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僕は今日も、部室の前で昼食を取っていた。
コンクリートで塗り固められた入り口。今や何人たりとも入ることを許されない、もはやただの壁だ。
ここは、かつて僕たちの憩いの場だった。
部屋の奥に、あの人はいるのだろうか。僕は壁の向こうにあるはずのない幻想を抱いてしまう。
――月光寺ミカ先輩は、光城高校新聞部の部長だった。
品行方正で眉目秀麗。そして向上心の塊のような人。記憶の限り止まっているところを見たことがないので、チャームポイントの黒髪ツインテールが常に忙しなく揺れていた印象がある。あと身長の低さを常に気にしていた。
そんな彼女の起こした奇跡の数々に、僕は魅了された。惰性で生きる予定だった高校生活が、とんでもなく好調なスタートダッシュを切ることになろうとは思いもしなかった。
そして好調過ぎたが故に、あのような結末を迎えてしまうと、そのショックも大きい。
去年の四月、先輩に颯爽と連行されてしまったのが全ての始まりだったのだ。
◆◆◆
「君が加々美航クンだね! 何、悪いようにはしない。さあ、私と一緒に来るんだ!」
あまりにも突然のことだった。
光城高校に入学した次の日。授業がまだ始まっていない新入生は午前中で学校が終わり、さて家に帰ろうと玄関から出た直後。僕が知らないはずの女子生徒が、僕の名前をはっきりと呼びながら手を差し伸べてきたのである。
これが僕と、一人の魔法使いとの出会いだった。
「……はい? っていうかなんで僕の名前――」
やけに馴れ馴れしいその人は、僕の言葉を待たずに手をむんずと引いて歩き出した。入学早々、見知らぬ女子生徒に何の理由も聞かされないままどこかに連れていかれているこの状況。正直、悪いようにされる気しかしなかった。
手を引かれながら見る光景は全てが新しい。自分が着ているこのブレザーだって、まさかこれから三年間着続ける制服だというイメージもイマイチ湧かない。廊下を歩いている上級生が、一つ二つしか年齢が違わないのにやたらと大人びて見えたりもした。そうだ、僕はもう高校生なのだ。
校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を何度か通るごとに、人の気配が少なくなっていく。なんというか、神秘的な静けさを感じた。
やがて先輩はとある教室の前で立ち止まった。引き戸の上には『理科準備室』と掠れた文字で記されたプレートが。
先輩は「連れてきたよ!」と軽快に言いながら、引き戸を開けた。
瞬間に感じたのは、酷く古びた埃の匂い。理科準備室とのことだが、その中は全くと言っていいほど片付いていなかった。一般的な教室を半分に切ったくらいの広さで、部屋の中央に設置された、理科室特有の流し台付きの六人掛け机。その上には一体いつ刷ったのかわからないくらいに黄ばんだプリントやら文房具が散らばっている。壁に備え付けられた棚にあるビーカーや試験管といったガラス類の表面には埃と水垢。
物置。この表現が一番しっくりときた。そしてそんな物置然とした部屋には、先客が三人、椅子に座っていた。制服の真新しさを見ると、僕と同級生なのだろうか――って、
「……彩智?」
「やっほ、航」
中学三年生からの顔見知りが、手でVサインを作りながら言っていた。そして後の友人となる朋也や有栖さんの姿もあった。
「なんで彩智が」
「まだ部活決めてないんでしょ? 誘ってあげたの」
「部活? ……あ、これって」
僕はこの時ようやく、これが部活の勧誘なのだということを悟った。そういえば校門の前で色んなスポーツのユニフォームを着た人や、楽器を演奏している人が新入生に熱い視線を送っていたような気がする。理科準備室に連れてこられた辺り科学部なのだろうが、はっきり言って理系に興味はなかった。
「……僕は部活をするかすら決めてないぞ」
「じゃあ今決めよ。やるってことで」
「あのな……」
高校に進学しても相変わらずの強引っぷりに僕が苦笑いを浮かべていると、
「静、粛、に!」
先輩が腰に手を当てて、意気揚々と声を張った。
「諸君、この度はお集まりいただきありがとう! 私は部長の月光寺ミカだ!」
