#32 空気よめ!上位存在
「…………」
「…………」
僕は、何の言葉を発することもなく、ユウカちゃんに向き合っていた。
彼女は顔を両手で多い、掌を伝った涙は、石畳の上にぽつぽつと暗い染みを作っていく。
手を差し伸べたかった。
慰めの言葉をかけたかった。
彼女のことを――「好きだ」と、言ってあげたかった。
……けれど、僕にはそれがひどく誠実さに欠ける行いであるように思えてならなかった。
ついさっき、カズヒロおじさんに言った通りだ。
僕は、レイチェルさんのことが……間違いなく好きだった。
僕とユウカちゃんが離れていた五年あまりの期間、僕はユウカちゃんとの一件を発端に女性に関心を持つことを恐れるようになり、レイチェルさんとの出会いでその気持ちをときほぐされた。
彼女の幻影は振り払えていない。性への目覚めと相まって、僕の恋愛的関心は今だってキャシィ族に引き寄せられている。
そんな中で、「僕もユウカちゃんが好きだよ」なんていう事は、どうやっても「嘘」になってしまう。この世には、いくら相手を傷つけたくなくても、ついちゃいけない嘘だってあるはずだ。
……そのことを、僕も、ユウカちゃんも、身をもってわかっているはずだ。
僕は、孤立していた僕に優しくしてくれたユウカちゃんに心から感謝しているし、これから昔みたいに仲良くなりたいとも思っている。
……それは恋心の萌芽とも言えるかもしれないし、彼女とそういった関係になるのが嫌なわけでも無い。
――けれど、それは今ではない。
今、「好きだ」と彼女に言うことは、僕には出来ない。
ただただ、無為に沈黙が流れる。
誰一人救われることの無い時間は、永遠のように感じられた――
――――あー、ちょっといいかな?
流れる沈黙を破ったのは、白く揺らめく巨大な人影……上位存在だった。
「……さっきの願いは叶えねぇぞ。まだ保留中……あるいはキャンセルだ」
――――ああ、四十六号の質疑応答の件で、そこは把握している。
――――「物質も魂も継承した同一人物の再生成」や「記憶の改変」
――――これらの事案は、社会通念的にも倫理的にも懸念が強い。
――――だから、我々も同行者が止めるならば履行するつもりはないよ。
――――哲学的ゾンビの問題に近い、同一性の保障の観点でね。
「……そりゃ結構」
――――その上で、論点を整理したいんだよね。
――――谷岡ハルトと、扇ユウカの望み、その本質と着地点をね。
「…………」
――――あまり、うがった視線を送らないでくれよ。
――――私たちは「人々を幸せにするための願望機」なんだから。
揺らめく白い人影は、おじさんたちを経由し、僕らの願いの聞き取りを始めた。
* * *
――――ふむ。
――――谷岡ハルトは、社会的な理由で「性的関心を矯正したい」。
――――キャシィではなくホモサピエンスに関心を持てるように。
――――けれど、記憶改変は自己の同一性を欠く懸念が強いので中止。
――――私を頼らず独力での解決を目指す、と。
――――扇ユウカは、谷岡ハルトから恋愛的好意を得たい。
――――それは記憶改変でも達成できたが、彼はそれを拒否。
――――そのため、自身の身体をキャシィに作り替えたい、と。
「……あんまり、露骨に言ってやんなよ。高校生だぞ」
呆れた表情でカズヒロおじさんは白い人影に視線を送った。
――――であれば、だ。
――――「肉体や精神を改変せずに」
――――谷岡ハルトが、扇ユウカに対して、
――――恋愛的な魅力を感じられるような、
――――そういった状況を作り出せばいい。
――――解決の道筋はあるね。
「えっ……」
僕は、上位存在を振り向いた。
ユウカちゃんもまた、顔を覆う手をそっと離し、白い人影に視線を移した。
――――「感覚器官による認知」が、他者の魅力を規定するのなら、
――――「感覚器官を惑わす」ことで、人は異なる現実を認識する。
――――その本質が、何一つ変わっていなかったとしても。
