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 リカちゃんはバンビちゃんだよね、と響先生が言った。

「誘惑上手なバンビちゃん。目もクリクリで脚も細くって自分の魅力を充分知ってて、でも自分を過大評価してない? 恋愛偏差値が低いのって、お子様なのをからかっただけじゃなくてさ、ちゃんと周りを見てないんじゃないかな、っていう意味だよ。周りの気持ち、ちゃんと見えてる? 女王様な気分に、なってない? 可愛い、って言われるのにあぐらをかいてると、ただの傲慢な人になっちゃうよ?」

 わたし自分が可愛いなんて思ってません、と返すので精一杯だった。ホテルから出て、先生の車の助手席に座って。CDかMDか、音楽が静かにかかっていた、誰の歌だか分からないけれど、やわらかな女声ボーカルで、それが逆にわたしを責めているように聞こえた。

 響先生が急に意地悪なことを言う。

 わたしにはそう思えていた、自分から誘ったくせに途中で逃げ出したせいだ、恥をかかせたから怒ってるんだ、そう思えて怖かった。怒らせた。好きな人なのに。でも、わたしは響先生の何が好きなんだろう、中学生のときはちゃんと好きだった、問題集をめくる骨ばった手だとか、男のくせに実は甘いもの作るのが大好きなんだ、という先生に丁寧な字でババロアの作り方を書いてもらったときとか。髪の長い女が好き、の意味を教えてもらったときだとか、微かに香る整髪料かコロンの匂いだとか。ひとつひとつがわたしを幸せにした。先生がノートに書きこんだ方程式。忘れて行ったボールペン。好き、より、憧れ、だったのかもしれない、男兄弟もいないし、同じクラスの男の子達は幼稚だし。

 それでも、好きだった。

 確かに、あの中学生のわたしは、響先生を好きだった。

 あの偶然の再会に、必要以上の意味を持たせたのはわたし。でも、先生が家庭教師でなくなってからの時間もきちんと流れていて、その間彼をずっと想い続けていたかといえばそれたまた別の話で。

 無意識に、気付きたくなかっただけで、本当はわたしも焦っていたのかもしれない。処女、ということに。経験がないことを、恥のように思っていて。先生だったら、中学生のときに好きだったし、年上だし、きっとわたしに後悔しない初体験をさせてくれるんじゃないかと、勝手に期待していた。どこかで。服を脱がされる前から逃げ出してしまうなんて。部屋の、鍵がかけられた瞬間に怖くなったなんて。

 お子様以外の何者だろう。

「あっ、愛美、」

 だけど、先生が言う、「友達に彼氏の浮気のことは話さない方がいいんじゃないかな」というのは納得がいかなかった。浮気なんてするくらいなら、付き合わなきゃいいのに。自分がモテるのを楽しんで自慢したいだけにしか思えない、真面目な気持ちじゃない、浮気をする相手なんて、こちらから切り捨ててしまえばいいのよ、と思ったから、愛美には次の日はっきりと話した。どうして自分がホテルに居たのかの話もしなくてはならなかったので、そこは少し言いにくくてごにょごにょになってしまったけれど。

 愛美はわたしの話を聞いて、ショックはショックだったのだろうけど、ゆっくり深呼吸をすると、許せない、と呟いた。

 崇に確認する、問い詰める、と昨日はそのまま帰って、わたしもそれを慰めたけれど、今日は一時間目の途中で愛美は遅れて登校してきた。目が赤かったから、昨日の夜に泣いていたのかもしれない、こういうときこそ友達の出番だわ、と、休み時間になって早速声をかける。

 だけど、愛美はわたしの声が聞こえてるはずなのに、ふいっと身体ごと隣の席の子に向けて、話しかけはじめた。聞こえなかったのかな、と自分を慰めることができない。愛美が、隣の子と話しながら、ちらりとわたしを見て急いで目を逸らしたから。

「愛美、」

 もう一度呼びかけてみる。彼女と話している子の方が気付いて、リカコが呼んでるよ、と、わたしを指し示した。なのに。愛美は、ふるふると首を振っただけで。

 何をしたのかが分からなかった、どうして愛美がわたしのことを無視するんだろう、隣の席の子ともっと大事な用があったわけではなさそうで、携帯を取り出していじりながら会話を続けている。揺れるはずの、ウサギのストラップがなかったのを、見てしまった。愛美がすごくすごく欲しがったから自分の携帯についていたやつと取り替えた、あのウサギの。ピンク色の大きなビーズがきらきらとつながっていて、二匹のウサギが寄り添っている。あれが、なかった。

 代わりに他のストラップがついていたのなら、取り替えたのだと思うことができたのに。代わりは、愛美のモスピンクの携帯に、ついていなかった。

 友達からもらったものを外したり捨てたりするときの理由なんて簡単だ。送り主がもう友達じゃなくなったから。それだけ。でも、その理由が分からない。

「愛美っ、」

 もう一度呼んでみる、これで無視されたら決定的だけど決定的って何が、と自分でも思っていた。だって。分からなさ過ぎる。

 わたしの呼びかけに愛美はゆっくりと振り返る。あ、聞こえてる、と安心したのもつかの間、彼の視線はわたしを素通りした。

「あっ、ヤバい、トイレ行きたいんだった」

 言い訳が、わたしにはっきりと聞こえるように発せられる。

 あんたなんかに呼ばれても聞こえないの、の、言い訳。

 聞こえてないことになってるから、の。

 パタパタと愛美が教室から出て行ってしまった後で、今まで彼女と話していた女の子が不思議そうな顔で聞いてきた。

「ケンカでもした?」

「……分かんない、」

 友達が、クラスで一番仲良しのはずの友達が、わたしを無視する理由が分からないのが辛い。何か悪いことをしてしまったなら謝るし、何が愛美を傷付けたのかが分からない自分にも腹が立つ。

