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夜の道が大好き。駅前大通りから細道に入ったような、急にお店がなくなるようなところ。外灯がぽつぽつになってきて、自販機の灯りがぼんやりついていて、そういうのを夜の匂いをかぎながら見るのが好き。あ、コーラ売り切れてる、オレンジジュースに粒々入ってる珍しい! ミルクティだ、ペットボトルのお茶増えたよなー、とか。タバコ値上がりしてて、なんかパッケージとかもいろいろ替わり始めてて、可愛い柄のとかコンドームの箱みたいなデザインのとか変なのあるよなー、とか。
夏になると虫も灯りに誘われて、それは虫が怖いわたしには嫌なことだけど、でも誘蛾灯の青紫色した光は好き。虫が当たると、バチッてちょっと目が覚めるくらいの大きな音がして、でもあの光は音なんか逆に吸い込んじゃうんじゃないかってくらい白っぽくも透明にも見えて静かで。
酔っ払いとかにも声をかけられるのは夏が多くて、カップルとかがやたらと隅っこでいちゃいちゃしてたりするのは意外と年中無休で、みんな昼間はどっかで真面目に仕事してたり勉強してたり、悩みごと抱えてたり、いろいろするんだろうな、と思うとちょっと面白い。昔から夜の道を歩くのが好きだった。冬の空気は冷たく刺さって、春の匂いは花の匂い、秋の月は満ちるにも欠けるにも優雅すぎて驚くほどで、夏は。夏の夜は冒険の色をしている、好奇心とシニカルな笑い顔を混ぜたような、黒ではなく、闇ではない、どこにも属さない世界の色。
努とはそんな夏の夜に出遭った。
マフラー音がうるさいバイクで、わたしの横をかっ飛ばして行ったかと思ったら、途中でぐるりとUターンして戻ってきた。駅前の公園通りの、レンガよりふた周りくらい大きな白い石が並べられてはめ込まれている道で、ここってバイクとか通って良かったんだっけ? と思ってるわたしに、そのまますごい勢いで近付いてきたから、轢かれるのかと思った。
咄嗟に避けられなかったのは、運動神経の問題よりもなんで自分が轢かれるんだろうっていう疑問が頭の中でいっぱいに膨らんでいたからだと思う。あと、知り合いだっけ? という疑問も少々。でも学校の友達でバイクの免許を取った人は聞かないし、聞かないってことは誰かが取っていたとしてもわたしとはそんなに仲が良くない人ってはずだし、そんな人が夜をふらふら歩くわたしに用事があるわけがない。
公園通りにはケーキ屋さんと和菓子屋さんと古着屋と靴屋がずらずら並んでいて、ワイン専門の飲み屋さんと貴金属店なんかもあって、でもほとんどの店はもう閉まっていてきっちり戸締りがされていたけれどウィンドーからは薄暗い店内が覗けて、売られていくシャツや靴がしらじらと人間以上に人間くさい表情を隠して澄ましていたり、ケーキ棚にギンガムチェックの布がかけられていたり、飲み屋さんとパスタ屋さんの看板だけが煌々と、でもどこかとぼけた感じで通りがかりの人達に「やってたりしますよ」みたいなサインを送っていたりする。
そんな路地を、Uターンしてきたバイクは急ブレーキですごい音を立てて、わたしの横を少し通り過ぎて停まった。びっくり、なんてものじゃなくて、心臓が別の生き物としてわたしの中から飛び出してきたっておかしくないほど、バイクはわたしを轢くぎりぎりだった。
「なっ……、」
クラゲってこんな風な感じで毎日を漂ってるのかなって想像できてしまうくらい、膝から下の感覚がなくなる。腰が抜けた状態で、わたしは格好悪くそのままぺたりと石畳の道に座り込んだ。通りを歩く、たまに見える人影がわたしとバイクを明らかに避けて行く。
なによ、の言葉が出てこなくて、恐怖は後からやってきて。
逃げたいけどどうしてこんな目に遭ってるの? って思ったら、怒りも一緒に湧いてきて、自分の中でいろんな感情がごちゃ混ぜになってすごく混乱した。
「ごめん、」
降ってきたのはそんな言葉、でも理解するのに時間がかかった。目の前に手が突き出される。ひっ、て、喉の奥が鳴って、身体が細かく震えているのを知った。
「驚かせた」
驚かせた、で済む問題じゃない。
そう怒鳴りたかったけど声なんて出なくて、顔を上げて相手を確認してやろうと思っても身体中の筋肉が固まってしまったようにだるく重く。自分の身体なのに思い通りに動かないのは絶望的で、それでもなんとか、いや絶対顔を見てやる、と決心したすぐ直後に、わたしは手首を掴まれてそのままひっぱり上げられていた。
「きゃああああああああ!」
「って、叫ばないでくれよ」
さっきから淡々としている声はどこも焦った様子を見せなくて、冷静すぎるほど冷静だったからわたしの方も徐々に落ち着きを取り戻していた。
青いフルフェイスのヘルメット、銀と黒から成り立つエンジン音の重たいバイク。片足に体重をかけて斜めに立っているそいつは、自分とバイクの重さに追加して、力の抜けたわたしの体重まで、半分くらいは支えていた。
「……だ、れ、」
ヘルメットの奥の目は見えない。
その奥は、夜の色をしていた。
「あんたの、知らない人」
「知らない人が、なんの、用?」
「いや、なんか、」
通り過ぎれなかった、とその人は言って、ちょっといいかな、とわたしの手首を離した。
突然支柱を失った感じでわたしはよろける。どうにか転ばないように両足に力を入れると、相手はそれを待っていてヘルメットを取った。
