに乗るのも怖いまんまで、何回乗っても慣れないんですけど。

「あらー、じゃあ彼氏さんに付き合ってあげて、怖いの我慢してるんだ! いい彼女さんだー」

 そういう訳じゃなくて、と口ごもる、上手く言えないしこういうところで話しかけられるのって苦手だ、知らない人に合わされながら会話するのとか。

 わたしがしどろもどろになっているうちにも、髪はしゃきしゃきと切られていく。床に散らばる黒い髪が、思った以上の量になっている、頭軽くなるかな、と落ちた髪が視界に入るたびに思う。

 響先生が撫でた髪を切って。

 これから、努が撫でる記憶を増やしていくんだ、と。

 髪を切る決心をしたまでは良かったけれど、努に言ったら反対された。リカコは長い髪似合うのに! って、中学まではずっと短かったんだと言っても聞かなかった。

 だけど、さっき美容師さんが言ったように、髪なんてまた、伸ばせばいいんだし。

「彼氏さんと、いつからお付き合いしはじめたんですか?」

 えっ、あの、先週の日曜日……。

「わっ、まだ付き合いたてほやほやじゃないですか、髪切るって言ったら、勿体無いって言われませんでした?」

 言われました……。

「あはは、男の人って、結構無条件で髪の長い女の子、好きですもんねぇ」

 髪を留めていたクリップがひとつずつ外されるたび、少しずつ髪は短くなっていく。シャンプーの匂い、カラー剤の匂い、パーマ液の匂い、ワックスの匂い、スプレーの匂い。鏡の中の自分が、久しぶりに耳を出すまでの短い髪になっていく。ちょっと幼く見えるくらいの。ふと、こんなに髪を切ったら今までの服が似合うのかと焦ったけれど、スカートの何枚かが少し似合わなくなるくらいでどうにか大丈夫だろう。

 髪を切り終えたら、努が迎えにくる。そうしたらバイクに乗せてもらって、響先生がバイトしているレンタルビデオ店に行く。腕時計を、返すために。前に行っていたときは、あんなに努を彼氏と勘違いされるのが嫌だったのに、実際彼氏になってしまったらなんだか響先生に見てもらいたいような、見てほしくないような、変な感じだ。やっぱり彼氏だったんじゃん、って言われたらどうしよう。人のことからかってなんだよ、と怒られたらどうしよう。

 努に好きと告げられてから。

 愛美にもまた怒られて、左腕にはめていた響先生の時計は外した。外すと時計の重さの分だけ寂しい気がしていたのも、今では感じない。

「段入れて軽い感じにしましょうか、襟足ちょっと長くして、サイドは短めにして、お顔の形がすっきり見えるようにしますね」

 響先生にもう一度会うのは、実は怖かったりするけど。

 嫌味でも言われそうで。それは、自業自得なんだけど。傷つくのは怖い、傷つけられるのも嫌だ、でもそうも言っていられなくて。自分がまいた種の、後始末くらいちゃんとしなきゃならない。嫌な顔されてもちゃんと謝ろう、そう思う。

……恋愛って、なんかよく分かんないですよね。

「えー、幸せほやほやの人が何言ってるんですか!」

いやー、実は好きとか付き合うとか、よく分かってなくて。

「うーん、真剣に考えちゃうと難しくなる問題ですかね、やっぱり。でも、好きな人の傍にいて、幸せー、って思えるんなら、それでいいと思いますよ」

 昨日の夜、愛美と電話したときにも、同じようなことを言われたな、と思う。

『バイクの後ろに乗せてもらってるとき、努さんの腰にぎゅってしがみついてると怖いのがちょっと薄らいで安心するって言ってたじゃん、それって努さんのこと好きだからだよ、好きな人が相手じゃないと、落とされたらどうしようってばっか思っちゃうはずだもん』

 傍にいて、幸せに感じるかどうか。

 そういえば先週の日曜日、努からは好きと言われたけど、わたしはまだちゃんと返事をしていない。

 返事。

 わたしは、努が好きなのかな?

『あのね。好きじゃなかったら、他のどの女がバイクの後ろに乗ったって、全然平気なはずじゃない?』

 平気じゃないのが好きってこと?

『取られたくない、とか、他の女に渡したくない、とか、一緒にいたい、とか――あー、なんか考えてみればいろんな感情があるもんだね、好き、の中にも』

 わたしは努のことが、好きなのかな?