 その休み時間も、その次の休み時間も、愛美はわたしを無視したままだった。

 授業中に時々メモを回したりするけれど、今日も一度だけそこに『何か怒ってる? わたしが悪いことしちゃってたらごめん』と書いて回してもらったのに、返事はなにもなかった。

お昼休みも一緒じゃなかったから、教室にいるのが居たたまれなくてお弁当を持って中庭に出る。愛美は隣の席の子がいるグループに入り込んだようだった。

「別にいいけどさ、」

 独り言がむなしい、本当は全然良くないから。こっちが悪いなら理由を言ってくれればいいじゃない、と、あまり無視され続けていると腹が立ってくる。

 彼氏が浮気してたところを言ったことが原因だろうか、それならただの八つ当たりだ、見たままを言っただけであってわたしは悪くない。大体、前に話したときは倦怠期みたいなことを言っていたし、それでも好きなら自分が浮気されないように頑張ればいいんだし、なんでわたしがこんな目に会わなきゃなんないんだろう、と悔しくて泣けそうになる。

 悲しくなってきたから、こんな気分はバイクに乗せてもらって吹き飛ばそうと、努に電話をかけてみた。携帯電話の着信履歴には努の名前がずらりと並んでいて、そのまま発信すれば簡単につながる。

 はず、だった。

「……あれ?」

 呼び出し音だけが、延々と鳴る。一度切って、もう一度かけ直して。また、延々と鳴るのは呼び出しの音ばかり。

 努の予備校だって、今はお昼休みのはずだろう。授業中じゃなければ電話に出られるはずだ。ふと、ご飯を食べに外に出てしまっているのかな、と思いついた。バイクに乗っている最中でも電話には出られないし。まあいいか、と、電話をするのはやめてメールを打つ。今夜空いてる? と。それだけで、努はわたしを迎えに来てくれる、バイクも好きだけど後ろに乗ってるリカコがぎゅっと腰に回した手に力を入れて、振り落とされないようにって祈ってるみたいなところが好き、と言って。そういえば、響先生とあんなことがあった日から、努と電話もメールもしていなかった。努のバイクの後ろに乗りたいな、と思う、すごく怖くて乗る度に後悔したりするくせに。

「これで良し、っと。さて、」

 中庭には大きな池があって、鯉が何匹か泳いでいる。その周りには園芸部の育てている花がいろいろとプランターで並べられ、憩いの森、と名付けられ、何本ものそう背の高くない木がごそごそと植えられている空間がある。そこにはベンチがふたつほど置かれているのを知っていたので、わたしはお弁当を持って憩いの森に向かった。

「いっただっきまーす」

 元気よく、でもいくら昼休みの中庭なんて水遣り当番の園芸部員しかこないとしても、ひとりでお弁当食べてる寂しい女がいる、というのが人に知られるのが嫌で、小さな声を出す。

 のりたまのかかったご飯と、甘い卵焼き、ブロッコリーとトマトのサラダ、冷凍のメンチカツと昨日の残りのキンピラ。別タッパで、缶詰のパイナップルが入っている。お箸じゃなくておもちゃみたいなフォークでそれらをつつきながら、なんで隣に愛美がいないのかな、と思ってしまう。いつもは、彼女と机をくっつけていろんなおしゃべりをしながらだったり、ベランダで足を投げ出して日向ぼっこしながらだったりでお弁当を食べているのに。彼女の家の卵焼きはだし巻き卵で甘くなく、わたしのと必ずひとつずつ毎日交換する。たまに海苔入りだったりじゃこ入りだったり、結婚したら甘いのかだし巻きか、どっちの卵焼きを作るんだろうね、なんてはしゃいだりするのに。

 ひとりで食べるご飯なんて楽しくない。

 味もしない。

 結局半分ほどを残してしまって、お弁当にフタをする。午後の授業は出たくない、家でベッドに潜り込んじゃいたい、と思いつつも、サボるのは苦手だから、それだけの理由でわたしは教室に戻った。



 放課後だけは学校の、空気の色が変わる。

 ゆるいようなだるいような淡いオレンジ色、でも部活のある子達は厳しい青色や氷の色、もしくは燃える火の赤を感じるのかもしれない。

 薄暗くなってきて、一日自分の半分がどこかでふらふらと漂っているような寂しく心許なさを抱いたまま過ごしていたので、忘れ物の辞書を取りに教室に戻ったときにそこに愛美がいたのも、そのまま見過ごしそうになった。

「……もう声かけるのは飽きたの?」

 うちのクラスの担任は教科書や辞書を机に入れたまま生徒が帰るのをひどく嫌っていて、時折思い出したように放課後の机の中を見回って、教科書や辞書の類が入っていると勝手に持ち出し、次の日のホームルームで叱る。そして、自分の持ち物が返して欲しかったら反省文を書け、などと要求してくる。毎日辞書を持ち歩くのは面倒だけれど、反省文を書かされるのも嫌なので、携帯用の小さな辞書をわたしは持ち歩くことにしていた。

「……愛美、」

 厚さはそれなりにあるけれど、大きさは教科書の半分しかない辞書は時々机の奥の方に入ってしまって、うっかり忘れて帰ることもある。机の中に辞書を忘れたことを思い出したのは、校門を出る前に担任に会って挨拶をした際、最近置き勉チェックしてないなぁ、という会話をしたからだった。担任は、机の中に教科書類を置いて帰ることを「置き勉」と呼んでいる。

