第34話 決闘
そして五日目の特訓を終えた金曜日の夜に、俺は嶋中を呼び出した。
その日を選んだのに大した理由はなかった。
あえて挙げるなら、ここ最近断続的に降り続いていた雨が夜更けに止む、と朝の天気予報でやっていたのが一番の理由だった。
嶋中は優実の携帯から電話をかけて少し挑発したら簡単に呼び出しに応じた。
場所は例の橋の下だ。
誰にも見咎められない場所が他に思いつかなかったのだ。
古びた電灯が灯っている。
橋の下全体を照らすには不十分だが、今の心境には不思議とマッチしていた。
優実の携帯には着信が何十件も入っていた。
そのほとんどが嶋中からで、優実の携帯を預かったのは正しかったと知る。
同時に、気がかりなことがあった。
嶋中以外からもいくつか着信が入っていたのだが、そのどれも『お父さん』『お母さん』『お姉ちゃん』と家族からのものばかりだったのだ。
よくないことだと思いながらも、無料通話アプリを開いてみる。
内容はみないから許してくれ、と心の中で優実に謝る。
こちらにもやはり、嶋中と家族以外から連絡はなかった。
優実はこの五日間、学校を休んでいるのだ。
妹に様子見の連絡を小まめにするように言ってあるから、間違いない。
それなのに、学校の友達から心配する様な連絡が一つもきていないのだ。
そのことに、苛立ちと焦燥を覚えた。
約束の時間は二十三時だった。
それに嶋中は十分ほど遅れて現れた。
黒地に金の英文が入ったダサいジャージを着ていた。
不良と言うよりチンピラっぽい。
「なんなんだよ。こんなところにまで呼び出しやがって」
不機嫌そうに吠えるが、どこか落ち着かない様子で周囲を窺っていた。
警戒するように尋ねてくる。
「お前一人か」
「ああ」
「本当だろうな。あのヤクザみたいなやつとか、呼んでんじゃねえだろうな」
「呼んでねえよ」
そもそも知り合いですらない。
「お前さ、なんなんだよ」
「なにが」
「とぼけてんじゃねえよ。なに、お前ら付き合ってんの?」
どうやら優実の話らしい。
「付き合ってねえよ。ただの知り合いだ」
妹のことは伏せた。
嶋中のような手合いの行動は海綿動物並みに読めない。
独自の価値観があり、倫理観や常識が欠如している。
万が一、妹に被害が及ぶのを恐れたのだ。
「じゃあなんで他人のお前がしゃしゃり出てくんだよ」
「知り合いだっつってんだろ。てか関係ないだろそんなの。お前、あの子になにをしようとしたのかわかってんのか」
「あいつが悪いんだろ!」
嶋中は突然叫んだ。
「人のことをからかいやがって」
「だから、仲間と一緒に襲ったってのかよ」
「ああ、当前だろ」
嶋中はへらへらと笑う。
本当に自分に非がないと信じているようだ。
もともと、まともに会話ができるとは思っていなかった。
だから俺はこの五日間、準備をしてきたのだ。
俺は足を踏み出す。
同時に、嶋中が背後に向かって怒鳴り声をあげた。
「おい!」
咄嗟に立ち止まり、嶋中を睨み付けた。
「……お前」
「なんだよ、一人で来いとは言われてねえぞ」
ぎりっと奥歯を噛み締め、沸騰しそうになる頭を必死に鎮める。
前回、衝動に任せて突っ走ったせいで優実を救い損ねたのだ。
スキンヘッドの男が現れなければ本当に危なかった。
冷静になれと自分に言い聞かせる。
暗闇の中から砂利を踏む複数の足音。
ひょろりとした猿顔が頭に浮かぶ。
袋叩きにされた記憶が蘇り、心臓が軋んだ。
逃げるべきだと理性が告げる。
正当化はいくらでもできる。
一対一でも勝てるかわからないのだ。
ここで立ち向かうのは蛮勇でしかない。
けれど、俺は理性で感情をコントロールできるほど利口じゃなかった。
向こうの態勢が整う前なら、まだチャンスはあるかもしれない。
嶋中を倒せたとしても、その後に袋叩きにされるだろうが、構わなかった。
玉砕覚悟で突っ込もうと足に力を籠めた——その時だった。
鈍い衝撃音と、それに続く悲鳴。
——なんだ?