やわらかな茶色をした髪と、白い肌。どちらかといえば整った顔がそこから現れて、わたしは安心をする。どうして人は整ったものを安心と見なすのだろう、これで凶悪な顔や醜い顔が現れたら、再び叫び声を上げていたかもしれないのに。
「通り過ぎれなかった、って、」
なんで、と、わたしはそのまま疑問を口にする。
「なんでだろう、」
淡々とした口調が少し崩れて、不思議そうな色が混じった。
「わたしを、轢き殺そうとしたとかじゃなくて?」
「違う、なんでそんなことしなきゃなんないんだよ」
「あの、お金とか持ってないし、誘拐してもうちは普通のサラリーマン一家だよ?」
「金なんか取るかよ、違うって、」
「じゃあなに、」
「なにって、」
何ってそれは、と、バイクの男の人が口ごもる。
「あの時」
「あ?」
「あの時、努は無茶苦茶意味が分かんない人だった」
「は?」
学校をサボるのは苦手だ、親がせっかくお金を出してくれているのに、と思うと、つまらない授業も受けないと悪い気がしてくる。優等生ぶりっ子、とか思われるだろうから友達にも言わないけど。そんなんじゃなくて、ただただ、真面目に学校に通ってお勉強してるだろうと信じてくれている親に悪いと思ってしまう、でもそれってあんまり理解してくれる人はいなさそうで。
みんなどうして平気で学校をサボったりできるんだろう。
すごく。
不思議。
「何がだよ」
「だから、あの時」
努からメールがきても、わたしは授業が終わるまでは誘いに乗らない。高校生でもなく大学生でもなく、社会人でもない努は世界から少しだけ足が浮いているような、変な存在だと思う。どこにも属さない、でも予備校生という名の仲間はたくさんいる、いるけどみんながライバルだったりする。変なの。
「いや、意味分からんのはリカコの方だ」
放課後の川原。コンビニで買ってもらったパックのコーヒーは甘く、スーパーで買えば二十円安いのに、と思ってしまう自分がみみっちい。
努は石でできたベンチに座ってコロッケパンを食べている。彼の大事な、銀と黒でできたバイクは夕日を浴びてどこかの角度できらりと光を反射させていて、翼がないだけの大きな鳥みたいに見えている。これで空を飛べたら、きっと。きっと、ペガサスのように見える。
「思い出してたの」
「何を」
「努と知り合った時のこと」
「ああ……悪い、」
「あはは、それ、条件反射でしょ」
う、と喉を詰まらせた努にコーヒーパックを差し出したら、コロッケパンを押し付けられた。ストローを引き抜いて、パックに直接口をつける。
「甘っ!」
努はふたりの出会いを口にするとすぐに謝る。悪い、だとか、ごめん、だとか、もう決まりきった言葉だけが出てきて、後はしゃべりたくなさそうにくちごもる。元々おしゃべりな方ではないけれど、この話になると顔もどこか不機嫌そうになる。
「うん、それ甘いの。なに、パンくれるの?」
「持っとけ」
「なーんだ、くれるのかと思った」
「食いたければ食え」
「努の食べかけなのに?」
トントントン、と努は自分の胸を叩いている。そこら辺にパンがつまっているのだろう。
「腹、減ってん、の?」
「ううん、帰ればご飯だし、」
「それは日本語としておかしい」
「うん?」
「帰れば飯だし、ってのは、腹は減ってるけど食べる当てがあるから今はいらないって意味になるぞ」
石のベンチは日中の太陽を吸い込んで、スカート越しに座っているわたしへと熱を伝えてくる。努も同じだろう、半分以上飲んでしまったコーヒーをわたしに返して、パンを奪ってゆく。
「努はお腹空いてたの?」
「昔ほどは食べなくなったけどな」
「……わたし達の会話って、結構噛み合ってないよね?」
「家帰っても飯がないんだよ」
「あっ……」
「なに?」
「ごめん……」
「は? なんだよ?」
家に帰ってもご飯がない、ってことは、おかあさんがいないとか、そういうことなんじゃないかしら。そう思ったから、ついつい謝って、でも謝るのも場合によっては失礼な話なんじゃないかしら、とかすぐに思い直して、また誤ってしまう、あーごめん……、とかって。
「なんだよリカコ、なに謝りまくってんだ?」
「いや、だってさ、わたしばっか晩ご飯用意されてて、」
「意味分かんないぞ、それ。気にすんなとかって言えばいいのか?」
「うん、ううん、ごめん」
「変な女だな、なんだよ一体」
コロッケパンを口に押し込んで、努はもごもごと咀嚼してから飲み込んでいた。喉仏が上下する、彼の輪郭を夕日が囲って光らせている。男の子だなあ、と努を思うときはこういう場面だ、手首のでっぱりの骨ががっちりしているところを見たり、くっきりとシャープな線を見せる喉仏を確認したり、バイクの後ろに乗せてもらって腰に手を回したときに絶大なる安心を感じたりするとき。
努のことを、わたしは何も知らない。
努も、わたしのことを何も知らないだろう。
でもふたりでよくつるんでいる、女友達と一緒のときには感じない開放感を抱きながら。男の人は関係がさっぱりしていると思う、でも恋人になったらきっと違う、わたしも努もお互いをそんな風には見ていないから、きっと炭酸飲料みたいなすっきりした友情が間には育まれている。と、思う。
「リカコ顔赤いぞ」
「えっ、あっ、ゆ、夕日? 夕日のせい?」
友情とかって思うと照れて恥ずかしい。
