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続きものです、しばらくお付き合いください。
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髪の長い女が好きだと言われた時、なんだ先生もそこらの男と一緒じゃん、と、がっかりした。
どうして髪が長いというだけで男は美人とか女らしいとか、そういう印象を与えたがるんだろう、わたしは髪の長いブスとか乱暴な女をいっぱい見ているし知っているし、男達だって髪が長いというだけでそれがいい女の確定要素にはならないと分かっているだろうに、それでも髪の長い女っていいよな、とか言う。自分の好みじゃない長髪の女は、視界から零れ落ちてしまっているんだろうか。
だから、先生が髪の長い女が好きだと言った時、わたしはあからさまに馬鹿にしたような目をしたし、鼻でフンと笑ってやったりもした、ベリー、まではいかなかったけれどショートカットな髪のわたしはどうせ範疇外なんでしょう、まだ中学生だし、なんて、がっかりして失恋した気分にさえなっていた。
「千二百五十円になります、会員カードはお持ちですか? ポイントがつきますけれど」
だけどわたしの馬鹿にした目も笑って鳴らした鼻もさらりと笑顔で流して、だって想像してみなよ、と先生は言ったのだ。長い髪はさ、伸ばすのに時間がかかってて、その間に何人かの男がその髪を撫でたりしている可能性も高いわけで、髪はそのときの記憶そのままの証人っていうか証拠ってことだろう、だけどその過去の男達が撫でてきた髪を今撫でているのは自分で、なんか、勝った、って感じになるっていうか、もちろん自分だって今後その髪の持ち主と関係が続くか終わるか分からないけれど、髪に記憶を残していく人間にはなれるんだからさ、その人が髪を伸ばしつづける限り。そんな、風に。彼は目を細めて、言って。
「ありがとうございました、いらっしゃいませ、レンタルですね」
そして先生はいきなり手を伸ばしてきてわたしの頭を掴むようにしてぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜて、リカちゃんの髪にもボクの記憶、と笑ったから、わたしは恥ずかしくて嬉しくてなんだなんだと驚いて俯いてしまって、やっぱりこの人好き、と叫びだしたいくらい真っ赤になって、大好き、と強く強く思った。
響先生はわたしが中学二年生から三年生の秋まで、家庭教師をしてくれていた人だった。頭を撫でられてしまったから、その時から髪が切れなくなったのは仕方がないことで、高校一年になった今日までずっと伸ばされたままになっている。おかげで肩を越した髪は友達もうらやんでくれるほどさらさらで、意外と自分は長い髪の方が似合ったんじゃん、なんて新たな発見をしたりしている。
「会員カードをお願いします、はい、お預かりいたします。……お返しいたします、では今月十七日までにお返しください、ありがとうございました」
夜十時過ぎのレンタルビデオ店は、半分が本屋で半分がレンタルビデオでぽつぽつと文房具なんかも置いてあって、駐車場も広いせいか結構まだ混んでいた。家庭教師をしてくれていた響先生を思い出したのは、バイクの後ろに乗せてもらっていたから被っていたヘルメットを、脱ぐときに髪がぐしゃぐしゃになったからムッとしたのもあったけれど、多分それよりは第六感的勘みたいなものが働いたせいだと、後になってから思った。
