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第30話 父

 駅のホームには俺と妹しかいなかった。

 ベンチに並んで座り、なかなか来ない電車を待つ。

 会話はなかったけれど、雨音が沈黙を埋めてくれるから気にならなかった。


 ふと視線を巡らせたとき、妹が暗い表情をしていることに気がついた。

 光の加減でそう感じるだけかと思ったけれど、どうも違う。

 妹はなにかを憂いている様子だった。


「どうした」


 妹はこちらを見上げ、なにが? と目顔で尋ね返してきた。


「元気ないから」

「ちょっと、気になることがあって」

「まあ、わかるけど。でも優実のことはあんま心配すんなよ」


 妹は首を振った。


「優実ちゃんのことは、それほど心配してないの。お兄ちゃんがなんとかしてくれるから」


 そう手放しに信頼されても困るのだが、素直に嬉しいのもまた事実だった。


「じゃあ、なんでそんなに沈んでんだよ」


 妹は視線を外した。


「さっきさ、優実ちゃんに『いい人がいい親とは限らない』って言ったよね」

「ああ」

「あれってさ、お父さんのこと?」

「……なんでそう思うんだよ」


 咄嗟に誤魔化そうとしたけれど、うまくいかなかった。


「お兄ちゃん、お父さんのことずっと避けてるし」


 同じ屋根の下で暮らしているのだ。

 察しのいい妹が気づいていないわけがなかった。


「ああ、そうだよ」


 妹の声音に困惑が滲む。


「お父さん、すごく優しいと思うけど」

「そうだな。ちゃんと働いてるし、衣食住も満たしてくれてるし、学校にも通わせてもらってる。いい人だよな」

「じゃあなんで」

「だから、いい人がいい親とは限らないだろ」


 ——好きにしろ。


 父の武骨な声が脳裏で再生される。

 それは父がよく口にする言葉だった。


 例えば、俺がまだ小学生のころ、週末によく家族でデパートに出かけていた。

 そこで、いつもお菓子を一つだけ買ってもらえた。

 優柔不断だった当時の俺は、まるで人生の岐路に立たされたような心地で真剣に悩んだものだ。


 いつも二つか三つまでは絞り込めるのだ。

 けれど、その中から一つを選ぶことがどうしても出来なかった。

 どれもパッケージが紫っぽかった記憶がある。

 小さいころの俺は、なぜかグレープ味に全幅の信頼を寄せていた。


 散々悩んだ挙句、俺はいつも父に判断を委ねた。

 母はまだ幼かった妹につきっきりだったから、自然と、父と俺、母と妹、という組み合わせができていた。


「どれがいい?」


 父はこちらを一瞥すると、突き放すように言った。


「好きにしろ」


 その言葉を聞くと、不思議と一つを選ぶことが出来た。

 選んだそれはひどく色あせて見えた。


 父はテンプレのようなエリート人生を歩んできている。

 裕福な家庭に産まれ、教育熱心な両親に育てられ、名門の一貫校を経て日本有数の大学を出ていた。

 こういってはなんだけど、なぜ教職を選んだのか不思議なほど、瑕疵のない経歴を持っていた。


 そんな父が子供にも同じ道を歩ませようとしたのは、当然のことかもしれない。


 私立の中学に行きたいと思ったことは一度もなかった。

 遊ぶ時間を削ってまでやりたくもない勉強に打ち込み、その結果が小学校の六年間で培った交友関係を一新することだなんて、いい事なんて一つもないと思っていた。

 今だってそう思っている。


 それなのに、父は俺の意思など一顧だにせず、中学受験を強要した。

 父に勉強を教え込まれた日々は、苦い記憶として俺の中に残っていた。


 受験はあっさりと失敗した。

 滑り止めも軒並み駄目だった。


 公立中学に入学してからも、相変わらず父の干渉は続いた。

 仕事から帰ってくるなり「学校はどうだ。真面目にしているか」と、そんなことばかり口にした。