「ああ、今日の夕焼けすげぇな」
薄灰色の雲が筋でたなびいて、青色もほとんど抜けかけた水色の空がオレンジピンクの夕日に染められている。濃い赤と薄い赤と、ピンクとオレンジのグラデーションがやわらかい。夕焼けが綺麗なときの次の日は、晴れだったのか雨だったのか。
「でもなんか、努とは昔っからこうしてる気がする」
「ああ?」
「犬の兄弟みたい」
「いや、人間にしといてくれよ、しかも兄弟ってなんだよ」
努の笑う顔はいたずら好きの犬そのものだ。どちらかと言えば釣り目気味で、猫顔なのに、どうしてか崩れた表情のときだけ犬っぽくなる。
わたしと努が出会ったあの夜。
あの夜にも、努は少し困ったような顔でわたしに笑いかけた。
『いや、あのさ、』
その顔が犬のように人懐こく変化しなかったら、きっとわたしはもう一度叫ぶか、隙を見て逃げ出そうとしていただろう。
『あんた、みたいな人って、この、バイクの後ろが似合うな、とかって、思って、』
銀色と黒ができているバイクはどこのなんなのか、何度聞いても忘れてしまう。何度聞いても努が教えてくれるから、忘れればまた聞けばいいやと思ってしまうのも原因だろう。
バイクの後ろが似合いそうなんて言われたことは今までなかったし、バイクという乗り物自体、自分には関係のないものだと思っていたから、ただ純粋に興味が引かれた。バイクの後ろに乗せてもらって。風を切って走るそれは、車と違って身体が直にスピードを出しているような、心臓だけ先に持って行かれて身体が後からついてくるような、怖い思いをものすごく味わった。大好きな夜が、怖くて怖くてたまらない凶暴なものに変わってしまったように感じられて。
「……なんだよ、オレの顔になんかついてる?」
「ううん、うん、あ、ソース?」
開いた右手の親指で、その腹を使って唇の端をぬぐって眺める。どこにソースが? と、努が不思議そうな顔をする。
「反対側」
「おお、」
今度は左の親指で同じように汚れを取ろうとするのを見つめながら、あんなに怖い体験だったのに、でも不思議ともう一度乗ったら、次こそはバイクが怖くなくなるんじゃないかな、と懲りずに思い、わたしは努と一緒に居続けている。
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先生先生、リカコの初体験の相手になってみない? と無邪気に言ってみたら、さすがに彼はレジカウンターの向こうで驚いて噴出して、は? と言った。
「あ、ダメ?」
努は相変わらずさっさとビデオコーナーへ消えてしまう。今日のビデオ屋は人が少なくて、それは水曜日という曜日のせいなのか、たまたまなのかは分からなかったけれど、先生と話すには少なくともラッキーなことだった。わたしの腕にはまだ腕時計がはまったままで、カードは返してもらったのでわたしだけが人質を持っていて有利な状況にある、気がする。
「……あと三十分で今日はバイト上がりだから、待っててくれるならちょっと話しようか?」
「え、本当? 待ってる待ってる、ばっちり待ってる、あ、でも待って、聞いてくる」
「聞いてくるって?」
「いつも一緒に来てる子」
子、って言っても年上だけど。でも響先生から見れば、まだ子供だろうし。
「彼氏?」
「彼氏じゃないよ、友達、バイクの後ろに乗せてもらってくるの、ここまで。わたしひとりじゃ来られないもん、遠くて」
高校生は車持ってないもんな、と小さく何度か頷きながら言って、先生はビデオ屋の近くのファミレスを指定した。
「そこでお茶しよう、待っててくれればちゃんと行くから」
「人質もいることだし?」
「そう、人質もいることだし」
先生の顔が見たくてビデオ屋に来るのはこれが四回目くらいで、その度に努にバイクへ乗せてきてもらっていた。夜に出かけるのはやっぱり好きで、バイクの後ろはやっぱり怖い。お化けとか心理的な怖さではなくて、落ちたら死んじゃうのかも、とか、大怪我したらものすごく痛いかも、という生命に関わる感じの怖さで、風になりたいとバイクに乗る人の気持ちは何度バイクに乗せてもらっても分からない。次こそは分かるかな、と思いながらも、何度乗せてもらってもやっぱり怖いままだ。
ビデオコーナーで努を見つけて、ファミレスでお茶してってよ、と告げる。なんで? と聞かれたので、レジに知り合いがいてお茶してもいいって言われたから、と答えた。
「なんだ、リカコが最近夜のデートによく誘うと思ってたら、知り合いに会いにきてたのか」
夜のデート、というのが引っかかったけれど、わたしだって女友達と遊びに行く時に「デート」というから、男友達と出かけた時も「デート」という言葉を使ってもいいのかもしれない。
そういえば最近愛美とデートしてないな、あの子とのデートは大抵がスーパーで、お菓子を買ったりパンを買ったり、ただただ品物のカロリー表示を眺めて驚いたり感心したりというものだ。同じクラスの他の子に言うと、何が楽しくてそんな新婚夫婦みたいなことを、と言われるけど、カラオケは別に好きじゃないし甘いものを食べるんなら喫茶店なんか行くより安上がりだし、見たい映画は被らないし、ゲーセンとかはあんまり興味がないわたし達には、スーパーのお買い物が一番楽しい。あんまり通っていると万引き犯に間違われるかな、なんて自分達を茶化すのも楽しい。
「えへー、バレた?」
