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二学期初日のこの日は特に授業らしい授業はなく、どの教科も課題の提出や今後の授業の進行予定などを説明されることが多かった。時刻は四時前。六限目が終わり放課後を迎えていた。
チャイムが鳴り、すぐに荷物を抱えて部活に走る者。席を立たず、クラスメイトと駄弁り続ける者。教室内の統率感が瞬時に消え去る瞬間である。僕はその中の『特に予定もないので淡々と家に帰る者』だった。
薄暗い正面玄関でスニーカーに履き替え、外に出る。九月の空は依然として夏真っ盛り。四時過ぎだというのに日が落ちるのはまだ随分先のようだ。
……と、先ほどからズボンのポケットに入っているスマホが何やら振動している気がするが、これは気にしないようにしておこう。きっと――というか絶対に面倒くさいことになるから。
僕は黙々と歩いて校門を目指す。その間もスマホのバイブは一向に鎮まる気配を見せない。無意識に歩く速度も速くなっていた。
「…………くぉらああ航~! ずぅ~っと電話鳴らしてるっていうのに、気づけってのこのバカ者~~っ!」
……やっぱり、見つかってしまった。
背後からドタドタと聞こえる足音。僕はあえて後ろを振り向かない。何が起きるかおおよその見当がついているからだ。
「無視すんな! バカ航っ!」
「うげ!」
背中に衝撃。
「……ああ、彩智」
「わざっとらしい! その様子じゃ電話にも気づいてたんでしょ!」
「え、電話くれたんだ。知らなかったなぁ」
自らの肩掛け鞄を武器にして僕の背中に一撃を喰らわせてきた女の子、夏狩彩智はぎぎぎ、と白い歯を鳴らして怒りを露わにする。でもすぐに、
「もういい! ほら、帰るよ!」
僕のこんな態度を見れば、普通の人間であれば怒ってどこかに行ってしまうのだろうが、彼女は違った。怒ってはいるのだが僕から離れようとはしない。これが僕と彩智の日常の風景だった。
「はいはい、帰るだけだぞ。帰るだけだからな」
「うるさい。ファミレスにでも寄るから」
「あのさ……」
「ごちゃごちゃ言わない。航がいくら言っても私が折れないのわかってるでしょ?」
「……はい」
カリスマ性があるというかなんというか。彩智の発する言葉には変な説得力があり、最終的にはいつもこうして僕が負けてしまうのだった。
そんな彼女を見る度に僕は思うのだ。こんな男でごめんなさいと。
彩智の宣言通り、僕たちは通学路沿いにあるファミレスに吸い込まれた。その道中、彩智は逃がすものかと常に僕の鞄を掴みながら歩いていた。それはまるで散歩中の犬と飼い主のような状態……端から見ると、どちらが犬に見えたのだろうか。
このファミレスは光城高校に近いということもあり、放課後のこれくらいの時間帯は光城生の憩いの場となっている。店内に入ると、やはり座席は光城生のグループで既にいくつかが埋まっていた。
「二人です」
「かしこまりました。お好きな席にどうぞ」
彩智はハキハキとした口調で店員に言うと店内を見回し、
「うん、あそこにしよ」
窓際の四人掛けテーブルを指さした。
――ねえ、あれ。
――うん。やっぱそうだよ。三組の夏狩さん。
――はあ、可愛いよねぇ。
彩智はその容姿とか、凛とした態度のせいでかなり目立つ。背筋よく歩く彼女の姿を目で追ってしまっている客が何人もいた。
――夏狩さんの後ろにいるのは?
――……わかんない。彼氏?
――それはないでしょ~!
そして、こうしてぼろくそに言われる僕の身にもなってほしい。僕が彩智と一緒にいたくない理由は、こうした引け目をどうしても感じてしまうから。
でも、彼女は僕を掴んで離さない。
「よいしょっと、なんにする? とりあえずドリンクバー頼んじゃうけど」
「僕もとりあえずそれだけでいいや」
「了解」
その後店員にドリンクバーを注文し、二人でジュースを汲みに向かった。僕はジンジャーエールで、彩智はフルーツティーをチョイスした。
席に着き、一息。
彩智が選んだ窓側の席は外の通りがよく見える。よく見えるということは必然的に通りからも店内がよく見えるということであり、僕はあまり外から顔が見えないように頬杖をついて顔を隠したり、スマホをいじったりした。
そこからはまあ、いつもの通り、だった。これといった話題があるわけでもなく、夏休み何をしていただとか、いつまで暑いんだろうね、とか。
ただ、二人の間には暗黙の了解のようなものがあった。示し合わせたわけでもないのに、あることについては話さない。話してはいけない。少なくとも僕はそう思っている。話好きの彩智がそれについて喋らないということは、彼女もそう考えているのだろう。
「――ねえ、航」
時刻は夕方の六時になろうとしていた。そっと窓の外に目をやると、空はようやく日が沈み始め、夕焼けが街を橙色に染めていた。僕は三杯目のジュースを取りに行き、注文していたフライドポテトの最後の一つに手を伸ばした。そんなことろで、彩智が不意にあることを訊いてきたのだ。
「まだ、返事くれないの?」
ああ。
思わず視線がテーブルに落っこちた。先ほどまであっけらかんとしていた彩智の表情が、途端に艶を帯びだしたからだ。彼女のその顔は、差し込む夕陽に良く映えた。
彩智は何カ月に一回かの頻度でこうなる。そしてこんな顔をする時は決まって、今のセリフを口にするのだ。
――まだ、返事くれないの?