「……なんで一日私がリカコのこと無視してたか、分かる?」

「……崇さんのこと?」

 分かってるんだ、と愛美は小さく言ったけれど、わたしは彼女の彼氏の何がわたしを無視することにつながるのか、さっぱり分からなかった。

「……なんで私に崇の浮気のこと教えたのよ」

「なんで、って、だって、浮気してるの黙っててこれからもずっとこっそり浮気されたままじゃ愛美が可哀想じゃん!」

「でも私は気付いてなかったもん!」

「気付いてなければ浮気されてもいいっていうの? なんでよ、そんなの間違ってる!」

 昨日は悔しいって言ったじゃない、と続けると、愛美は笑うように唇を捻じ曲げた。苦笑、の形に。

「……男と付き合ったことのないリカコには分かんないかもしれないけど、純粋だったり奇麗ごとだけだったりじゃないんだよ、恋愛関係って」

 なにそれ、と、カチンときた。男と付き合ったことのないリカコには、なんて、馬鹿にした言い方をして。じゃあ浮気されてる愛美は何様のつもりよ、ひとりの男も縛り付けておけないなんて恥ずかしい、そう言いそうになってやめる。代わりに相手を睨みつける形になった。睨んでないとひどいことを言いそうだった、それを言ったら確実にわたしと愛美の友達関係は壊れるだろう、こんな理不尽なケンカをしている状況で、仲直りがしたいのかと聞かれれば首を傾げてしまうところでもあったけれど。

「じゃあ崇さんが浮気してるの、黙っていればよかったって言うの?」

「私は気付いてなかったって言ってるじゃない、」

「友達の彼氏の浮気現場目撃して、言わないわけにいかないじゃない!」

「私の気持ち、考えなかったでしょ!」

 愛美の気持ちって。何? 

「彼氏に浮気された可哀想な友達、とか思ってるんでしょ!」

「それは……、」

 そう思ってる、でももっと、それよりもっとわたしの大事な友達を悲しませやがって、と、崇さんに対する腹立たしさの方が大きい。

「ごめん、リカコは悪くないかもしれない、でも私、ちょっと整理がつかない……」

 悪いけどしばらく顔見たくない、と言われる。同じクラスなので、それは無理な話だから、しばらく話かけないでくれ、ということだろう。なんでこっちが悪者にされてるのよ、とムカつくのも確かで、わたしだって、と返してしまう。

「わたしだって、そんな訳分かんない愛美となんか友達やってらんない」

 言ってしまってから、即座に後悔しても一度言葉として放たれてしまったものは回収できない。あ、と思ったときには、愛美はわたしを睨むように、でも泣きそうに歪んだ表情をしていた。

「……じゃあ、そういうことだから」

 鼻先を赤くして愛美が言う。睨んでないと泣きそうなんだ、と気付いたときには、もう彼女は教室を出て行ってしまっていた。

 私の気持ち、考えてないでしょ――。

 愛美のその言葉が、耳に残る。誰かにも言われたばかりだと思い出して、それが響先生だったことに思い当たった。

「なによ、もう――」

 昼休みに送った努のメールは、結局返事がこなかった。電話も、着信履歴が何件か残ってるはずなのに、かけ直されてこなかった。学校を出るときも、家に帰ったときも、晩御飯を食べたあとも、ベッドに入ってしまった後も。




 夜歩くのは久しぶりだった。最近はずっと努のバイクに乗せてもらっていたから。

 努からのメールも電話もなく、愛美とはまだケンカしたままでいる。日常がいきなり色を失って、ぼんやりと曖昧になってしまう。愛美とお互いを無視し会う形になっていると、教室の空気もよそよそしくなった。楽しくない、という気持ちが、教室の温度も変える。響先生にも会えない、あんなことがあったからどんな顔をして会えばいいのかも分からないけれど、先生がバイトをしているレンタルビデオ店は遠くて、自転車と徒歩しか交通機関のないわたしには会いに行く術がない。あの店に行けば会えるので、携帯の番号もメールアドレスも聞いていないままだった。

 人の気持ちが分かっていない――。

 先生からも愛美からも言われて、多分努も同じことをわたしに感じていたりするんじゃないかと思う、何か悪いことをしてしまって、それで彼は連絡を途絶えさせたはずだから。その「何か」が分からないわたしは、まさしく人の気持ちが分かっていないのだろう。

 小学生の頃は、しっかりしているリカコちゃん、で学級委員長に何回かなった。いじめられている友達を先生に告げたり、いじめっ子の行いを学級会で報告したり、みんなと仲良くなり切れていなくてどうしても休み時間にひとりになってしまう子の話相手をしたり。

 わたしって大人、と。

 思っていたこともあるのに。

 中学の頃だって、級長になったことがある、でもそういえばあの時。

 いじめられている女の子がいた、プールの授業の後には男子更衣室に下着だけ投げ込まれたり、カバンや靴がなくなるのはほぼ毎日だったような子が。暗い感じで、何かをしゃべれば皮肉っぽくなり、わたしも元々は好きなタイプではないし頼まれても友達になりたくない人だと思っていた。いじめられるのが当然、とまではいかなくても、いじめられるのも仕方がない人ではあったように思う。

 だけどわたしは話しかけた。級長だから。クラスの中で、和が乱れることは回避しなくてはならなかったから。その子に話しかけるたびに、自分の人の良さに満足していたことは否定できない。面倒見てあげなくちゃ、仲良くしてあげなくちゃ、一緒にいてあげなくちゃ。担任はわたしを褒め称えた、あなたが級長で良かった、と。若い女の先生で、成績も悪く、クラスのみんなとは仲良くなれないその子は問題児でもあったようで、神澤さんが面倒を見てくれてとても助かるわ、と喜んでくれた。

 喜んで褒めてくれるのは担任の先生だけだと、気付かされたのは、いじめられていたその子がわたしに、偽善者、と言ったからだった。

『あたしを使っていい人ぶれて、すごーく満足なんでしょ、偽善者だもんね』

 偽善者、の意味が、分からなかった。

 辞書に載っている意味は分かる、わたしがそう言われる意味が分からなかったのだ。

 偽善者って誰が、と驚くわたしに、その子は続けた。

『正面切っていじめられてたほうがまだマシよ、あたしに親切な自分に酔ってるだけでしょ、あんたなんて!』

 いじめっ子よりも劣ると言われて、頭が真っ白になるくらい考えたけれど本当に意味が分からなかった。親切にしてあげてるのに。話しかけてあげてるのに。面倒を見てあげてるのに。どうしてわたしが罵倒されなきゃならないのかが、少しも。少しも、分からなかった。