バイクに乗せてくれていた努は予備校生だそうで、夏に駅前でナンパされてから仲良くなって一緒に遊んだりしている。別に彼氏とか彼女とかいう訳でもなくて、友達は信じてくれないけれどキスとかもしたりする関係じゃない。お互いに携帯番号とメールアドレス、そして名前しか知らない、今時の恋人達はそれだけで充分という人達もいるらしいけどわたしはそうじゃない。住所も知ってないと、年賀状が出せない、もっといろいろ知ってないと、すぐに失ってしまえそうな関係の気がしてきて、そんなのを恋人なんていう大事な関係に設定したくない。
いらっしゃいませ、と、自動ドアが開いたのに反応して紺色の制服の店員が視線をちらりと上げて言う。
「なに買うの?」
努はなんとかって名前のお笑いコンビの、結構格好いいツッコミの人に似てるとよく言われるらしいけれど、わたしはテレビをあまり見ないのでそのお笑いのコンビが分からない。努の顔は努だけの顔だし、そういうことで騒がないわたしだから一緒にいて楽、と彼は言う。騒ぎたくても知らないと騒げないから騒がないだけなのに。
「探してるマンガがあって。え、なんでビデオ借りるんだとは思わないの?」
「リカコ、ビデオ見ないじゃん」
「そんなことないよ、邦画とか結構好きだけど」
「でも俺、リカコがビデオ借りてるとこ見たことないよ」
週刊誌のコーナーにいた、遊んでる風な女ふたり組がこっちに顔を向けて、ひそひそと努の顔を見て何か囁くのが見えた。わたし達は恋人同士じゃないですからね、と教えてあげる術がないのがもどかしい。ヘルメットを被っていたから、ぐしゃぐしゃになっているであろう髪を歩きながら撫でつけて引っかくように指で梳く。努は見たいビデオあるから、とビデオスペースに行ってしまって、だけど探し物はひとりでしたい派のわたしは気楽になったので、うん行っといでよ、なんて彼の方も見ないでひらひらと手を振った。
毎月誰かが学校に持ってくるから覗かせてもらう地元情報誌が目に付いたので、手に取って最後の方にある占いページだけ見てみる。星占いも誕生月占いも血液型占いもそんなに信じないけど、この雑誌の占いだけは当たると友達が絶賛していたので、いいことが書いてあった時だけ信じることにしている。店内には有線のヒットチャート番組が流れているようで、耳にしたことのあるヒップホップ曲なんかが邪魔にもならず空間を満たしていた。
本当は欲しい本なんかなくて。
努に会いたかった訳でもなかったけど、彼のバイクの後ろに乗せてもらって夜を走るのは大好きなので、でもそれを素直に言うのは恥ずかしい気がして、レンタルビデオ店に行きたいんだけど、と呼び出した。そこがわたしの知っている中で、一番遠いところにある本屋だったので。
バイクの後ろは怖い。ジェットコースターが大嫌いなわたしは三半規管が弱いからだと言われた事もあるけれど、なんにせよスピードが出るものだとかが苦手で大嫌いで、努のバイクの後ろも乗るとすごくすごく怖い。叫び声が喉で凍りつく、というよりも、大きな塊として膨れていってしまって、口から出てこないようなサイズに育ってしまう感じで息苦しくて泣き出してしまいそうなくらいで、こんなのが風になるという感覚ならわたしは一生風になりたくないし、風はなんて怖い感覚で毎日吹かなきゃならないんだろうと同情してしまうくらいなのだけど、それでもフルフェイスのヘルメットを被せてもらって世界とちょっとだけ遮断される感じとか、怖くて泣き出しそうな感覚の中で唯一頼れるものすごい安心なもののようにしがみつける努の腰とか、そういうのが絶対的な怖さの中でほんの少しだけわたしを幸せにして、その小さな幸せを感じるためだけにバイクの後ろに乗せてもらいたい時がある。だけどそういうのを説明するのは恥ずかしくてなんとなく嫌だ。それならただ、気が向いたから、というようにさりげなく電話して、レンタルビデオ店に行きたいからバイク乗せてよ、なんてちょっと拗ねたように不機嫌そうな声を出す方が何倍も簡単だったりする。