『好きだよ』

 どうして愛美が即答するの? どうして愛美には分かるのに、当事者のわたしが分かんないの?

『あのさ、』

 うん。

『自分の顔って、鏡使わないと見えないじゃん。自分のものなのに』

 うん。

『それと同じだと思うんだよね、自分が恋してる状態だと、上手くそれに気付けないんじゃないかな、リカコみたいな初心者だと特に』

 気付かないのかな。

『そうだよー、それで、何十年も経った後で、あれは恋だったんだわー、とかって思い出すんだよ』

 あはははは、思い出話になっちゃうね。

『笑いごとじゃないよ!』

 じゃあ、なんで愛美はわたしが恋してるって分かるの? 初心者じゃないから?

『違うよ、だってリカコ、恋する人の目になってるもん、あの日から!』

 恋する人の目、って、もっと、好きな人しか見えないものかと思っていた。

『そうじゃないよ、なんていうんだろう、なんか余裕のある人になる気がする』

 恋愛依存症とか、すぐに恋人が変わっちゃってガツガツしている人とか、そういうのもいないではないけれど、それはきっと下手くそな恋愛をしているからそうなっちゃうんだと思う、と愛美は言う。たかだか十五、六年しか生きてない人間が分かったような口利くな、とか言われそうだけど、世の中知らないからこそ言えることだってあると思うんだもん、と愛美が携帯の向こうで笑った。

 あの日、バイクの後ろに愛美が乗せてくださいって言ったとき、すごくすごく嫌だったのは本当、胸が重くなってイガイガしたもの。あれが好きという気持ちのせいだとしたのなら、恋は本当に、甘いだけではない。

『努さんが浮気したら、私が相談に乗ってあげるから!』

 あー……ごめん。

『冗談だってば、雨降って地、固まったよ』

 え?

『うちらも。お互い反省、もう一回最初からやり直し』

 ……それって。

『あ、別れたりしないよ、本当、お互いがどうして大事だったかを思い出そうね、って話になったの』

 お互いが大事、って。それがきっと、一番大切なこと。

「では一度お流ししますので、もう一度シャンプー台へどうぞ」

 促されて椅子を立つ前に、鏡の中を覗き込む。ばっさりと短くなった髪のわたしが、そっとこちらを見つめている。男の子みたい。でも唇は相変わらずのぷっくり具合で真っ赤な苺みたい、この唇はいつか努の唇と重なるのだろうか、また想像だけで満足してしまい、いざ本番、というときには逃げ出さないようにしなくちゃならない。

 美容院のシャンプーは丁寧に時間をかけてお湯で最初にすすがれる。

 熱くないですか、と聞かれて、大丈夫です、と答える、顔の上に乗せられたガーゼ生地の薄いタオルが自分の息で湿る。さっきよりも確実に頭が軽い。

「痒いところはございませんか?」

 大丈夫です、と答えたときにタオルが少しずれたけれど、美容師さんの手がさっと伸びてきて元に戻してくれた。濡れている手だったので、タオルの端も少し濡れたかもしれない。

 再び元の席に戻るよう促されて、ドライヤーで乾かしてもらう。ジェルをつけて、毛先を遊ばせるように整えてもらう。鏡の中で、知らなかったわたしがこんにちはしてる。努が見たらなんて言うだろう、子供っぽくなったと笑うだろうか、似合うと言ってくれるだろうか、髪を、撫でてくれるだろうか。

「短いのも、お似合いですね」

 美容師さんがにっこり笑ってくれて、わたしはまた鏡の中を覗く。恋を知った、生まれたてのバンビがこっちを覗いて笑っている。

 料金を払って外に出たとき、携帯がメールの着信を告げた。これから家を出るらしい。もうちょっと待ってないとな、と思いながらも歩き出す。空は高くバイクの後ろ日和、返さなきゃならない腕時計はカバンの中で。

 努の顔見て、言えたら好きって言ってみようかな、と思ったらそれだけで照れて頬が熱くなった、恋愛初心者、きっとキスされそうになったら叫んだりしそうだけど。

「でもバンビ、頑張るー!」

 大きく背伸びをしたら高い空が見えた、雲もほとんどなく快晴で。好き、って叫んだら残りの雲も吹っ飛んじゃうかな、と思ったら楽しくなってきて、早く努がくればいいのに、なんてそればかりを考えていた。

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