 でも、今なら分かる。

「傲慢だったんだ、わたし……」

 夜の駅前公園で、ベンチに座りながら膝を抱える。ベンチが靴の裏で汚されるのが嫌だとでも言うように、小さな音を立ててきしんだ。

 夜の匂いがする。

 夏の夜の、冒険の色をした空ではすっかりなくなっていて、秋めいてどこか涼しげな、よそよそしい顔をしたかと思えばすり寄ってくる猫のような夜。雨上がりのすべてがひとつずつ、また自分の匂いを世界に残そうとひときわ放つ香りを強くしているような。

 寒くなる前に表を歩き尽くそうとしているのか、暑苦しかった日々から解放されて浮かれているのか、駅前大通りから脇に入った細い小道でも、人影は結構あった。

 こんなに人がいて、なのにわたしは親しい人を端から失っている。

 そういえば今月が崇さんの誕生日の月だった、そんな話を愛美とした記憶がある。わたしの告げ口は、幸せに祝われるはずの誕生日を壊してしまったかもしれない。でも、友達が浮気されているのを放っておけば良かったとも思えない。話を聞いて欲しい努とは連絡が取れない。

「どうしよう……」

 心細いと泣きそうになる、大好きな夜の散歩の途中で立ち止まってしまったのは、そういえばこれが初めてだ。努に声をかけられた日は別としても。

 努とだって、ずっと一緒にいたような気がするけれど、まだ知り合って四ヶ月も経っていない。放課後だの夜だの、気が向けばいつでもバイクの後ろに乗せてくれて、それが当たり前みたいに思っていたけれど、四ヶ月前まではわたしの人生に彼は存在しなかった。だから、バイクの後ろに乗る感覚も、それまでのわたしは知らないものだった。

 左手の腕時計は重たく存在感を光らせている、この時計だって返さなきゃならないのに。響先生は自分から誘っておいて途中どころか初っ端で逃げ出したわたしに怒っていたりしないのか、不安になる。どうしよう、どうしよう、と、そればかりを心の中で思う。どうしよう。悪かったことをしている自覚だけがあるなら謝り倒すことだってできる、でも愛美との間でわたしだけに非があったとは思えないし、謝り倒さないといけない響先生には連絡が取れない、会いに行くにも交通手段がない、努は、あれから全然連絡が取れなくなった努は……。

「あれ、努は……?」

 なんで連絡が取れなくなっているんだろう。そういえば不思議だ、響先生とお茶をするまでは普通にしゃべっていたし、フルーツ牛乳を風呂上りに飲むなんて、という会話をしていただけの気がするのに。

「……なんで努は返事をよこさないわけ?」

 抱えた膝の頭に、顎を乗せて小さく丸まる、その形で考え込む。

 彼女ができた? それで、もうわたしには連絡しないことにした? でもそんな急すぎる。もし急に彼女ができていたとしても、一言くらいメールなり電話なりがくるだろう、ものすごく嫉妬深い彼女だったとして携帯のメモリで女の名前のものは全部消せ、と言われていたとしたら連絡できなくなっているだろうけど、そんな女を努が選ぶとは思えない。彼のことをそれほど知っているわけではないけど、もしかしなくてもほとんど知らないけど、きっとそういう女の人なら努の乗っているバイクにだって嫉妬するだろう、バイクを取り上げられるくらいなら恋人なんて要らないと、彼は言うはずだ。多分。

 膝頭に乗せた顎に必要以上の力がかかっていたのかもしれない、奥歯がじんわりと痺れたようになってくる。それでも体勢を崩さず、考える。今わたしは努とケンカをしているのだろうか。愛美とはケンカ状態、響先生とは気まずい状態、だけど努とは? 努との関係修復、それはどこが壊れているのかいまいち分からないけれど、彼と連絡を取れるようにするのが一番早い話かもしれない。

 よし、と呟いてベンチから立ち上がる、痺れていたのは足の方もだったみたいで転びそうにもつれたけど、着地だけはどうにか形作る。

「ぬわっ、」

 だけどわたしが知っている努は、名前と携帯番号とメールアドレスだけだったことを思い出した。名前だって苗字の方はなんだったか、山田とか山辺だとか、山が付いて三文字だったと思うけれど、携帯の登録は『ツトム』でしてあるので分からない。

「どこをどうやると努に会えるってこと?」

 痺れた足の、ふくらはぎのところを撫でさすりながら、どうしたもんかな、と再びベンチに座り直す。とりあえず携帯を取り出して、努に電話をしてみた。ここ何日かとずっと同じ、呼び出し音が鳴り響くだけの状態が続く。一度切って、もう一度かけてみたけれど、状況は同じだった。メールも打ってみる。

『返事ください』

 それだけの短いメールを、わたしは送信する。なんだか、片想いをしている相手に無視されつづけている、それでも諦められなくて引きずりつづけている女みたいだ、と思って少し笑える。

 電話にも出られなくて、メールも返事ができない状況を想像すると、ケガをしただとか病気をしただとか、最悪お亡くなりに……という場面ばかりが思い浮かぶのでしないことにする。もし死んでいたりしたら、家の人が携帯や手帳を見て、近しいだろう友達には連絡してくれると思うし、せめて家の電話番号を聞いておけば、と思わないでもないけど、学校の友達だって携帯番号は知っていても家の番号までは聞かない。