不機嫌な女の子、だけどただ不機嫌そうなだけじゃなくて、自分が小さなお願い事をちらっと叶えてあげればすぐにご機嫌になってにこにこ笑い出しそうな女の子に、男の人は弱いと、わたしは知っている。だからわたしはお願い事がある時は不機嫌そうな声を出すようにしている、ほんのちょっとの匙加減ですぐににっこり笑ってくれるだろう雰囲気も漂わせながら。
探してるマンガはないけれど、努に言った手前一応探してみる振りでもしようかな、と、マンガのコーナーにぶらぶら歩いて行って、仲良く見本用の本を覗き込んでいるカップルの脇を通り抜ける。暑かった夏も終わって、これから日も短く、どんどん寒くなるだろう。寒くなった頃、恋人という存在と抱き合っていたらとても暖かいんだろうな、と想像はするけれど、わたしにはまだよく分からない。マンガコーナーは駐車場に面した壁のところにあって、大きな窓ガラスがはまっている。店内が明るいので、ガラスは鏡みたいにわたしをくっきりと映し出していた。バンビみたいに大きな目は釣り上がり気味で、唇はぷっくり苺みたいに赤い。わたしは自分の顔の中で、目と唇だけは気に入っている。小さな頃、周りの大人に褒められるのがこの唇で、生意気そうに見えるよ、と言われたのが目だった。瞬きをしないでじっと相手を見詰めると、見透かされそうで嫌だと言われた、そういう人達は何を身体の中に、心の中に、隠し持っているんだろう。見透かされたくない何かを。恥ずかしいことなのか、悲しいことなのか。
平積みにされている、入荷したばかりの最新刊と話題作とを手に取ってみて、心が動かされなかったのでまた元に戻した。奥へ進んで、青年コミックス、と札が立てられている本棚を見る。眺めていると、表紙の絵が好みの本があったけれど、ビニールがかかっているので中身が確認できなかった。好きなのは表紙の絵だけだったりしても嫌だしな、とまた返す。消しゴムだけでも買って帰ろうと思って文具コーナーへ回り、一番シンプルなものを手にしてレジへ向かった。努はまだビデオを探しているんだろう、ちらりとも姿を見せない。
ずらりと横一列に並んだレジカウンターの、何気なく一番空いていた場所に並んだので、別に気付いていた訳ではなかった。並んでいた人が本を買って、次の人がビデオを借りて、わたしの番が来たので消しゴムを差し出しただけだった。
「会員証がありましたらどうぞ、ポイントがつきますので、」
声に聞き覚えがあった、ような気がしたのは後からで、わたしがふと顔を上げたのは偶然だったと思う。普段レジの人の顔なんかまじまじと見ないけれど、それは本当に。ただ、ふ、と顔を上げてしまって。
「あっ、」
声を発したのはわたしで、レジ向こうの人はカードを忘れてしまった為にそれが声に出たんだと思っただけだっただろう。忘れられてるのかな、と悲しくなった気持ちは本物、でも同じくらい、他人の空似? とも思ったから、発した言葉は弱々しかった。
「……響先生?」
「え、あ?」
少したれ目でやわらかく笑って、綺麗に整ってるんだけど時々何を考えているのかまったく分からなくなっちゃうような顔をしていて、わたしの髪を切れなくした人。遠くを見る眼差しが得意で、その横顔が無茶苦茶格好良くて。
「先生でしょ? 先生だよね? わたしのこと、忘れちゃった? ひどいなー、忘れちゃったんでしょ」
意地悪く見えるように唇の端っこを持ち上げてにやりとして見せたけど、相手も動じずさりげなくわたしの差し出したカードを裏返して、バーコードをピ、と読み取った。カードの裏に書いてあるわたしの名前をきっと、その時読んだのだと思う。
「神澤リカコちゃん。覚えてるよ、お久しぶり、……英語と数学はもう苦手じゃない?」
「ピンポーン、大正解! って、なんでこんな所にいるの?」
「レジ打ってるからだよ」