――――受け取りたまえ、扇ユウカ。
――――君の望みを叶える、魔法の器を。
――瞬間。
願望機が、白い人影が、光の軌跡と化し、円環を描いた。
それは、徐々に縮小しながらユウカちゃんの方へと近づいていき、やがてその手元で、ひとつの小さな金属の環になり、彼女の手元に落ちた。
「これ、は……?」
彼女は、両手を器にして受け止めた金属環……指輪を、右の人差し指と親指でつまみ上げた。
――――君が「別の存在」になる危険は一切ない。
――――そして君は「なりたい姿」になれる。好きな指にはめてみると良い。
いなくなったはずの白い人影の声が、宝物殿に響く。
得体が知れないと怪訝な顔をし、彼女に声をかけようとした僕らを待つことなく、ユウカちゃんはその指輪を、左中指にはめた。
「――っ!?」
――彼女の全身が白く輝き、陽炎のように揺らぐ。
突然の事態に動揺する僕らを前に、揺らぐ彼女の身体は、明確な形を成し、その光を減衰させて、やがてひとつの形を成した。
ライトブラウンの髪、紺色のチェックのスカートにライトイエローのカーディガン。その上にオリーブグリーンのローブをまとった、太縁眼鏡の彼女の姿は……ライトブラウンと白の体毛に覆われ、三角の耳としっぽをはやし、ピンクの肉球を持った、猫のような容貌に変わっていた。
「おい……っ!!キャシィ族には変えるなっつっただろ!!」
カズヒロおじさんは怒号を飛ばす。
僕は、言葉を失い、彼女の姿に呆然としていた。
――――ああ、彼女の身体には何の手も加えてない。
――――同一性は間違いなく失われていないから安心して欲しい。
「ざけんなっ!現にこの子は……」
――――完全擬態魔法だよ。
「は……?」
おじさんを遮るように、上位存在は言葉をつづけた。
――――君たちもよく使うだろう?「疑似壁魔法」。
――――あれは、壁に見える幻影が生まれるだけで、実体はないよね?
――――空間を対象に錯覚をもたらす魔法で、一切の物体的干渉を受けない。
――――擬態魔法は、それの応用さ。
――――視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……それらの全てを「騙す」。
――――擬態魔獣の使う魔法の超すごい版だね。
それを聞いたHIMIZUさんが、手元からひとつの眼鏡を取り出し、ユウカちゃんの方を見た。そして、その場にしゃがみ込み、彼女の全身を確認した。
「……嘘じゃないですね。看破魔法のエンチャントされた眼鏡で確認しましたが、もとの彼女の身体そのものです」
僕は、慌ててHIMIZUさんから看破眼鏡を借り、ユウカちゃんの姿を確認した。
そこには、先程までと変わらない彼女が、自分の手の甲を指先で撫でていた。眼鏡をはずすと、彼女は不思議そうに、肉球の先端で手の甲の毛並みをいじっていた。
――――普通の擬態魔法じゃ、ここまではいかないよ。
――――これは、私の……上位存在の演算能力によるものさ。
――――体毛の一本に至るまで、君たちには現実にしか感じないだろうね。
……あまりにも現実離れした状況だけれど、状況証拠は示している。これは、彼女自身の身体に影響を及ぼさず、「自由にキャシィ族に変身する指輪」だ。
――――錯覚の効果対象は使用者たる扇ユウカ本人も含まれる。
――――当人も含め、彼女が「キャシィ族の肉体を持った」認知が得られる。
――――それは、彼女がキャシィ族になったのと同じと言えるんじゃないかな?
ユウカちゃんが指輪を外すと、その姿は人に戻り、もう一度指輪を着用すると、まばゆい光とともに再びキャシィの姿になる。
――――迷宮の外でも単体で動作するから、普段の生活でも……
――――あっ……、なりすましや詐欺みたいな犯罪行為には使えないよ?
――――倫理規制機構も入れたから、常識の範囲で使ってね。
――――というわけで、諸問題は解決だと思うけど……どうかな?
