第15話 蘇生、記憶
——痛みに息を吹き返す。
男は股間に強い衝撃を受けると、一時的に心肺が停止し、次の瞬間に襲ってくる激痛によって強制的に生き返るのだ。
いやマジで。
少なくとも主観としてはそんな感じなのだ。
回復してからは散々走らされ、加えて筋トレを限界までやらされた。
妹に容赦はなかった。
疲れ果てて汚れるのも構わず地面に大の字になる。
ジャージはとっくに脱いでいて、今は半袖の白シャツ姿だ。
出来れば長ズボンも脱ぎたいところなのだが、あいにく下に短パンをはいていなかった。
汗が引いてから起き上がろうとしたが、それすらもままならない。
一度腹ばいになり腕を突っ張ることで、ようやく上体を起こすことができた。
公園には俺たちの他にも大勢の人がいた。
フリスビーをしたりバドミントンをしたり、ただ走り回ったり。
日曜日だからか、子どもを連れた父親らしき男性の姿が多かった。
子どもの活発さに右往左往し、疲れ果てながらも、幸福そうに笑っていた。
ぼうっと眺めているうちに、次第に焦点がズレていく。
ぼやける視界に古い記憶が重なった。
「そういや昔、ここで祭りがやってたな」
何気なくそう言うと、隣で三角座りしていた妹が顔をあげた。
もう先ほどの怒りは収まっているようだ。
さすが、切り替えが早い。
「そうなの?」
「ああ、だいぶ前だけどな。祭りでよく見る丸っこいカステラがあるだろ」
「ベビーカステラ?」
「それ。ベビーカステラを作ってるところが面白くてさ、長いこと眺めてた記憶がある」
屋台のお姉さんの手際がすごくよくて、見ていて飽きなかったのだ。
ぽんぽんぽんと弾くように袋詰めしていく姿には感動すら覚えた。
まじまじと見つめていると、お姉さんは照れたように笑い、その表情も印象に残っている。
「でもそれっておかしくない?」
妹が首を傾げた。
「なにが」
「それって相当小さかったころの話なんでしょ? 私が全く覚えてないくらいだし。じゃあ、カステラ作ってるところ見えないじゃん」
妹は斜め上を指さした。
「ああ、確かに」
妹の言う通りだ。
小さな子供の目線では、屋台を見上げることはできても、カステラを作ってるところを見ることはできない。
俺も不思議に思えてきた。
「記憶違いかな」
それにしても、妹の洞察力には、たまに驚かされる。
普通、目線の高さになんて疑問を持つだろうか。
俺の感心をよそに、妹はふいに尋ねてきた。
「そういえばさ、お兄ちゃんって、友達いるの?」
「……なんだ突然?」
「ほら、お兄ちゃん、春休みに入ってからずっと家にいるし。誰かと電話やメールのやりとりしてるところ、見たことないし」
別に大したことじゃないけど、と言うような繕った声音が、本気で心配していることを物語っていた。
「いや、いるよ。むしろ多い方だと思うぞ。俺は人見知りするような性格じゃないしな。……ただ、放課後や休みの日まで連絡を取り合ったり遊んだりするほど仲のいい相手が一人もいないってだけで」
「……うわぁ、それ一番リアルなやつじゃん」
「なんだよリアルなやつって」
言いたいことはわかるけど。
「仕方がないだろ。入学してからバイトばかりしてて、放課後や休日に遊んだりする時間がなかったんだから」
遊びの誘いを毎回断っているうちに、全く誘われなくなったのだ。
部活にも所属していない俺は、特別仲のいいグループを持たなかった。
「それにしたって、中学のころの友達とか」
「卒業式の帰りに連絡先全部消したわ」
妹がもの悲しそうに、自分の膝頭を見つめる。
「お兄ちゃん、昔は友達たくさんいたのにね」
「だから今もいるって」
「私の友達にも人気だったんだよ。かっこいいって評判で」
「まじか」
知らなかった。
確かに小学生のころ、妹の友達と何度か遊んだことがあるけれど。
「そうだよー。私も誇らしかったんだから」
妹の友達からの評判がよかったって話よりも、それを妹が誇りに思っていたことのほうが嬉しかった。
「ま、ガキンチョの扱いには、お前で慣れてるしな」
俺は憎まれ口を叩く。
照れ隠しだ。
なにそれー、と不満そうな声を上げてから、妹は名案を思い付いたとばかりに手を叩いた。
「今からでも私の学校に転入してくれば?」
「あ? どういう意味だよ」
「ほら、お兄ちゃん、年下の女の子と接するの得意みたいだし」
冗談を言ってるのかと思い顔を窺ったけれど、どうもそういう風じゃない。
「いや無理だろ。なに言ってんの」
「私のとこ、転入生受け入れてるし、お兄ちゃんの学力なら試験もパスできるでしょ」
そりゃ中学の転入試験に落ちるほど馬鹿じゃないけど。
「そういう問題じゃないだろ」
「どういう問題なの?」
「だから、年齢と性別」
妹はハッとし、眉間に皺を寄せた。
「……それは盲点だった」
「緑内障でも患ってんのかお前」
妹は「いい考えだと思ったんだけどなー」とぶつくさ言う。
そんな妹に呆れていると、遠くから新世界よりの輪唱が聞こえてくる。
気づけばもう夕暮れだ。
風も冷たくなってきた。
「そろそろ」
そう言いながら俺は立ち上がる。
「そうだね」
妹も立ち上がり、
「じゃあ最後に、ダッシュ十本だけして帰ろっか」
と、笑顔でそんなことを言った。
*
翌日、筋肉痛で満足に起き上がることもできなかった。
怪我の痛みとは違い、なんだか笑ってしまいそうになる類の痛みだった。
ちょっとだけ気持ちがいい。
昼食を終え、ベッドの上でごろごろする。
焼きそばのソースの匂いが気になり窓を開けようと立ち上がりかけたとき、部屋の扉が無遠慮に開かれた。
平地を走るピューマ。
今日も妹はジャージ姿だった。
「運動しに行くよ」
「いやいやいや」
顔の前で手を振る。
痛みのせいでぎこちない。
「俺、全身筋肉痛」
「関係ないよ、そんなの」
「あるだろ」
「ないって」
「超回復って知らないのか? 運動した後は休ませた方がいいんだよ」
「そんなの気にしなくていいから」
「なんでだよ。大切なことだぞ」
詳しくは知らないけれど、スポーツ医学がなんとかかんとかであれなのだ。
「あのね、お兄ちゃん」
妹は諭すような口調で言う。
最近こういうことが増えた気がする。
上から物を言うわけではなく、屈んで目線を合わせるような、そんな話し方だ。
いつ立場が逆転してしまったのだろう。
とても悲しい。
「超回復は重要なことだけど、でもだからこそ、運動をサボる大義名分になってしまうものなの」
「いや、俺は別にサボりたいとか……」
反論は尻すぼみになる。
俺の中に『これで今日は一日中ごろごろできる』という思いが確かに存在したからだ。
そのことに気付き、少しショックを受けた。
「運動を始める上で一番大切なのはね、筋肉や体力をつけることじゃなくて、習慣づけることなの。効率とか気にするのは、三か月早いよ」
なにも言い返せなかった。
妹の言う通りだと思ってしまったからだ。
運動に限らず、そしてその良し悪しに関わらず、何事も習慣が物を言う。
それは俺の浅い人生経験ですら自明のことだった。
「……わかったよ」
妹に言い負かされて重い腰をあげるのも、最近板についてきた気がする。