今日どうしてもバイクの後ろに乗せてもらいたかったのは、この偶然に遭遇するためだったのかもしれない。と、思うにはわたしに霊感だったり予知能力だったりはないのだけれど。
「いつから? あれ、ずっといる?」
「結構最近、それでまあ、しばらく辞める予定はないかな」
列の後ろが気になるけれど、偶然の大事な再会なので大目に見てもらいたい。
「やだやだ、すっごい偶然、結構興奮してるんだけど伝わってる?」
「ポーカーフェイスだからなー、あんまし伝わってない」
先生の顔がやわらかくほころぶ。あ、可愛い。
「ね、先生、また会いたいから人質ちょうだい」
「人質?」
「今日は人と来てるから、先生のバイト終わるの待ってたりはできないけど、なんか、あ、それともわたしともう一回会うのは嫌?」
「そんなことないよ、人質なんか預けなくても普通に会うけど、じゃあ、」
先生はすばやく自分がしていた腕時計を外すと、わたしの手の中に押し込んだ。
「百五円になります」
一瞬何を言われたのか分からなくて首を傾げた。指差されて、消しゴムの代金だと気付く。
「ちょうどお預かりしますね、ではカードをお返し、」
しません、とそこだけ小声になって、彼はするりと自分の胸ポケットにわたしの会員証を入れてしまった。
「あっ、」
「これはボクの人質。また会いにおいで、ここにいるから」
渡された消しゴムを入れた袋がかさかさとわたしの手の中で音を立てる。
うんまたね、と手を振って、後ろに並んでいた人の舌打ちには気付かない振りをして、わたしはレジから離れた。努を捜して家に帰ろう、だけど彼を恋人と勘違いされたらちょっと嫌かもしれない。
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生のグレープフルーツがひとつ百二十八円なのに、缶詰のグレープフルーツは五百六十円だったらしい。
「それって絶対なんか間違ってると思うんだよね」
昼休みのベランダは日が射していて暖かい。コンクリートの小さな箱みたいになっているベランダなので、冷えれば冷えっぱなしだけれど暖まれば暖まりっぱなしなのだ。そこへ、教室側の壁にもたれて足を投げ出すように腰を下ろして、わたしは愛美と並んでパックのコーヒーを飲んでいた。
「誰が買うってんだろ、あんなたっかい缶詰」
女子高生はコンビニで食を満たしている、と大人は思っているらしいけれど、そんなのきっとどこか限定された小さな範囲の中だけの話だ。同じペットボトルなら百四十七円出すコンビニより、九十八円で済むスーパーに行く。世の中が不況なら、女子高生のお財布の中だって不況なのだ、風邪を引きそうなくらい寒々しい。飲んでるコーヒーも学校近くのスーパーで買ってきた物で、その時に高い缶詰を見たのだろう。
「なんかいろいろ高くてやんなっちゃう」
「まあね、うん、いろいろって?」
「来月崇の誕生日、でもプレゼント買ってやるお金ないのん」
二回目だ、と言ってあげたら、愛美はくすぐったそうに笑って、嬉しそうに、うん、と言った。
「じゃあもう一年経つんだ」
「一年と三ヶ月。ってのが正しい」
「素敵だね」
「素敵でしょ」
愛美の彼氏はわたし達よりひとつ年上で、何度かカラオケとかに一緒に行ったことがあるけれど、それなりにちゃらちゃらしていてそれなりに顔も良くて、だからこそ愛美は付き合いなんて三ヶ月くらいで終わっちゃうんじゃないかとずっと心配していた。でも不安は空振りのままで関係もまだ当分ちゃんと続いていきそうだ。見かけがチャラくても、人は外見だけで決まるわけではないんだ、とちょっと感動する。でも浮気とかはしてるかもしれない、彼女とか彼氏がいる人間は意外とモテる、後腐れがないお遊びには最適だから。