「……ちょっと、残念」
「えっ、何が?」
残念ってなんのこと、と聞いたのに、努は答えてくれなかった。
ビデオ屋の近くのファミレスは、これも曜日のせいなのか時間帯のせいなのか、閑散としていて、店員もあまりやる気がなさそうだった。努がコーヒーを注文して、わたしが悩んだ末にアイスコーヒーを注文する。
「結構イメージと違うもんを注文するよな」
「えー、なによ、わたしのイメージって」
「なんか、コーヒーより紅茶の感じ」
「なにそれ、勝手なイメージ持たないでよ」
コーヒーもブラックで飲めるし! と威張るわたしを見て努がおかしそうに笑う。そういうのを自慢してる時点でお子様、と鼻を鳴らしたのが悔しかったけど、自分でもつい笑えてしまった。
「コーヒーって、何歳から飲めた?」
「何歳から、って、何が?」
「だから、お母さんとか、コーヒー飲むと眠れなくなるから飲んじゃダメって言わなかった?」
「あー、言わなかったな、気が付けばいつの間にか飲んでた」
うちは中学生で解禁だった、と言うと努は、鮎とか岩魚みたいだな、と笑った。
「コーヒーは大人の飲み物だから子供はダメ、って。で、中学生で解禁になったのも砂糖と牛乳いれたやつ。高校になってやっと、ブラックコーヒーが解禁になったんだよ」
「風呂上りのコーヒー牛乳は?」
「銭湯の帰りはフルーツ牛乳、もしくは白牛乳」
「フルーツ牛乳! あれは邪道だろう」
「邪道じゃないよ、美味しいじゃんか!」
コーヒーを持ってきた、いかにも高校生なバイト、のウエイターが唇の端で笑いを噛み殺すのが目に入った。何か変な話だったかしら、と思いながらも、カップを差し出そうとするウエイターに努の方を指す。
「お待たせいたしました、」
語尾どころか最初から震える感じの声だったのは、やはり笑いを押し殺していたからだ。フルーツ牛乳派か、コーヒー牛乳派か聞いてみたい気もしたけど、恥ずかしいのでやめておく。どこから聞いていたんだろう。
「コーヒー牛乳のない風呂上りなんて嫌だな」
「そんなことないもん、お風呂上りはやっぱアイスでしょう」
「話を摩り替えたな?」
「摩り替えてないじゃない、お風呂上りの話でしょ?」
アイスコーヒーも置かれていった。透明のストローには、青い線が四本入っている。
「ストロベリーも好きなんだけど、抹茶も好きなんだけど、でもやっぱ一番はバニラなんだなー、これが。バニラビーンズの粒々がちゃんと入ってるやつね……、って、努?」
ファミレスはドラッグストアとファーストフード店、そして洋服屋がそれぞれ駐車場を共有して同じ敷地内に点々と建っている。駐車場から店の入り口が見える席に通されていたので、そこからは出入りする人間がよく見えた。努は駐車場からこっちに向かってくる人を見ている。
「リカコの待ってるのって、もしかしてあれ?」
「え、響先生? あ、本当だ、来た来た、あれあれ」
せんせーい、と言いながら窓越しに手を振ると、隣の席に座っていた女の人がちらりとわたしを見た。ちょっと恥ずかしい、と思いながらも、手を振るのはやめない。響先生にはまだ見えていないのか、どこを見ているとも分からない表情でこちらに向かってくる。先生は手を振るわたしに少しも気付くことなく、そのまま入り口の方へと行ってしまった。
「わーあ、恥ずかしい」
「何が?」
「気付かれないまま手を振ったり、呼びかけたりしてるのって」
ああ、と努が口を開けて頷いた。
「恥ずかしいよな、そういうときって」
「……思い切り同感、って顔、やめてよ」
アイスコーヒーにガムシロップとミルクをたっぷり入れて、ストローでかき回す。さっき、ブラックコーヒーでも飲めるって言ったのに、と思い出して努が笑ってるんじゃないかと彼に視線を向けたけれど、ゆっくりと瞬きをして唇にうっすら笑ってるような陰を、努は作っているだけだった。
「いらっしゃいませー、」
おひとり様ですか、いや待ち合わせで、という会話が店内のBGMに混じって耳に届く。先生が捜さなくてもいいようにと、わたしは席を立つ、努が何か言いかけた気がしたけど、先生の方が先だった。
「先生、ここ!」
「リカちゃん、」
待った? と聞きながら、先生は努に目を向ける。
「どうも、」
にっこり笑って先生は努に声をかけたけど、努はちらりと上目遣いに視線を送って、小さく頭を下げただけだった。愛想のない奴、努はあんまり人付き合いが上手じゃなさそうだ、わたし以外の友達がいるかどうかも疑わしい。
四人がけの席の、あちらとこちらにひとりずつ座っているわたし達を見て、先生は一瞬どちらに座るか迷ったようだったけれど、わたしが自分の荷物をどかすとこちら側へと腰を下ろした。
「結構待たせた?」
「いいえ、全然」
今度はわたしをちらりと見て、うそつき、の形に努が口を動かす。待ってないじゃない、コーヒーだって飲み終わってないし、わたしなんかアイスコーヒーをひと口も飲んでないもん、の意味をすべて視線に込めて努を睨みつけると、彼は明後日の方向に黒目を移動させてからため息をついた。
「ええっと、人質返しますか」
「……人質?」
反応したのは努の方で、そう小さく呟いた。だけどわたしは彼を無視したまま左腕の時計を外す。じゃらり、と重たい音を立てて、ベルトが皮ではないその時計は腕を軽くさせて同じ重さの分だけ寂しさも感じさせた。