争うような声がしばらく続き、やがてしんと静まり返る。
何か狙いがあるのかと、嶋中の顔を窺ってみるけれど、困惑しか読み取れない。
暗闇に目を凝らすと、誰かが佇んでいるのがかろうじてわかった。
その黒い影はこちらに歩み寄ってきて、灯りの元に姿を現した。
「……真崎」
呆然としながら、その名を口にした。
「お前、なんで——」
「お、おい」
俺の問いは嶋中の切迫した声に遮られてしまう。
それは真崎にではなく、待機させていたはずの仲間に向けられたものだ。
返事はなく、代わりに真崎が答えた。
「呼んでも来ねえよ。全員寝てる」
「ご、五人いたんだぞっ。ぜ、全員武器を持って」
「どうってことねえよ」
言葉にならない様子の嶋中に代わって、俺が言った。
「お前、どんだけ強いんだよ」
「別に。ただ蝶のように舞っただけだ」
「背後から刺したのか……」
あの刃物のように鋭い蹴りや突きで。
俺は呆れて言った。
「中学生相手に容赦ねえな」
「関係ないだろ、そんなの」
その言葉に、ハッとする。
何を腑抜けたことを口走っているのだろう。
あの袋小路での光景が、脳裏に蘇った。
「そうだよな」
俺は歯を剥いて、唸るように言った。
「女だろうが子供だろうが老人だろうが死人だろうが、関係ねえよな」
嶋中がパニックに陥ったように、俺と真崎を交互に見る。
そんな嶋中を、真崎は細めた目で鬱陶しそうに睨みつけた。
「なに迷ってんだよ。前門のネズミと後門の狼だぞ」
「誰がネズミだ!」
俺は感情に任せて怒鳴った。
「せめてハムスターと言え!」
「同じじゃねえか」
「愛らしさが違うだろっ」
「なんでこの状況で愛らしさ求めてんだよ……」
真崎が心底気味悪そうにつぶやいたとき、嶋中が叫び声をあげながら突進してきた。
俺は重心を下げ身構える。
相手から視線をそらさず、動きをよく見ろと自分に言い聞かせた。
右の大振りだ。
ダッキングでかわすと同時に、左のジャブを放った。
顎をとらえ、痺れるような衝撃が拳から背中にまで走る。
怯んだところに、すかさず右のストレートを顔面に叩きこんだ。
完璧な手応え。
嶋中はふらふらと後ずさる。
俺は跳躍するように距離を詰めて、右の拳を思いっきり振りかぶった。
熱くなり、真崎に教わったことを忘れたわけではない。
最後の特訓が終わった時に、言われたのだ。
「お前のパンチ力じゃノックアウトは難しい。だから、もし絶対に当たるって確信がある場面なら、思いっきり振りかぶって全力でぶん殴れ」
「いいのかよ」
「なんだかんだ言っても、当たりさえすれば全体重を乗せた大振りの一撃が、一番効くんだよ」
——それが、今だ。
雄叫びをあげ、上から叩きつけるように嶋中の顔面を殴打した。
勢いを殺し切れず、嶋中と縺れるようにして河川敷を転がった。
俺はすぐに起き上がり、嶋中に馬乗りになった。
鉄槌打ち、と呼ぶにはあまりに無様すぎたと思う。
癇癪を起した子供のような格好で、何度も何度も拳を振り下ろした。
嶋中は顔の前で腕を交差させて打撃を防いでいた。
込めた力に見合うような手応えが返ってこない。
嶋中の手首を掴み、ガードをこじ開けようとした。
けれどびくともしなかった。
やはり単純な腕力なら嶋中のほうが上なのだ。
怒りと興奮が行き場を失い、胸の底にどろどろと溜まっていく。
ふと、狭窄した視野の外にあるものが、意識に引っ掛かる。
引き寄せられるように、俺は目だけをそちらに向けた。
手を伸ばせば届く範囲に、煉瓦ブロックほどの大きさの岩が転がっていた。
俺は反射的に、その岩を掴んでいた。
腰を浮かせ大きく振りかぶる。
そして嶋中の頭部目がけて振り下ろそうとした——その瞬間、何者かに手首を掴まれた。
首根っこを引っ張られ、無理やり嶋中から引き離される。
「もういいだろ」
わけがわからず、俺は真崎をじっと見つめた。
荒い呼吸が徐々に整う。
ふと、右腕に重みを感じた。
視線をやると、歪な形をした岩が俺の手に握られていた。
その岩の一番鋭利な部分で、人の頭を殴りつけようとしていたことを思い出す。
ぞっとして手を離した。
岩は落下し、鈍い音が河川敷に響いた。
「……悪い、助かった、止めてくれて」
肩で息をしながら、俺は言った。
「素人は加減を知らないから怖いんだよ」
疲労のせいか、責めるような声がやけに辛かった。
深呼吸を繰り返し、興奮を沈めようとする。
ある程度落ち着いてから、嶋中を見やった。
嶋中は倒れ伏したままだ。
その姿を目にすると、また怒りが再燃したが、歯を食いしばってぐっと堪えた。
正直、殴り足りない。
けれど今は自分の感情よりも優先しなければならないことがあった。
嶋中に近づき、出来るだけ感情が滲まないように努めながら、けれど相手の心に楔を打ち込むように低い声で言った。
「次はあの人とその仲間も呼んで袋叩きにするからな。お前が先にやろうとしたことだ。文句はないよな?」
嶋中は俺とあのスキンヘッドの男が知り合いだと勘違いしている節がある。
なら、それを利用しない手はなかった。
嶋中の顔に怯えが滲んだ。
そして小さくだけど、確かに頷いた。
「他の連中にも言っとけ」
そう吐き捨て、もう用はないとばかりに去ろうとした。
五歩ほど進んで立ち止まり、踵を返す。
まだ地面に寝そべったままの嶋中に近づき、その股間を思いっきり踏みつけた。
嶋中の心肺は一時的に停止し、次の瞬間、激痛によって蘇生する。
悲痛な呻き声が河川敷に木霊した。
こういう連中は片っ端から去勢するべきなのだ。
それこそ鈍器で潰してやればいい。
四つでも五つでも、二度と同じ行いができないように一つずつぐちゃぐちゃにしてやればいい。
日本では残虐刑が禁止されているから、刑罰としてそれが行えないのはわかる。
だから「異常性衝動症候群」なんて適当な病名をつけて、治療という建前で取り行えばいい。
それでも人権団体は黙っていないだろうが、そんなの知ったことじゃない。
これはなにも感情論だけで言っているわけじゃなかった。
今後、嶋中が優実に手を出すことはないだろう。
けれど、いつか俺の知らないところで、優実意外の誰かを襲うかもしれないのだ。
いっそここで息の根をとめてやろうかとも思うけれど、それを実行に移すだけの覚悟を俺は持たなかった。
俺にできることと言えば、こうして悪戯に苦痛を与え、自らの憂さを晴らすことだけだった。
それも結局、自分の無力さを痛感し、気が滅入ってしまっただけだったけれど。