キスをしたら次の日から彼氏面、彼女面、というような知り合いはいっぱいいて、大人の方がよっぽど純粋な恋愛をしているような気分に時々、なる。始まりが簡単なら終わりも簡単だから、セックスしたくらいでは相手を捕まえたと安心したりできないらしい。
「あれ、」
「うん?」
新しい腕時計だ、と、いきなり左腕を取られて持ち上げられた。さすがに驚いて、口からコーヒーのストローを離してしまう。
「なに、男物? あ、ポールスミスじゃん、え、え、どしたのこれ、買った、んじゃないよね?」
「あー……、あー、預かり物。えっと、人質」
「っていうか、何それ」
文字盤のところが薄いブルーの腕時計は、見た目より重たくてつけていると腕が疲れる。響先生に渡されたそれは、だけどつけているとわたしの腕が彼の腕にすり替わったように感じられて、すごく幸せな気分になれる。このままの腕で自分の頭を撫でれば、あら不思議、響先生に撫でられてる気分になって幸せなのだ、なんかひとり上手で悲しくなったりしないでもないけど。
愛美とふたりして足を放り出しているので、紺と赤のチェック柄をしたスカートから四本の白い足はするりと伸びていて、ソックスをはいていない部分の膝の裏だとかが直接コンクリートに触れていてあたたかさを感じている。
「ちょっとね、預かってるの、人のなの。だから、わたしんのじゃないの」
「あー、もしかして彼氏! できた?」
「なんでそうなるの、できてないっての、彼氏なんて別に、」
欲しくないし、とは言わない、頭の中に響先生の顔が浮かんだので余計に欲しくないと言えなくなった。
歳も歳だし、異性に興味がないわけでもないし、それはキスだったりエッチだったりに対しての興味とも言えるけど、ただ純粋に自分だけの特別な人が、頭を撫でてくれたり手をつないでくれたり、寂しいときは電話したりメールしたり、友達でも家族でもない、そんな相手が自分にもいたらな、という憧れも含めて。彼氏、欲しいかもしれない。だけど、寂しいときや退屈なときのメールなり電話なりは努で足りているな、と、あの顔を思い出す。
「え、でも好きな人は? 好きな人くらいいるでしょ、好きな人のだ、それ!」
「なんで女ってのは恋話が好きなんかしらね、ま……好きな人か、うーん、好きな人、好きな人、」
「いいなぁ、好きな人かー」
人の話はちっとも聞かないで、愛美は目をきらきらさせている。どうして本当に、女ってのは恋だの愛だのの話がこんなにも好きなのか。
「って、あんた彼氏いるんじゃん、好きな人なんじゃん、それが」
「そおだけどー、そおだけどさ、でもほら、なんかちょっと違うんだよ、両想いと片想いって、あと両想いもさ、お互いに意識してるだけの時と実際付き合っちゃった時とは全然別の話になっちゃうしさ」
「そんなもの? え、え、なんで、わたし分かんない」
だってさ、だってさ、と愛美は嬉々として喋りだした。夢中になると彼女はそばかすの散った鼻の先がほんのりと赤くなる。
「好きな人ってまだキスとかそれ以上とかしてない関係な訳じゃん、で、これからそういうのをこの人とするのかって思うと、ドキドキするの、ときめいちゃって、きゃー! って感じになるの」
「なんで? 愛美は崇さんとキスとかする時、きゃー! って感じにもうならないの? 崇さんのこと、もう実はそんなに好きじゃないの?」
「好きだけど違うの! なんて言うんだろう、もっと純粋なときめきっていうか、そういうのなんだよ、付き合ってない両想いとか、片想いとかってのは」
不純なときめきがあったりするのだろうかと首をひねるわたしの横で、愛美は一生懸命に説明して理解させようとしてくれる。恋愛は女の子を哲学者にするし、詩人にするし、天才にならせてバカにならせるんじゃないかと、わたしは思う。
「だってさ、崇とは……あのね、時々なんだけど、エッチとかが合図になっちゃうんだよね、暗黙の了解っていうか、そういう」