「いいよ、まだ持ってても。リカちゃんは何、カフェオレ?」
ミルクポットのミルクを全部入れてしまったのが、コーヒーの色を薄めてしまった原因に違いない。大体、ミルクの量は最初からやたらと多かったとも思える。言われてみれば、カフェオレにしか見えない色になっていた。
「コーヒーです、」
「あ、そうなんだ。じゃあボクはあったかいのにしようかな、」
努が声を殺して笑っている。
通りかかったウエイターにコーヒーを注文してから、響先生はわたしに手を差し出した。時計をその手の平に置いて、わたしは軽くなってしまった自分の手首をさする。努がそんなわたし達をちらりと見て、先生の方へ視線を向けてからすぐに顔を逸らした。
「まだ持ってていいのに」
「って、先生が返せって手をしたよ?」
「あはは、リカちゃん、手」
手、出して、と言われたので訳が分からないながらも右手を出す。
「違う、左」
「あ、はい」
左手を出し直すと、響先生はお姫様の手を取るようにそっと受け止めて、空いてる手の方でわたしの手首にじゃらりと重たい腕時計を再び巻きつけた。結婚指輪をはめてもらうときの花嫁は、こんな気分を味わうのだろうか、くすぐったいような誇らしいような、見せびらかしたいような気持ちが混ざり合う。
「……似合わねぇよ、」
努が忌々しそうに呟くのが聞こえたけれど、花嫁の幸せをねたむ友人の悔しがり、のように聞こえて、笑ってしまうだけだ。
「そうだね、リカちゃんは色が白いし手首細いから。ボクの時計だとサイズも合わないしね、でも逆にそういうのが、大人の持ち物をいたずらしてる子供みたいで可愛くない?」
「えー、わたし、子供?」
「ああっと、言葉のアヤだから。リカちゃんは大人になったよね、髪が伸びたせいか、すっごく」
大人っぽくなったよ、とにっこりされて言われると、自然に目が細くなる。唇も、むにむにと持ち上がってしまう。左の腕が重たいのが幸せに感じる、冷たい金属の重さは体温で徐々にあたたまって、静かに先生への想いと同じ重さになっていく。
「で、さっきの話なんですけど、」
「えっ、と、冗談じゃないの、あれ」
努の方を見ながら、先生は微妙に逃げ腰な発言をした。彼氏じゃないって言ったのに、絶対今のは努に対する遠慮だ、もしくはじゃあこの人はなに? と思ってるんだ。努が彼氏だったら、わたしは今頃処女だったりしない。処女喪失を、先生に頼んだりしない、先生のことが好きなのに。ちゃんと言わないと伝わらないのかな、あんな発言をしたり、先生に会うためだけにビデオ屋に出かけたりしてるんだから、さっさと気付いちゃってよ! と思うのは我儘なのかしら。
「……全然話が見えないんだけど、なに?」
仲間外れにされている気分なのか、努がむっとした声で聞いた。本当のことを言えば先生とふたりきりでお茶がしたいけど、運転手をしてくれる努がいないと先生に会えないのも事実で、ここで送って帰ってもらうから先に帰って、なんて言ったら失礼な気もして、とりあえず努にもさっきの経緯を話してみることにする。
「あのね、初体験の相手になってってお願いしたの」
「……はっ?」
「わっ、リカちゃんっ、」
口に運びかけていたカップを受け皿にがしゃんと戻して、努が目を真ん丸くした。
「……なんだそれ、初体験の相手って、」
「あのね、こっちの人ね、わたしが中学の時に家庭教師やっててくれた人なの。響先生って言うんだけど、わたし先生のこと好きで。そしたらあのビデオ屋で偶然の再会しちゃって、これは運命かもしれないから初体験の相手になってもらっちゃおうって思ったの」
ボクのこと好きだったんだ、と響先生がにっこりしている。甘い顔だ、好きとか言われ慣れている感じの余裕がにじみ出ていて。
「好きだったですよ、毎週家教の時間は無茶苦茶ドキドキしてたし! 髪も伸ばそうって思って今まで切ってないし!」
髪? と聞いたのは努で、彼はまだ目を真ん丸くしたままだった。
「……どうしたの、努」
「そいつが好きなのか?」
「好き? うん、そう、中学生のときにね、それから他に好きな人ってできてないし、だから今も好きなんだと思う」
「……そいつじゃなきゃダメなのか?」
「ダメって何よ、」
あのさつまり、と響先生が次は口を挟んだ。三人で話をするのは意外と大変だ、中身のある話をする時は。学校で友達とくだらない話をする時は大変だと思わないのに。ただ、会話の内容をその後もちゃんと覚えているかと聞かれれば首を傾げてしまうけれど。
「あのさ、リカちゃん、」
「はい?」
「彼は、」
「ちょっと待てよ、なに言うつもりだよ、あんた」
響先生は努に視線を向けた、わたしは響先生に目を向けて努に目を向けて、ゆっくりといやいやをしているような形になる。
「君は、」
「ふざけんな、お前が言うな、」
「リカちゃんのことが、」
「待てっつってんだろ!」
勢いよく立ち上がった努の、手か何かが当たってコーヒーのカップが音を立てて倒れる。少しだけ残っていた中身がテーブルの上に広がって、わたしは慌てておしぼりを持った手を伸ばした。
「努っ、ちょっと!」
「……帰る、」
「は? なんで、ちょっとどうしたのよ、努、なによ?」
努の顔が苦しそうに、悔しそうに、歪められて言葉よりも正確に心を伝えようとしているけれど、わたしはそれどころじゃない。
「リカコ、お前はどっか鈍いとこがあるとは思ってるけどさ、オレのことなんだと思ってるわけ?」