 努は夜を、バイクで走っているのだろうか。

 後ろに、わたしを乗せないまま。

 それはなんだか、とても寂しい。

 努に会おう、そして話をしよう。つながらない携帯電話と、うろ覚えの名前しかないけれど。

 十時を回っていたけれど、どうにかなるかもと思って駅前の予備校まで歩いて行ってみた。レンタカーの会社の隣にある細長いビルで、授業はもう終わってしまったのか時折出てくる人達は大きなカバンを抱えて、駅だったり駐輪場にだったりと急いでいる。駐輪場の方も行ってみたけど、わたしのよく知っている努のバイクは置いていなかった。ここの予備校ではないのか、もしくはここだとしても帰ってしまっているか。放課後に会ったりするし、こんな遅くまでは中学生や高校生が通うだけで、浪人生は普通の学校のような時間でのスケジュールなのかもしれない。

 もうひとつ、メイン通りの駅東口ではなく、西口にある川沿いの予備校にも足を伸ばしてみる。水が流れているせいなのか、空気がしっとりしていて涼しすぎるくらいで、自然と足早になる。そちらはたどり着くのに時間がかかったこともあり、完全に閉まっていた。ガラス張りになっている出窓のところに掲示板があり、そこに成績優秀者が張り出してある。そこだけは、下からライトアップされて予備校が閉まった後でも見られるようになっていた。高校生の成績表と、中学生の成績表と。

 ひとつひとつ、右端から名前を眺めて見る。前回模試結果上位五十人、と書かれた紙は、薄っぺらいけれど成績を気にする人達にとってはものすごく重要な紙なのだろう。

 名前の下に、かっこして高校の名前。

 一位から十位くらいまでは男の人の名前が多かったけれど、そこから三十位くらいまでになると女の人の名前が増える。市内でも偏差値の高いと言われている高校の名前が多くて驚いた。勉強、勉強、勉強、の人生ってのも嫌だけど、学歴がいまだにありがたがられるから仕方がないとも言えて。いい会社に入ったって、リストラされたり倒産したらそれで終わりなのに。学歴社会より、困難からちゃんと立ち直って歩く方法とか、そういうものを教えた方がいいのに。躓いたまま起き上がれないからこそ、人はダメになっていくんだから。

 ピンク色のマーカーでラインが引かれている名前が、ここの予備校に通っている人のものだろう。上位十名の中にひとり、二十位から三十位までにぽつぽつマーカーのラインが、そこから五十位までにも何本か線が引かれている。わたしの通う学校の名前も書かれていた。とりあえず努の名前は見当たらない、ここの予備校には来ていないか、上位五十番までに入れる頭は持っていないか。

 人の成績を眺めるのもすぐに飽きて、努をどうやって捜せばいいのか途方に暮れる。学校をサボって市内の予備校めぐりでもしようか。バイクで通える範囲は広いけど、連絡してからすぐに学校まで迎えに来てくれるところをみると、そうものすごく遠い場所に通っているとは思えないし。いつも一緒にいるとき、いる場所を思い出そうとするけれど、バイクの後部座席が思い出されるばっかりだった。

 放り出された迷子みたいな気になる。

 いつも一緒にいたのに、携帯電話で魔法みたいにささっと呼び出せて、寂しいなんて思う間もなく会えたのに。会いたい、って言わなくても、会いたいと思ってなんとなくメールすれば、電話すれば、会う約束が簡単に手に入っていたのに。

「努……、」

 今更何も知らないのに気付く、それでいいと思っていたのに、それだとすぐに切れてしまう間柄だった。出会ったのは最近だけど、あんなにふたりで一緒にいたのに。電話がつながらないだけで、終わってしまう関係だったなんて。音も立てずに切れた、片方が要らないと思ったらそれだけでなくなってしまう紐のような、薄っぺらい紙のような。

 なんだか切なくなってきて、目の前が潤む。

 泣きそうだ、なんか努も愛美も響先生もひとりぼっちのわたしがごめんなさいをしても誰も許してくれなさそうな気分になってきてしまう。

 涙でにじんだ視界の端に、携帯電話が引っかかった。

 指が勝手に動く。開いて、アドレスを呼び出して。呼び出し音。長く長く続いた後で、それは突然つながる。

『……リカコ?』

「まなみぃー」

『ちょっ、何泣いてんのよ、どうしたの、今どこにいるのよ、』

 駅前のレンタカーの隣じゃない方の川沿いの予備校の前、と告げると、今から行くから待ってなさい、と叫ばれる。

「で、でも、愛美、わたしの、こと、怒ってる、」

『なんかあったんでしょ、だからリカコ泣いてるんでしょ、怒ってるのなんかとりあえずいいよ!』

 そこで動かないで待ってなさいよね! と言われて電話は切られた、わたしは呆然とまだ光っている携帯のディスプレイを見つめる。 

 つながった、愛美と。

 でもわたし、どうして愛美に電話しちゃったんだろう。

 わたし、努と連絡が取りたかったはずなのに。

「……動かないで、待ってる、うん」

 時間が経ってディスプレイの光が消えてしまったのが心細くて、数字の三の部分を押して再び、わたしは携帯を光らせた。



 赤と白とオレンジと茶色。十二時までやっているファーストフード店は、明るくあたたかな色ばかりででき上がっている。安っぽいコーンのスープや、薄いコーヒーの匂い。パテの焼ける匂い、抜かれたピクルスのくすんだ色。ゴマ付きのバンズと、何もついていないそれの違いはなんだっけと、愛美と話したことがある。

