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人類の歴史と『魔法』は、百五十年ほど前までは切っても切り離せない関係にあった。
当然僕は百五十年前から生きている不死の存在ではないので、実際に魔法なんて見たことはない。むしろそんなものはフィクションの世界にしかない超常現象くらいに考えている。
しかし、僕がどんなに魔法の存在に懐疑的であろうと、過去の人々が後世に遺してきた文献等資料の数々は、確かにその時代に魔法があったことを有無など言わさずにぶつけてくる。
歴史の授業――日本史なり世界史なりを受けていれば、否が応にもその事実を実感せざるを得ないのだ。
鎌倉時代に日本を侵攻してきた東アジアの国が、苦戦を強いられた神風と呼ばれるものは、時の執権北条某に仕えていた魔法使い、誰々が起こしたものだとか。
戦国時代に勃発したあの戦の大きな勝因は、織田某の側に誰々という魔法使いが加勢していたからだとか。
アメリカ大陸を発見した者についてはいくつかの論争が巻き起こっているが、真の発見者は彼らに助言をしていた魔法使いの誰々だとか。
これら全ては、いずれも受験に出てくるような常識問題だ。ただでさえイメージの湧かない当時の戦争の様子や歴史的発見が、それらは更にイメージの湧かない『魔法』が大きな影響を与えていたという事実。歴史の勉強を始めた頃の僕にとってはかなり衝撃的で、そして何より、悔しいけど心が躍った。
そんな魔法が現代に近づくにつれ消えてしまっていった理由は大きく分けて二つあり、一つは人類の技術が発展したこと。魔法の有用性は、日を追うごとに目覚ましく発展していくテクノロジーと反比例するように衰退していく。
そして二つ目は、一つ目に付随する形で発生した、民衆の魔法に対する信仰心の減退である。魔法は字の如く、魔力によってその力を発揮するわけだが、それと同じくらいに人々の信仰心は重要だった。人々の魔法を信じる気持ちが強いほど、魔法の効果は強くなる。そんな民衆の信仰心が希薄になっていってしまったのだ。
テクノロジーの発展によって魔法の必要性は次第に薄れる。そしてその結果、民衆の信仰心は消えていった。明治時代に入る頃には魔法使いのほとんどが廃業を余儀なくされたらしい。これも全て授業の受け売りなんだけど。
――と、ここまで突拍子もないことを言ってきたわけだが、この話はとある人物のことを語る上で欠かせない前置きなのだ。もう少しだけ話を続けさせてほしい。
既に過去のロマンとして語られる魔法の力。現代の生活において僕たちは魔法にお目にかかることはまずない。そもそも、魔法使いという人種は消滅してしまったのだから存在すらしていないのだ。
……だがしかし。現代に魔法使いは今だ生き続けている。インターネットのオカルト好きの間ではそんな話がまことしやかに語られていたりもする。
彼ら彼女らの説によると、大昔は歴史を左右するほど強大な力を持っていた魔法使いに、今やもうそんな力は残っていない。それは屁理屈を言えば、歴史は動かせないが微量な魔力は持っていると、そう主張しているのだ。
ではその微量な魔力で魔法使いは一体何をしているのか。
ここから先は憶測の域を出ない、あることないこと言い放題の、所詮ネットでの意見だ。信じるか信じないかはあなた次第。そういうことになる。
なんとオカルトマニアの間では、『手品師』が魔法使いの子孫であると声を大にして言っているのだ。しかし手品師の全てがそうではない。当然、自らが練習に練習を重ねて磨き上げたテクニックによって手品を披露している者が大多数だ。だが、手品はあくまで手品。そこには必ず種も仕掛けも存在する。見破ろうと思えば見破れるものだ。
そんな中で、何をどうしても見破ることのできない――それこそ魔法でも使っているのではないかと疑ってしまいたくなるような手品師も中にはいる。それらこそが、手品をしているのではなく、本当に魔法を使っているらしいのだ。
――何をバカな、と僕はその説を唱えている匿名掲示板を眺めながら軽く笑ってみせた。
現代においてもう虫の息の魔法使いが、食いぶちを繋ぐために手品師に扮して活躍している? ネタとしては面白いことをいうやつがいたものだ。
魔法使いはいない。こいつらはオカルト根性が先行しすぎて魔法が存在することを前提として話を進めているだけだ。やっぱりネットの意見は鵜呑みにしてはいけない。誰かも言っていただろう。嘘を嘘だと見抜ける人間でなければいけないと。
――光城高校に入学するまでの僕は、少なくともそう思っていた。間違いなくそうだったんだ。
魔法を過去の一般常識の一つとしてしか理解していなかった僕の固定概念は去年、春の強風と共に吹き飛ばされることとなる。
一人の女子高生魔法使いによって。