「はい? 努は友達じゃん?」
コーヒーを吸っておしぼりはすぐに濃い茶色に染まる。わたしの答えに努はまた目を真ん丸くして全身から力が抜けたように座り込んでしまい、響先生はバカみたいに笑い出した。
「え、なに? なんか間違ったこと言った? どうしたの、なに?」
「あはははは、すごいなリカちゃん、それ天然?」
「天然? 何が? 何がですか?」
もういいよマジ帰る、と努は立ち上がって、ポケットから千円札を出すとテーブルの上に置いた。
「多いよ!」
「いい、別に」
「わたし、どうやって帰るのよ!」
「送ってもらえ、その人に」
じゃあな、と努はそのままわたし達に背を向けた。何が努を怒らせたのかが少しも分からなくて、混乱する。
「リカちゃんの身に何かあってもいいってこと?」
響先生が笑いを含んだ声で努の背に問い掛けたけれど、彼は振り返らなかったし歩みも緩めなかった。何かってなんだろう、わたしはそれが気になる。
「案外弱虫な彼氏くんだね」
「だから、彼氏じゃないですってば!」
「リカちゃん、君はもうちょっと恋愛のお勉強をした方がいいと思うよ」
笑いを噛み殺して響先生がコーヒーを飲む。
「お勉強不足ですか?」
「無意識にやってるんなら、自己防衛かもしれないけどね」
「……先生の言うこと、よく分かりません」
あはは、と発音よくまた笑って、響先生は努が置いて行った千円をわたしに渡した。返しといてあげて、と言う。返しておけと言われても、努にいつ会うか分からないし。あんな怒ったような意味が分からない行動を取られたのも初めてだし。もしかしたら、このままお互いに気まずい感じが関係にひびを入れて、友達に戻れないかもしれないし。それでも、努のお金であってわたしのものではないので、黙って預かる。
「リカちゃんは、本当に恋愛偏差値低すぎ」
「ええっ、」
「ダメだよ、ボクの生徒だったはずなのに」
先生は目を細める。いたずらっ子みたいな表情が、わたしを不安にさせる。あれ、そういえばわたしの知っている先生は半年以上前の人で。
「ここは奢るから」
「えっ、でも、」
「いいから、で、リカちゃんもちゃんと送って行くよ。……寄り道はちゃんとするけどね」
寄り道? と首を傾げるわたしに笑いかけて、響先生は伝票をするりと取ると、ゆっくり飲んでていいよ、とアイスコーヒーのグラスに視線を向けた。
車を入れる、シャッターを下ろす、部屋のボタンを押す。
先生の車は小さかったけれど黄色のナンバープレートではなかった。深いワイン色に、銀のライン。かぼちゃの馬車ってきっとこんな感じ、意外と狭いはずだよ、と先生は言って、わたしはさながらシンデレラの気分にさせられる。
ライトがついて駐車場から部屋までの道順を案内される、けばけばしいピンクと明るいオレンジの中間色をしたライトが廊下のあちこちで、ぴこぴこと点滅する。こちらへどうぞ、と。言われているような。
「えっと、」
確かに処女をもらって欲しい、とは言ったけれど。
性急過ぎると怖くなる。
寄り道が。
ホテルだった、なんて。
「えっと……、」
「怖くなった?」
先生はずるい、そんな聞き方をされたら、いいえ全然、と答えてしまう他はない。だって、要求したのはわたし。想像力が足りなくて、実際のところはただ御伽噺のような夢を見ていただけだったとしても。
「でも緊張してるね」
ライトの指し示す道順を追って、上り専用とプレートの掲げられたエレベーターに乗る。すぐに、先生の手はわたしの髪に触れた。静かに、やわらかく。
「覚えてる、本当は。ボクが言ったんだもんね、長い髪の女性が好きって」
「……わたしは、」
「うん、君がボクのためだけに髪を伸ばしていたなんてうぬぼれないよ、でも、」
肩までの髪のひと房を取り、先生は唇に近づけた。
くちづけ。
背中に、雷が落ちたような。
「リカちゃんっ、」
不意に膝から下の感覚がなくなって、これはどこかで体験したような、と思う間もなく響先生に抱きかかえられる。向き合ったまま、脇の下にそれぞれ手を差し込まれて。
「こんなところで誘惑しないでよ、困った子だ」
「……誘惑なんか、」
「ボクでいいの? 本当に?」
良くないなら、わたしは今ここにいない。
そんな意味を込めて、ふるりと首を振る。コーヒーしか飲んでいないのに、こんなに酔ったようになってしまうのは先生のせいだ。しがみつくように先生のシャツを掴む。脇の下に先生の腕があって体重を支えてもらっていて、なんだか。
小さい頃、赤ちゃんはお薬を飲むとできるのだと思っていた。
結婚式を挙げると、お祝いに透明な小瓶が贈られる。その小瓶には色とりどりのカプセルが入っている。水色、紺色、緑色、赤色、黄色、桃色、紫色、橙色。男の子が欲しいなら男の子の色のカプセルを、女の子が欲しいなら女の子の色のそれを、結婚式の後に飲めば、それがお腹の中で育って行くのだと思っていた。
いつからだっただろう。
赤ちゃんは、薬なんかじゃなくて、男の人と女の人の行為があってできると知ったのは。小学五年生で教えてもらった生理の話も、見せられたビデオも、赤ちゃんを作る具体的な道具になるとは、いまひとつ結びつかなかった。
「リカちゃん?」
「あっ、えっと、」
すみませんわたし重いですね、と笑ってみせる。愛想笑いみたいになったかもしれない、片頬が引きつるのが自分でも分かった。