「エッチが合図? エッチするために何か合図するんじゃなくて?」
合言葉を決めておくとか、肩を三回叩いたら今日はエッチしようって意味だとか。ほら、なんかの番組であったじゃない、イエス・ノー枕とか。
「違うの、あのさ、たとえば今日は疲れてて早く帰りたいんだけど彼氏と一緒にいて、で、あんまり早く帰ると相手も機嫌損ねちゃいそうだし、自分もちょっと物足りないって時があるじゃない?」
あるじゃない? と言われても、わたしは彼氏を所有したことがないのでいまいちよく分からない。それでも曖昧に頷いてみせると愛美は、先を続けた。
「そういう時にさ、わざとエッチな展開に持ち込んじゃうんだよね。崇のその、アレに手を伸ばしてね、さりげなくやる時もあれば、しようって自分からいう時もあるんだけど。エッチをするとね、疲れるの」
「疲れてるのに疲れてることをするの? なにそれ、ランナーズハイみたいになっちゃうの? 疲れてる状態がそれを飛び越えちゃうとか?」
「違うよ、エッチして疲れて、じゃあ帰ろうか、ってなるの」
「んんんん、なんかよく分かんないけど」
「エッチが、帰ろうっていう合図になるのよ。崇は気付いてないかもしないけど。エッチしちゃえば満足するの、満たされて、今日はもういいやって思うの、あ、どっちかっていうと、今日もこれですることしたし終わりかなー、って感じかな? しかも一応あれって愛情表現だったりするじゃん、疲れてて帰りたい私は罪悪感なんて全然なくて家に帰れるし、崇も性欲処理できて満足だし。だけど、そういうのってちょっと間違ってるよね、なんかもっと、エッチとかって純粋な気持ちでするもんじゃんって思うんだ」
「エッチって、純粋な気持ちとか愛情表現だとかなんとかって前に、子供作る行為だと思うんだけど」
愛があるからその人との子供を作りたいと言われれば、確かに愛情表現だし、嫌いな人には裸を見せたくないどころか触れたくもないから、愛美が言うことも分からなくはないけれど、エッチ、という言葉自体が不純なイメージのような気がする。いけないこと、のような。
「エッチしてると、ちゃんと結びついている気になるの」
エッチでしか結びついていないなら、それは悲しい関係なのではないかと思ったけれど、口には出さないでおいた。それに別に愛美と彼氏くんはエッチだけでつながってるわけじゃないだろうし。
「ええっと、でも、合図じゃない時もあるんだよね? ちゃんと、求め合って、っていうか、」
求め合う、という言葉の恥ずかしいことといったら。なんでこんな話をしてるんだろう。愛についての言葉は恥ずかしすぎる、恋についての話は軽くきゃっきゃとできるのに。
「求め合って……うーん、お互いに、したい! って思うときのこと?」
「えー、わたしに聞かないでよーう! え、え、よく分かんないけど、うーんと、まあ……そうなのかな、うーん、うーん」
腕時計をして響先生の腕になった方の手、わたしは自分の唇をその甲に当てた。前かがみになって。吐き出す息が鼻のところでコーヒー色に染まって匂う。キスもまだなのに、エッチのことについて言われても分からない、だってきっとそれはわたしの想像しているのと違うかも知れないし、雑誌で見る知識や友達から聞かされる自慢混じりだったり愚痴混じりだったりする情報からだけじゃ、抱き合うという行為で伝わるらしい体温なんて全然分からない、想像ももしかするとトンチンカンな方向かもしれない。
「あれ、リカコって、」
「うん? ああ、うん、まだぴかぴかの処女だよ」
「……いいよね、そういうことが堂々と言えるのって」