「晩ご飯は?」

「……食べた、愛美は?」

「私ももう食べた、」

 でもこういうのは別腹、といたずらっぽく笑って、愛美はシェイクを持ち上げる。水滴がつくとすぐにふにゃふにゃになってしまう白い紙コップ。

「で、何があったの?」

 お母さんみたいな口調で聞かれて、うん、と口ごもる。

「なによ、あのね、私に内緒にしとこうったって無駄だからね、そうじゃなかったら泣き声で電話かけてくることなんてないはずなんだから!」

「……努が、」

「努? 時計の人?」

「違う、あのね、夜の友達……」

 そういえば愛美に努の話をしたことはなかったかもしれない。学校から帰るときは、大抵彼女は彼氏と待ち合わせをして帰っているし。努に会ったこともないはずだ。

「夜? 夜の友達って、なに?」

 愛美は学校の、昼の友達。わたし、という同じ人間と関わっているのに、愛美と努の世界は交わる部分がない。

「……知り合ったの、夜、散歩してて、でも連絡が取れなくなったの、なんかわたしがしちゃったみたいなの、」

「ええと、いまいちよく分かんない説明よ、リカコ。とりあえず知り合いなのね、時計の人じゃないけど、男の人なのね?」

「メアドと携帯番号しか知らないの、連絡がつかないの、どうしよう、わたしがなんかしちゃったみたいなの、」

「さっきからそればっかりじゃん、リカコが何しちゃったのよ」

「分かんない……」

 努とビデオ屋に行って家庭教師だった響先生に会ったこと、先生が好きだったこと、処女を先生にもらってもらおうと思ったこと、ファミレスでそのことを先生に話していたら、努の機嫌が悪くなって帰ってしまったこと。

 つっかえながら話すと、愛美の表情が段々と、なあんだ、というものになっていく。

「それってさぁ、」

「……うん?」

「その人怒るよ、そんなの。自分が一緒にいた女がさ、目の前で他の男に、処女もらってください、なんて言ったら」

「……なんで?」

「リカコー。マジで分かんない?」

「マジで分かんない」

 鈍いにも程があるよ、と笑われて、だけどわたしは本気で分からない。

「恋愛偏差値、低っ!」

「なんかそれ、響先生にも言われた……」

「えっと、そっちが時計の人なんだよね?」

 そう、と頷いて、わたしはまだ左腕にはまっている時計をそっと撫でる。重たい時計はすっかり腕に馴染んでいるようにも見えて、だけど時折ふとした違和感を思い出させる。

「リカコはさ、誰が好きなの?」

「……は?」

「その時計の持ち主じゃ、ないよね?」

「響先生は……、」

 好き、だけれど、誘い逃げした恥ずかしさもバツの悪さもあって、好きという気持ちの前に謝罪の気持ちになってしまう。

「っていうか、好きって何?」

「おっと、難しいところをついてきましたな。うーん、一緒にいたいと思う気持ち?」

「でも、一緒にいなくても好きな人っているでしょ、遠恋の人なんかどうすんのよ」

「うむー、でもさ、一緒にいたい気持ちだから。今現在一緒にいるとかいないとかは別として。ご飯が美味しかったら、一緒に食べたいなって思う、とか。楽しいことがあったら、一緒にやりたいなって思うとか。そういう気持ちのことじゃない?」

 連絡がつかなくなったらすごく心配になるとか、と愛美が言う。努のことだろうか、努のことは好きだけど、それはなんか違うような、恋愛なのか、友達のような、でも確かに心配しているのは確かで、一緒にいたいな、と思わないでもなくて。

「……分かんない、」

「まあ、リカコはこれからだから」

「……何が?」

「いろいろと。お勉強することが」

 恋愛に関してね、と言う愛美の、ソバカスが散った鼻の頭がほんのり赤く染まっている。

「ね、……怒ってたじゃない、わたしに。どうして来てくれたの?」

「うん、怒ってた。無視して、顔見たくないくらい」

 愛美の細い目がわたしを真っ直ぐ見ている。逸らしたら負けるとでもいうように、でもその奥にはやさしい光が見て取れる。

「……言っていい?」

「……うん、」

「あのね、」

 最初に聞いたときは許せないって思って、崇にすごく腹が立って、っていうか頭の中真っ白になっちゃって、で、そのまま崇に連絡して会ったんだけど、問い詰めたら浮気なんてしてないって言うじゃん、お前の友達の見間違いだって、サフランなんてホテル行ってないって言って、あれ私リカコからホテルの名前なんて聞いてないのにって思ったのをそのまま口にしたら、崇ヤバイって顔して、今度は逆切れしてさ、ちょっとくらい他の女と遊んだくらいでガタガタ抜かすなって言い出して、なにそれって、私だって怒るじゃない、他の女とセックスしてきてなんで崇が怒ってんのよ、って怒鳴ったら泣けてきて、そしたら、友達が言ってたのと俺とどっちを信用すんだよ、なんて言い出して、そんなのさっき自分で他の女と遊んだくらいでガタガタ言うなって言ったくせになにを今更取り繕って、ってもうすっごーく腹が立って。

「ふー、ちょっと喉乾いた」

 一気にしゃべって、愛美はシェイクのストローに唇をつける。

 まだ硬いのか、ちっとも吸い上げられないようで、わたしは自分のレモンティを差し出した。小さく頷いて、愛美が受け取り、一口飲んでこちらに返す。

「私さ、前に、合図のためにエッチするって言ったじゃん、崇と」

「うん?」

「帰りたいけどまだ帰れないような空気のときっていうか、満足し切れてないときに、って」

 そういえば、どこかで愛美とだらだらなおしゃべりをしていたときに聞いたような。

「私もさ。安心し過ぎてたんだよね、それって結構なあなあな関係じゃない? 一年三ヶ月続いて、ほら、他の友達とかってもっと、二ヶ月とか三ヶ月とかで別れちゃうような関係なのにさ」

 浮気されたのショックで、言い訳したり逆切れしたりする崇見て、それでもこの人が好きなんだよなー、って思って、なんで私に浮気のことなんか告げ口したのよリカコ! って、私は私であんたのこと逆恨みして。