急に。
怖い、という感情が、お腹の底の方からわいてくる。
でも、それと同じだけの好奇心がわたしを満たしているのも本当で。
エレベーターから降りると、薄暗い通路が続いていた。目隠しなのか、暗い色をした布が天井から何枚かぶら下げられている。見るからにビニールの観葉植物が申し訳程度に置かれ、非常口の緑色のライトと、非常ランプの赤い光がぼんやりと空間を照らしている。ラブホテルって言うよりお化け屋敷みたいだけれど、そこはちゃんと考えてあるのか、香水のようなお香のような、微かな匂いも漂っていた。
響先生はこういうところに慣れているのだろうか、迷った様子もなくすいすいと進んでいく。ふたまたに分かれた廊下の、部屋ナンバーが書かれている方を素早く確認して進んでいるらしい、どうして行くところが分かるんですか、と聞いたら、全部丁寧に説明されてるんだもん、と笑われた。
つながれている手が、そこの血管が、心臓を持ってきたみたいにドキドキしている。家庭教師だった先生が大好きで、それは本当だったけど今、こうやってホテルに来ていて、それってなんだか不思議で。
ピンクのライトが点滅しているのが視界に入ってきた。なに、と自分でも気付かないうちに驚いたのかもしれない、先生の手を握る力が強くなっていて、彼に「どうしたの、」と聞かせてしまった。点滅するものはどこか、不安をかき立てていけない。パトカーとか消防車とか、救急車とか。工事現場を示す点滅とか。警告、の意味があるようで。
ううん、と首を振る、答えになっていないと分かりながらやったけれど、先生は何も言わなかった。握られた手が、いまだに心臓のようで。
手を引かれて部屋に入る、感知式なのか自動的に電気がついて、小さな玄関口のようになっているところでスリッパに履き替えて中を覗くと、薄暗かった廊下とは対照的に明るい色であふれ返っていた。薄いピンク色のベッドはセミダブルと言うのかこういうところの規格のダブルなのか、抱き合うのに丁度いいサイズにも見えるし、少し狭いようにも感じる。棚の上の間接照明は不透明な布の下でやわらかな真珠色を放っていて、白と濃いオレンジ色から成り立っているソファとテーブル、その上にはご利用案内と書かれたファイルと、テレビのものらしいリモコンが置いてあった。
と、不意に背後でガシャン、と大きく重たい音が立てられ、わたしは驚いて振り返る。
入ってきた扉は鉄製のもので、それが自らの重みでゆっくりと閉まったのだと、驚いたままの頭で思った。同時に、ガチャリ、と音がする。
「えっ、」
咄嗟に先生の手から逃げ出し、ドアノブを回した。無意識だったけれど、閉じ込められたような不安に襲われたのも確かだった。
ドアノブは、回転するだけで開かない。
「こういうところのドアは、中に人が入っちゃうと勝手に鍵がかかるんだよ」
ガチャガチャと音を立てているわたしに、響先生が後ろから優しい声をかける。でもどうしてだろう、舌なめずりをする狼の声に、それが聞こえるのは。
「……やっぱ、ヤダ、」
小さく小さく呟いた、だけど声に出したらそれこそが真実、わたしの伝えたいことだと思ってしまった。
「やっぱり嫌だ、」
「リカちゃん?」
無しにして、は、有りなんだろうか。
有りじゃないだろう、発端は自分なのだから。
処女をもらって下さい、って言ったのは。
でも。
「わーっ、やっぱりごめんなさい、ごめんなさい、あの、やっぱりダメです!」
「怖くなっちゃった?」
優しい声と一緒に、スリッパを片方脱ぎかけているわたしの後ろから、抱きしめるように腕が伸びてくる。肩にかかる重み、それは安心の温度と存在感を持っているのに。
身長差はそれなりにあるはずなのに、どういう体勢をしているのか先生は上手にわたしの肩口に、顔を寄せてきた。耳の後ろで感じる呼吸の規則正しさが、わたしの呼吸を乱して顔に血を昇らせる。沸騰してる、血液が。でも、興奮や好奇心と混じる怖さが、このまま進むと帰れなくなっちゃうよ、と言っているようで。
「怖くなっちゃったのかな?」
耳奥に流し込まれる声はさっきよりも静かでゆっくりだった。
その声が、背中をそっと凍らせる。
考えなしでした、と今更言って、許されるものなのだろうか、許されなくても許して欲しい、ごめんなさい、の声がわずかに震える、助けて、と、誰に向けての言葉なのか分からない単語がぐるぐると頭の中を回る。
「ごめんなさい、先生、ごめんなさい、でも、ダメ、心がついていかない、」
途中から涙声になった、泣き落としなんて、泣くことで相手を脅す女なんて最低だと思っていたのに。
「気まぐれで誘うのは楽しいけど、傷付くのは怖い、って、ちょっとズルイよね」
「ごめんなさい……」
「ボク以外の人がこんなに簡単に帰してあげると思っちゃダメだよ」
ちょっと待ってて、と回されていた手が外された。空気の温度が変わる、あたたかかったものが急に取り去られる。
部屋の方に引き返した先生の声が聞こえた。どこかに電話をしているらしい、連れの具合が、だとか、休憩料金は、だとか、支払い、だとかの言葉が聞こえる。わたしはスリッパから自分の靴に履き替えて、ほとんどドアにへばりつく形でノブを握っていた。ガシャガシャと、回す。
恥ずかしいのと、怖いのと、ごめんなさいの気持ちと。
自分に呆れるのと先生に悪いのと、もう滅茶苦茶に気持ちが渦を巻く。