僕はこの時、ようやく先輩の名前が月光寺ミカだということを知った。聞き慣れない苗字に首を捻ってしまった記憶がある。
「そしたらミカちゃん、ここは何する部活なん?」
朋也は気だるげに手を挙げ先輩に訊いた。初対面の、しかも年上の人間になんて態度を取るんだこの男は、と僕はヒヤヒヤしていた。
「うむ、よくぞ聞いてくれたぞ色男! ……と、言いたいところなんだが、あいにくどんな部活にするかは決めていないんだ」
「……はい?」
手を挙げたまま体が斜めになる朋也だった。
「笹子にな、部活を始めるのならあと四人集めて来いと言われたんで、たまたま目に入ったキミたちを招待したというわけだ!」
「その、笹子さんって誰ですか?」
彩智は顔を引きつらせながら訊く。
「この学校の教員で、暫定顧問だ。私が四人集めることができたら顧問を引き受けてやってもいいと言っていた」
「はあ……」
しばし、沈黙。
場の空気が急激に冷えていくのがわかった。みんな恐らく、勧誘ということだから内容だけは聞いてみようという心持ちでここまで来たはずなのに、勧誘した当の本人から出た言葉は「まだ決めていない」。これでは納得できないだろう。
そうして朋也がいよいよ帰り支度を始めようとしたところで、彩智がもう一度先輩に、
「あの、何をするか決めてないってことは、月光寺先輩は別に部活なんてやらなくてもいいって思ってるってことじゃないですか? それなのにどうして」
ごもっともだと思った。普通は何々がやりたいから何々部を作る、という順番で動くものだ。先輩の場合はその全てがあやふやで、それでは部活である必要すらなくなってくる。
「……あっはっは。言われてしまった」
図星だったのだろう。先輩は観念した様子で笑ってみせた。
「みんなとね、遊んでみたかったんだ」
「遊ぶ? そんなの友達と遊べば」
「自慢じゃないが、私は友達がいない!」
先輩はさも自慢のように、声高らかに言った。更に続ける。
「学校の連中は私のことを奇人、変人扱いしている節があってね、部活に誘おうにも誰も彼も門前払い。だったら私のことを知らない新入生をターゲットにしようと思ったわけだ!」
先輩は演説するように両手を広げてそう言った。理科準備室を再び沈黙が覆う。
「……部活じゃないと、だめなんだ」
すると数秒の後、助けを乞うような、先程とは打って変わって小さな声が耳に入った。先輩の一番近くにいた僕にしか聞こえなかったのか、他の三人は反応を示していなかった。
僕は正直、もう帰りたくなっていた。
何をする部活か決まっていない。でも部活はしたい。
自分は他の人間からヤバイやつだと思われているから、それを知らない僕らを誘った。
清々しいほどに入りたいと感じる要素がないじゃないか。入学早々に僕まで変人扱いされるなんて堪ったものではない。もういい加減、こんな埃っぽい部屋から出て、外の空気を吸いたい。
「んじゃ、俺は帰りますわ」
口火を切ったのは朋也だった。僕を推薦した彩智も、申し訳なさそうに目くばせをして椅子から立ち上がる。有栖さんはおろおろとしながらもそれに釣られた。まあ、こうなってもしょうがないだろうな。僕は小さく嘆息すると先輩に、
「誘って頂いてすいませんが、僕たちはこれで」
「ちょっと待ったあああ! まだ話は終わっちゃいないぞ!」
先輩は小さい体をこれでもかと使って、僕たちの行く手を阻んだ。
「何部にするかは決まっていないが、何をしたいかは決まっているぞ!」
「いやだから結局意味わからんし」
朋也は頭を掻きながらため息をついた。
「……先輩?」
背が低いため、先輩は僕たちを見上げる形になる。僕はその不敵な上目遣いが、やけに不気味に感じて、思わず喉を鳴らしてしまった。
――この人はこれから、何かとんでもないことをする。そんな気がして。
その眼差しは、これから起きるであろう驚愕に対する圧倒的自信。
泣いても許してやらないぞ、とでも言わんばかりの理不尽な笑み。
「――これからキミたちに、奇跡をお見せしよう!」
春一番が、この理科準備室に吹き荒れたような気がした。
「奇跡って……」
「――そうだ、旅をしよう! 私たちの人生は、まだ何も始まっちゃいないんだから!」