 一緒に頼んだポテトをつまんで、予想以上に長かったそれに愛美は驚いた表情を作りながらも続ける。

「リカコさえ崇の浮気のこと言わなかったら、ケンカもしなくて済んだし私だって泣かなくてよかったし、リカコのバカって、思った」

「わたしが悪かったの?」

「うん、ごめん。でも……本当は今も思ってる」

「……え、」

「黙っててくれれば知らないままでいたのに、って。崇の浮気は本当に浮気で、ちゃんと私のところに戻ってくるもの」

「……自信がある、ってこと?」

「自信があるっていうより、崇が浮気じゃなくて本気で別の女の子を好きになったら、私とは別れてから行くだろうなって、思うだけ」

 リカコにとっては、崇なんて浮気した友達の彼氏だろうけど、私にはそれなりのお付き合いがあって、大事な人だからさ、と彼女は笑顔を作った。シェイクは溶けはじめていたのだろう、吸い上げるストローが薄いピンク色に染まっている。 

「だから、今回のは本当の浮気。本気じゃないの、相手の女の人には。まだ、私が彼女」

「……いいの? それで――、」

「いいわけないじゃない!」

 怒鳴られて驚く、唇を半開きにしたままわたしは固まる。シェイクの紙コップが、ゆがんだ気がして見ると、愛美の指先が白くなるくらい、力が込められているのだった。

「いいわけないじゃない! どうして私の彼氏が他の女なんか抱いてるのよ、殴りたいほど腹立つし、丁寧に浮気のこと教えてくれたリカコにだって無茶苦茶腹立ってるよ、教えてくれなければ知らないでいられたのに、知らなかったら普通に崇とだって……」

「……もしかして、別れちゃった、とか、」

 別れてない、と、愛美は首を振る。指先の力は抜けたのか、水滴でふにゃふにゃになっていた紙コップはゆがんだ形のままトレイに戻された。

「あーもう、なんか一週間くらいずっと悶々としてたわよ、リカコが悪いわけじゃないし、本当は私と崇の問題だって分かってるんだけど、どうしても、なんで余計なことしてくれんのよ、って気持ちが出てきちゃってさ」

 余計なこと。

 余計なことだったのかな、浮気の告げ口は。

 響先生の、真実が必ずしもみんなを幸せにするわけじゃない、という言葉を思い出す。愛美が直接見たわけではない彼氏の浮気現場を、軽い気持ちではなかったにせよわたしがいきなり告げてはいけなかったということなのか、浮気を疑ってもいなかった彼女に青天の霹靂で悲しませたのは確かに悪かったけれど、でも浮気自体を見逃してあとでもっと愛美が悲しむ状況になるのも嫌で。

 納得はいかない、まだ、自分が悪いことをしたとは思えない、浮気を告げたのは正解だったとも思ってる、でも。

 恋人のいないわたしには、それは分からない世界なのかもしれない、それに。

「愛美としゃべれないの、やっぱ辛いー」

「リカコ……。私もだよー、」

 泣くかな、と思ったのは、鼻の奥がつんと痛んだからだった。鉄くさいような匂いが、鼻の奥の上の方でして。だけど、愛美が真面目な顔をしていたかと思ったら、次の瞬間笑い出したので、わたしもつられたように笑った。

「あのさ、いくら仲が良くても、女友達には基本的に彼氏の惚気しか聞いて欲しくないもんなんだよ」

「惚気?」

「うん、優しくない、とか、誕生日忘れられてた、とか、よく聞くけどさ、ああいうのも惚気なの。でも、真剣に悲しい話とか、痛いくらい切ない話とかは、あんまし、聞いて欲しくない、っていうか、知られたくない」

「なんで? そういうのを慰めてもらったりするのって、友達同士じゃないの?」

「うーん、そうだけど、なんか違うんだよなー、恋愛が関わってきちゃうと。プライドがある、っていうか、なんだろう、他の物事とは違うんだよね、不幸の質が。って、そんな気がする」

 分からない、彼氏への文句が惚気になるのも、本当に傷ついた話ならしたくないのも。恋愛偏差値低過ぎ、と言われたけれど、わたしは欠陥人間なのかしら、恋愛というジャンルにおいて。

「んー、でもリカコと話ができなくて寂しかったのは本当、崇の浮気のことはまだ混乱してるし、許す許さないって話になると、実際に私が見たわけじゃないし、それでも崇好きだし。時間が経って、なんとなくなあなあでこのまま続いていくんじゃないのかなー、とも思うんだけど。リカコとしゃべんないって決めたのは私だったけど、でもやっぱりしゃべれなくて寂しかった」

 教室の空気までよそよそしい感じがするんだもん、と言われて、同じ気持ちだったんだ、と胸がきゅうっとする。

「なんで電話出てくれたの……?」

 今更なことを聞くと、愛美は目を細めてちょっとだけ自慢気な顔をする。

「あんな時間に女友達からくるとしたらメールでしょ? リカコだって、普段はメールばっかじゃん、電話できたときはよっぽど重要なことだもん」

 こんなにちゃんと考えてくれてる子に、浮気される方も悪いんじゃないの、なんて思って悪かったな、なんて、今頃だけど真剣に思った。



「予備校生で、山なんとか努さんで、銀色と黒のバイクに乗ってる、と」

 なんか張り切ってるなぁ愛美、と思いながらも、頷く。

 あと、とあるお笑いコンビのツッコミの方に顔が似てる、というのも付け足すと、ぬをっ、と愛美が変な声を上げる。

「わあっ、何よ、」

「えー、格好いいじゃん、アレに似てるなら!」

 写メとかプリクラとかないの、と意気込んで聞かれるけれど、そんなものはない。確かに中性的なのに、時折男らしさが覗く横顔だとか、格好いいかな、と思ったことはあるけれど、写メにまで撮っておこうとは考えもつかなかった。呼び出せば、いつでも会えたし。