 毎日毎日、まるで追い詰めるように。


 父のせいにするつもりはないけれど、成績はあまり振るわなかった。

 一応上位はキープしていたものの、それは公立中学での話であって、到底名門中学で常にトップクラスだった父を満足させられるものではなかった。


 中学三年の夏。

 俺は合格圏内の高校のパンフレットをいくつか父に見せた。


「どこがいいかな」


 怖くて父の顔が見られなかった。

 こんな高校にしかいけないのかと、怒られるのではないかと思っていたのだ。


 けれど、父はパンフレットを一通り眺めてから、一言こう言っただけだった。


「好きにしろ」


 見捨てられたような気がした。


 俺は高校に入ってから、バイトをしたいと言ってみた。

 父はまた「好きにしろ」と言った。

 掛け持ちし、当てつけのように毎日バイトに明け暮れるようになった。


 当然成績は落ち、中の下あたりをふらふらとした。

 父は特に何も言わなかった。


 そのころからだ。

 俺が自室で食事をとるようになったのは。

 最初はバイトで時間が合わないから、という建前を使っていたけれど、バイトを全てやめた今でもその習慣は続いていた。

 どうしても、父と同じ食卓を囲う気になれないのだ。


「養育って言葉があるだろ」


 俺は不意に言った。


「養い、育てるんだよ。養うことと育てることは違うんだよ。俺は、あの人に養ってもらってるけど、育ててもらってるとは思ってない。いい人だとは思うけど、いい親だとは思わない」

「……なんで?」

「いろいろだよ」


 俺はしばらく考えてみた。


 喧嘩をしたわけでもなければ、なにか酷い仕打ちを受けたわけでもなかった。

 だから、なにが原因か一概には言えなかった。

 無理やり中学受験をさせられたのが一番の原因である気もするけれど、じゃあそれがなければ父親に対する反感はなかったのかと言えば、そうじゃない。


 傍から見れば、ただの反抗期なのだろう。

 でも違う。その時期はもう三年も前に訪れ、すでに去っていたからだ。

 意味もなく両親に苛立っていたあの頃とはまた別物だ。


 父のことが嫌いなわけではなかった。

 本当に、嫌味ではなく、いい人なんだと思う。

 もし俺に、父の期待に応えられるだけの能力があれば、きっと良好な関係を築けていただろう。

 だからといって、自分が悪いとも思わない。


 目の前を電車が通過する。

 ごおっと風が唸り、雨が俺たちの元にまで運ばれてくる。

 反射的に目を閉じて顔をそむけた。

 音が十分に遠ざかってから、俺は言った。


「合わなかったんだよ」


 口にしてから、その言葉が妙にしっくりとくる。


「……合わなかった?」

「そう、あの人と俺は合わなかった。お前にだっているだろ。悪い人じゃないのにどうしても仲良くなれない相手って」


 俺にとって、父がそうだった。

 父にとって、俺がそうだった。

 それだけの話だ。


 長い間を置いてから、妹はぽつりと言った。


「よくわからないや」


 その軽い調子に少しムッとする。

 ここまで聞いておいてなんだよ、と俺は妹を横目に睨んだ。


 妹は泣いていた。


 声をあげたり顔を歪めたりすることなく、ただ大きな瞳から涙をこぼしていた。

 俺の視線から逃れるように、妹は線路をたどって遠くを見た。


「まあ、そうだよな」


 俺は取りなすように言う。


「俺が間違ってるのは、わかってるんだけど」


 妹はふるふると首を振った。


「私はね、自分とは違う考えを、理解できないからって否定するほど馬鹿じゃないよ。……私はただ、悲しいだけ」


 妹は小さく鼻をすすった。


「ごめんね、理解してあげられなくて」


 妹にそんな風に謝らせてしまう自分が情けなくて、泣きたくなった。

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