しばらくしてから、回すドアノブに微妙な重さが加わった。あ、と思った瞬間開いていて、さっき通ったばかりの薄暗い通路が広がる。
「あっ、リカちゃん、」
飛び出してから背後で先生の声を聞いた。重たい扉を力いっぱい開けたせいで、腕に変な痺れが残っている。
心臓が叩かれたみたいに痛くて、我慢してたけど喉の奥が詰まったみたいになって、声が漏れた。涙声。恥ずかしい、何してるの自分、先生に迷惑かけて、努も怒らせて。
勢いよく飛び出しすぎて、というより、まさか他の誰かもホテルに存在するのだということがいまいちよく分かってなくて、だから何かにぶつかったときもそれが人だということが上手く理解できなかった。
「痛てっ、」
「やだー、大丈夫ー?」
出てきたばかりなのか、これから入るのか。
灯りの乏しい廊下でも、はっきりと分かるくらいの金色に近い髪を長く伸ばして、身体のラインをぴったりと見せ付けているトップと短すぎて布にしか見えないスカート、その手足にじゃらじゃらとアクセサリーを付けたい放題にしている女の人が、わたしのぶつかった彼氏に心配している割にはのんびりとした口調で問い掛けている。
「ごっ、ごめんなさ……い……、」
文句を言いたそうな男の人は、けれどこんなところで他人に会うのが恥ずかしいのだろう、怒鳴るのもどうかと思っているのか、ち、と舌打ちだけしてわたしを一度だけ睨みつけ、顔を逸らした。
その顔に。
どこか、見覚えが。
「だいじょおぶー? たかし、さっきも人とぶつかったよねー」
きゃっきゃと甲高い笑い声を発して、彼女が彼氏の腕にするりと自分の腕を組ませる。たかしさんですか。たかしさん。……たかしさん?
「えっ、あ!」
「きゃっ、」
なあにあの人変ー、と彼女がぶつかった勢いのまま壁に張り付いているわたしを振り返ったけど、それはもちろん愛美じゃなかった。
「崇さん!」
「――ああ?」
名前を呼んだので彼氏の方も振り返る。多分間違いじゃない、実際に会ったことは一度しかないけど、プリクラや写メなら何度も愛美に見せてもらった。
「愛美は!」
ヤバイ、という表情だったと思う、薄暗くてはっきりとは分からなかったけれど、彼は連れの女の人の腕を引っ張るようにして自分達に割り当てられた部屋に急ごうとした。
「なあに、なあに知り合いー?」
知らねぇよ、の声が焦りからか強く発せられる。
「まなみってだあれー?」
それには何も答えず、彼らは廊下を急ぐように進んで行ってしまった。
混乱は強くなって、わたしはここで何をしているの、と脳内許容量ははるかにない容量を越えて、むしろぼんやりしてしまう。
鉄の重たい扉は開閉の際にそれなりの音を立てたのだけれど、わたしは響先生が部屋から出てきたのにもしばらく気付かなかった。
「リカちゃん、」
「きゃっ!」
「って、叫ばないでよ、悪いことしたみたいじゃん、ボクが」
くくく、と笑い声を押し殺して、先生が車の鍵を右の人差し指に引っ掛けてくるりと回して見せる。
「あっ、わたし、あのっ、」
「はいはい、帰りますよ」
「あのっ、先生、ごめんな……さい……」
「送ってくから心配しないで」
いいです自分で帰れます、と小さな声で言うと、逆に怒られる。
「どうやって帰るの、リカちゃんの家から近くないよ、ここ。タクシー拾えると思ってる? 頑張って歩いて帰ろうと思ってる?」
「でも、だって……」
「いいから黙って送られなさい、誘い逃げされて送るのまで拒否されたら、ボク自信喪失だよ」
「ごっ、ごめんなさい……」
手ぐらいつないでもいいでしょ、と言われて、返事をする前にもうわたしの手はつながれていた。あたたかさが罪悪感を余計に。
「外で人とぶつかってなかった?」
「あっ、それが……あの、友達の彼氏だったかもしれない……」
ありゃ、こういうところで知り合いに会っちゃうのって無茶苦茶恥ずかしいよね、と茶化すように言われて、わたしは首を振る。
「でも、一緒にいた人、友達じゃなかった……」
通ってきたばかりの廊下を、また手を引かれながら戻る。重たい石のように気持ちが沈んでいる。混乱は通り越すと具合が悪く、胃が重くなるものらしい。友達の彼氏の浮気現場か、と響先生がぽつりと呟いた。そういうのって、どうするの、と聞かれる。
「どうするの、って、」
「友達に報告するのが正義だとか思ってるんなら、考えた方がいいと思うよ」
途端にわたしの中で重たかった気持ちとは別に、怒りが生まれたのを感じた。
「……どうしてですか、」
「真実が必ずしもみんなを幸せにするとは限らないから」
「でも、黙って浮気されてるのを放っとけってことですか?」
「放っとけ、とは言わないけど、もしもお友達が何にも気付いてないんだったら、寝耳に水の厳しい話を突然リカちゃんがするっていうのもどうかな、って思うだけだよ」
なんですかそれ、わたしには分かりません。
そう言った後で、愛美に明日は話さなくちゃ、と思った。崇さんが浮気をしているなら、愛美は怒る権利があるし、黙っていられて浮気されているのを知らないでいるなんて可哀想だ。友達として、わたしは愛美の力になってあげたいし、愛美がそれで泣くなら傍にいてあげたい、怒るなら一緒に怒ってあげたい。
「恋愛偏差値だけじゃなくて、社会的お勉強もまだまだなのかな」
響先生のからかうような声が、残る。