「連絡がつかないなら、こっちから会いに行くしかないでしょう」

「えっ、どうやって?」

「予備校しらみつぶしで」

 はー? と声を上げているわたしを余所に、愛美は携帯電話をいじりだした。しばらくボタン操作をしていたと思ったら、にんまり笑ってわたしの鼻先に携帯の画面を突き出す。

「って、見えない、近過ぎ、なになに?」

「はいはい、メモメモ、なんか書くものないの?」

 とりあえず何にもない、と告げると、小さくため息を吐かれて首を振られた。愛美は自分のトレイに敷いてある、お店の新商品が書かれた紙を裏返すと、カバンの中から細いピンクマーブルのボールペンを取り出して、携帯をまた操作し始めた。

「って、結構あるなぁ、っていうかあり過ぎ!」

「え、え、何が、え?」

「塾、進学教室が百二十四件、学習塾が九十五件、進学塾が八十件、予備校が三十三件! 市内でこんなにあるんだね、塾とかって。で、予備校なんだよね、山なんとか努さんは」

「そう言ってたけど……」

 駅前の方だと思う、っていうか、駅近くのはず、と付け足す。

「じゃあ絞り検索かければいいんだ、よしよし、駅前、と」

 愛美は携帯で市内の予備校を検索してくれていた。駅前の条件で絞ると四件。携帯を覗き込みながら、丸い字でさらさらと予備校名と電話番号を書いていく。それにしても予備校の名前はどうしてこんなに堅苦しい漢字ばかりから成り立っているんだろう、いかにも勉強、知識、受験、みたいな。すべてに駅前校舎、と入っていて、お揃いだと笑っていたのも最初だけ、すべて提携の予備校が市内のどこかにもう一校以上あるのだということに気がついた。

「……塾、とかってさ、通ってる人、多い、のかな、」

「んー、私は中学のとき通ってたよ。高校受験のために」

「うちは家庭教師だったから、塾って行ったことない……」

 塾でも家庭教師でも、勉強するのは同じだからそう違いはないんじゃないの、と首を傾げられたけど、どうだろう。家庭教師、の言葉を口に出したら、左腕がずっしりと重くなった気がした。響先生の時計は、返せないまま、かといって家に放っておくのも悪い気がして、ずっとはめたままになっている。

 右手でそっと、受け止めるように時計に触れた。青色の文字盤、銀の秒針。数字はすべて線で刻まれている。一時も二時も、六時も十時も、一本の短く少し太い銀色の線。人質は解放されないまま、わたしの手の中にある。どうしましょう響先生、と聞いてみたくなる、だけどここで呟いても声は届かない。

「よし、と」

 愛美の声で、はっ、として、腕時計に気を取られていたことをなんとなく知られたくなくて、わたしは急いで別の動作をしようとする。レモンティの紙コップを手にして、赤いラインの入ったストローを口にくわえて。そんなごまかしはしなくても、わたしの心の中が読まれるわけではないのに。

「じゃ、この四校を捜してみよっか」

「……電話して聞くの?」

「うーん、名前がしっかり分かってればまだしも、山なんとか努さんいますか、じゃ事務所の人も困るだろうし。それに、個人情報とかって言って、教えてもらえるか微妙、今のご時世」

 今のご時世、なんて年寄りみたいなことを言うので笑ったら、きょとんとされた。何、と聞かれるので、いやいやいや、と首を振る。

「いや、確かに、うん、山なんとか努さん、じゃ、ね」

 何をここまで苦労して努を捜しているんだろう、と、ふと思わないでもない。逆に、つながっていたものが携帯だけだったから、一度切れてしまったらこんなにも苦労をしないと会えないんだ、というのも知る。

 顔だけ知ってる、もしくは呼び名だけ知ってる、だけど連絡先もその人の背景も後は何も知らない、という関係は、友達と呼べるのか。知り合い、というひとくくりにする方が正しいような、だけどもしその人達と『友達』認識の人達より頻繁に、それこそ毎日会うとしたら、『知り合い』というよそよそしい呼び方にしてしまっていいものなのか。

「昭徳大学予備校駅前校ってどこだ、マップ、マップ、と。あー、レンタカー屋の隣かー。義示園塾提携本橋大学予備校があそこで、えっと。……ほら、リカコも電話かメール!」

「え、え、どこに、予備校?」

 もう十一時を過ぎているこんな時間に、予備校で人が働いているとは思えない。

「なんで予備校に電話すんのよ、知ってる人によ、知ってる人でこの四校の予備校に通ってる人! そこに連絡!」

「え、え、え?」

「夏期講習でどっか行った人もいるでしょ、聞いてみりゃいいのよ、山なんとか努さんって居た? って」

「……予備校でいちいち自己紹介とかして名前知るものなの?」

 学校じゃないのに、勉強だけをするところなのに、わざわざライバル達に自己紹介して仲良くなるものなのだろうかと思う。愛美も、確かに塾で友達になった子の名前は知ってたけど、その他は知らなかったしなぁ、と腕を組んだ。

 ケンカしてたのに、どうしてここまで、わたしの知り合いを捜すことに一所懸命になってくれるんだろう。

「……なによ、」

「え、ううん。愛美、真剣だ、と思って」

「あんたも真剣になれー、リカコー!」

 顔を見合わせて笑う、時間大丈夫なの、と聞いたら、愛美はいきなりテーブル越しに手を伸ばしてきた。わたしの左手を掴んで、持ち上げる。文字盤を確認する。

「まあ、大丈夫でしょ。っていうか、」

 この時計山なんとか努さんのじゃないんでしょ。そう聞かれて、わたしは頷く。

「これ、外しなよ。外さないとダメだよ、努さん捜すんなら。これつけてたら、一生見つかんないよ、これが魔よけになっちゃってるんだよ」

「……努は魔物?」

 意味が分からなくて首を傾げるわたしに、愛美は鼻を鳴らす。

 自分で考えなさい、と言われたけど、どうして響先生の時計が努捜しの邪魔になるのか、今はまだ分からなかった。

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