あのう…。ちょっとよろしいですか?
日常の隙間に潜む、得体の知れない恐怖へようこそ。
満員電車、街角の人ごみ、あるいはあなたのすぐ隣——見慣れた景色の中に異形が紛れ込んでいたら、あなたならどうしますか?
これは、ごく普通の日常が怪異に侵食されていく瞬間に立ち会ってしまった、ある男の記録です。背筋を凍らせる不気味な体験をお楽しみください
「ちょっとよろしいですか?」
喧嘩売機の列に並んでいました。僕のひとつ前に並んでいた御婦人。お嬢様?奥さん?女子高生?どう呼ぶべきかはわからないけれど……。
しかし、そうかといって今時、いきなり後ろから肩を叩くというのは大誤解のもと、少し勘違いされるだけでおしまいだし。
仕方なく、大きめな声で、お嬢様と呼ぶしかなかったのです
。だが、僕の声に彼女が反応する前に僕は言い足したのです。
「びっくりしないで聞いてくださいね」
「は……はあ…」
彼女は後ろを振り返らずに応え
た。
「なんですか?」
言いながら彼女はぶっきらぼうに言い、振り返ろうとした。その刹那、僕は、叫んだ。
「振り向かないで」
僕は少し強めに言い切った。さらに、
「お背中に……。着いているのですよ。誠に申しあげにくいのですが…」その時、急に彼女が首を回して自分の背中を見つめたのです。
その存在に気づいた周囲の女子高生や自身から、
「きゃあっ」だとか、「いやっ」だとか「助けてえ…」
といった悲鳴が激しく起き始めたので御座います。
それは大きな蜘蛛でありました。女郎蜘蛛というのでしょうか?それとも、背赤後家蜘蛛のたぐいなのでしょうか?僕は蜘蛛には全く知識はありませんでした。
とにかく、毒蜘蛛でであったら大変。咄嗟に叫びました。彼女の傍で恋人じみた顔をしている高校生に向けて
「カレシ!取ってあげて」
蜘蛛のは8本の足をうねらせておりました。彼氏さんは、一瞬、弱腰な態度を見せましたが、思い切って
――すぐ思い切って手を伸ばした。
……が、彼の指先が蜘蛛に触れる寸前、突然、御婦人が「ひゃっ」と奇妙に甲高い声を上げた。
そして、背中の蜘蛛に向かって、まるであややすかのように、自分の手で優しく、愛おしげに撫でたのだ。
「ダメよ、お行儀よくしてなきゃ」
彼女の声は、先ほどまでのぶっきらぼうなものとは打って変わり、酷く甘ったるく、不気味なほどに穏やかだった。
「ごめんなさいね、この子、まだ幼くて。すぐに私の背中を『食べよう』とするの」
僕と高校生、そして悲鳴を上げていた周囲の女子高生たちは、その場に凍りついた。
御婦人の指が蜘蛛を愛撫するたびに、蜘蛛の8本の足が歓喜に震えるようにうねる。
そして、僕たちは気付いてしまった。
彼女が着ている、上品な絹のコートの背中部分だけが、異常に薄く、そして……細かく脈打っていることに。
彼女が振り返り、僕に向かって、真っ黒な瞳で微笑んだ。
「あら。貴方の背中も、なかなか美味しそうね。この子が大人になったら、きっと、喜ぶわ」
僕は、自分の背筋を何かが這い上がるような、言いようのない悪寒に襲われ、ただ、ガタガタと震えることしかできなかった。
【了】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
あなたが毎日目にしているその景色や、隣に立つその人物は、本当に「本物」でしょうか? ふとした瞬間に覚える違和感には、どうぞご注意ください。
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