……危険はない。それは確かだった。
けれど、何だろう。おじさんたち大人陣営も、何を言っていいのかわからず困惑した表情だ。
これは、根本的に解決と言えるのか……。
僕の「誠実にユウカちゃんと関わっていきたい」という想いに対して、これはどうなんだろうか……。結局、僕の欲のために彼女を振り回しているだけなんじゃないか、と。僕は頭を抱えていた。
「ハル君」
苦悩する僕は、ユウカちゃんの声に、現実に引き戻された。ユウカちゃんは、彼女の面影を残す「キャシィ族の女性」は、僕のすぐ目の前に立っていた。僕は、慌てて背筋を伸ばし、後ずさった。
「……ハル君が、恋をしたいって女の子に……キャシィの女の子に、私……」
彼女の顔が、目と鼻の先にまで迫る。彼女のブラウンの潤んだ瞳は、宝物殿に並ぶ照明を反射し、きらきらと、星のように輝いている
「……私は、『本物』じゃないけど、容姿容貌だけの話じゃないってことも、わかってるけど」
吸い込まれるような彼女の瞳に映る僕は、顔を真っ赤に染めていた。そこには……間違いなく、僕の「理想の女性」が、立っていた。
「好きに……なってくれますか?」
「だ、ダメだ……ッ!!」
僕は、彼女の肩に手を置いて、引きはがすように、その瞳の距離を遠ざけた。彼女は驚き、目を見開いていた。
「ハル君……」
「これで……僕は、流されちゃ……ダメなんだよっ!」
ユウカちゃんは、僕の言葉を聞いて悲しげな表情を見せる。
それでも、僕は、ユウカちゃんが大切だからこそ、この気持ちを変えるわけにはいかないはずだ。
「ユウカちゃんは、ユウカちゃんとしてこれまで生きてきて、ずっと真面目に僕に向き合ってくれたのに……『僕の好きな見た目に変身したから』なんて理由で、僕は君のことを『好きだ』なんて……言えないっ!不誠実じゃないかっ!」
僕は、目の前にいる「愛おしい猫のような女性」から目を逸らしたい気持ちを抑え、下卑た誘惑への抵抗と、この上ない恥ずかしさに、表情を歪めながら、彼女の瞳を見つめていた。ここで逃げちゃ……絶対にいけない。
「僕は、ちゃんと……ユウカちゃんを……孤立した僕に優しくしてくれたユウカちゃんの、ありのままの姿のユウカちゃんに、ちゃんと『好きだ』って言えるようになりいたいんだよっ!だから……」
「……あっ」
……口走ってしまった。
ユウカちゃんを「好きだって言えるようになりたい」……?
それって、……「好き」って言うのと、何が、違うんだ……?
…………
「……ハル君」
彼女は、そっと、口を開いた。ライトブラウンの体毛に覆われた、彼女の顔もまた、ほのかに紅潮しているように感じた。
「好きに……なって、くれるの?」
「…………」
……恥ずかしい。
親族やHIMIZUさんの前で何を口走っているんだ、僕は。
でも、僕は、踏み出した脚を、後ろに引く気持ちは起こらなかった。
「……すぐに、とは、言えない、です。それでも、こんな、勢い任せじゃなくて……、ちゃんと、ユウカちゃんと、これまで話せなかった頃のことも、しっかり話して、気持ちの整理をつけたいので……」
僕は彼女の肩から手を放し、頭を下げた。
「子供の頃みたいに……、また、僕の『友達』になって……もらえますか?」
今の僕は、ユウカちゃんを大事にしたいって気持ちの一方で、彼女のことについて、知らないことが多すぎる。
……きっと、明るい話だけではないのもわかってる。けれど、彼女が悩んだことも、辛かったことも、まず、しっかり聞いてから、自分の意思で彼女に寄り添って、一歩ずつ近づいていきたいと、そう思った。
情けないとは思うけど、今の僕に言える言葉は「これ」が背一杯だった。
「……うん、わかった。ハル君」
ユウカちゃんは、柔らかい肉球の掌で、僕の右手を握り込んだ。
「私、もう、焦らないから……だから……」
顔を上げた目の前には、複雑な心境のこもった笑みを浮かべるユウカちゃんがいた。
「また、『お友達』から……始めましょう」
――「理想の女性」を抱きしめたいという「欲」に抗うように、僕は、彼女の掌を両手で包み、硬く、握手をした。