僕は中学校の卒業式で、彩智に告白をされていた。
「……うん」
中学三年生の時に初めて同じクラスになって、その時から既に学校の有名人だった彩智のことは僕でも知っていた。知っているだけだった。一年間も同じ教室で生活をするのだから彼女と話をすることもあった。だけどその中で僕が彩智を意識したことはなかった。というか、僕なんかが意識をすること自体おこがましいとさえ思っていたくらいだ。事実、彩智に言い寄る男子は数知れず。そして散り行く男子も数知れずだったから。
そんな中で彩智に告白された時は、本当に何を言われているのかわからなかった。人を間違えていませんか? と口に出してしまいそうになったくらいだ。
ここで僕は返事をしなかった。できなかったのである。まず、なぜ僕なのかが理解できないし、僕なんかでいいわけがないと思った。さっき僕らがファミレスに入った時の他の生徒の反応がまさにそれで、全く持って不釣り合い。そうとしか考えられなかった。
だから中学生の僕は彼女の言葉に、明確な返事をしなかった。考えさせてほしいと言ったのだ。それからだ。彩智が僕から離れなくなったのは。
「僕が彩智に見合う人間だとも思えないし」
「そんなのは航が決めることじゃない」
「……だから、もう少し考えさせてほしい」
こんなやり取りをして、もう一年と半年ほどが過ぎていた。
「先輩のこと考えてるんでしょ」
グラスの中の氷が、カランと小さく音を立てた。
普段であれば話はここで終わるはずだったのだが、今日の彩智は違った。彩智は僕の言葉に食い気味に被せてきたのだ。そして心なしか語気が強くなった気がする。僕はいつもと違う展開に驚きつつも、彩智の言葉に怪訝な表情を浮かべて言った。
「なんで今先輩の話になるんだよ。ていうか先輩の話は」
――しない約束、はしてないか。
「だって航、先輩があんなことになってから空っぽになったみたいなんだもの」
「それは彩智も同じでしょ。朋也や有栖さんだって」
「アタシは違う! 少なくともアタシは――」
彩智はそのままの勢いで言葉を続けようとしたが、顔を赤くしたかと思うと飲み込んでしまった。
「……月光寺先輩はもう、いないのに」
そして小さく、そう呟いた。僕から目を逸らして言うその姿は、目を合わせていないのに、確かに僕に切りかかってきたかのような鋭利な憤りを感じた。
「まだ決まったわけじゃないだろ」
「やっぱりそうじゃない! もう一年以上経ってんのに、まだそんなこと言ってんの!?」
「……僕は信じてる」
「何それ! 自分から何も動こうとしないくせに! 子供じゃないんだから、信じるだけじゃどうにもならないことくらいわかるでしょ!? アタシたちもう高二なんだよ!?」
彩智は席から立ち上がると、声を張り上げた。
店内に怒声が響く。ちらちらと僕らの席を観察していた他の生徒たちも突然のことに驚き、目を丸くしていたように見える。大方、冴えない僕が彼女を怒らせてしまった。そんな風に思っているのだろう。大正解だ。
わかってる。大声で言われなくてもそんなことわかってるんだ。
「彩智」
僕は小さく嘆息しながら彩智に周りを見るように促した。
「あ……ごめん」
「とりあえず、お座り」
「はい……」
彩智は周囲の客の様子や、今にも注意してきそうな店員を見るなり再び顔を赤くして、しょんぼりとしながら着席したのだった。
彩智を見ながら思う。僕は、どうすればいいのだろう。
彩智の気持ちにしっかりと向き合わなければいけない自覚はある。しかし、さきほど彼女の言っていたことは完全に図星で、顔面が熱くなってしまったのもわかった。
そう。僕の頭の中は、今もとある先輩のことで一杯なのだから。そしてその人は、しばらく前にいなくなってしまった。いなくなってしまった人のことを考えても仕方がないだろう。彩智はそう言っている。全く持ってその通りだと思う。
僕は天井で回り続けるシーリングファンを見上げながら、結論の出ない自分の思考を呪いたい気分になった。そして、こう開き直ってもみせた。
――だってどうしようもないじゃないか。高校一年生の四月。僕は月光寺ミカという魔法使いに心を奪われてしまったのだから。