処女に戻りたいということだろうかと、わたしはきょとんとした。そんなの、処女です、と嘘をつけばいいだけの話だし、誰もパンツを下ろして足を持ってひっくり返して処女膜を確認したりしないだろうし、そもそも処女膜は膜ではなくてただの襞だと聞いたこともある。
だけど愛美の言いたかったことは、まったく違うことだったらしい。
「リカコくらいだよ、恥ずかしくもなく処女ですって言えるのって、やっぱり美人は得だよね」
「処女が恥ずかしい? なんで? 処女って言葉が恥ずかしいってこと?」
「違うよ、あのさ、私みたいなのが処女だとさ、やっぱりなーって思われるじゃん、彼氏もできなさそうだしって」
「ちょっと待ってよ、実際彼氏がいるのは愛美で、いないのはわたしだよ? 誰がそんなこと言うのよ、そんな、くだらない」
それに愛美のどこが「やっぱりなー」なのだろう、細い目をますます細くして笑う顔は可愛いし、肌は真っ白でそばかすの鼻も外国の子供みたいでとても素敵なのに。処女も恥ずかしくて、だけどきっとヤリマンとか言われて誰とでも寝ちゃうって噂が立てられるようなことも恥ずかしいと思うはずなのだ。それは確かに、三十も四十も過ぎて恋人もできなくて男に振られまくっていて、誰もセックスしてくれませんまだ処女なんです、なんて泣かないといけない状態になったんだったら、恥ずかしいと思うかもしれないけれど。だけどわたしはまだ十六歳で、そんなに焦らなくてもいいような気はする、早ければいいというものでもないだろうし。もちろん、好きな人――それで思い浮かぶのは響先生だったりするけれど――とだったらしてみたいって思うし、でも結婚するまで処女のままがいいなんて思うほど純情ではないし。響先生とだったらしてみてもいいかもしれない。むしろしてみたいかもしれない。
だけどわたしは響先生とエッチができるチャンスがきたとき、処女じゃなかったとしても処女だったとしても、きっとどっちにしたってドキドキして慌てたり焦ったり恥ずかしいって思ったり、幸せって感じたり嬉しいって気持ちになると思う。それも想像の範囲を越えないから、実際にその場に立たないと意味がないのかもしれないけど。大事なものと同じで、処女も失くしてみないといろいろ気付かないものなのだろう。
「でも、彼氏いなくても処女じゃない人もいるじゃん」
その逆も。学生のうちは嫌だって、お預けさせてる人とかいそうだ。エッチをする年齢とか、タイミングとか、千差万別でいいと思うんだけど。大体、雑誌とかで見る処女喪失の年齢グラフなんて、大抵が嘘なんじゃないの、絶対おかしい、十三歳とか十五歳とか、二十歳まで処女なんて自殺級に恥ずかしがらないとダメ、みたいな風潮。絶対絶対おかしい、大人ってわたし達をバカにしてんじゃないのかしらと思ってしまう、女子高生なんてお洒落とエッチをこねくり回して作られてる物だと勘違いしてる。そう考えているわたしも、時々は非処女イコール男にモテないと思われてそう、と、愛美が言ったような心配をして、ちょっとだけ、処女って恥ずかしいかも、と思ってしまうこともないわけではないけれど。
だけどさ、と愛美がまだ何か言おうとしていたところで、ベランダと教室をつなぐガラス戸が空いた。数学の先生が顔をひょっこりと出す。
「こら、五分前だぞ」
うっそマジで? なんて言いながらわたしと愛美は慌てて立ち上がって、スカートのお尻をパンパンと叩く。いけないことだと知りながら、手に持っていたコーヒーパックの中身をそのままベランダから、零れ落ちていく。少なかったとはいえ、下の花壇にコーヒーが降り注いだ。茶色い雨。
腕時計が重くて変な感じだった、こんな重いものを腕にはめていて、男の人は疲れちゃったりしないのだろうか。疲れても疲れたって言わないんだろう、だって男の人の腕って、女の人を抱き締めたり引き上げたりするために存在してるはずなんだから。腕時計ごときで疲れてちゃ、そんなの男失格だ。