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 滞りなく四限目が終わり、昼休みがやってきた。

 夏休みに出された課題の山は、なんとか全ての空欄を埋め、無事提出に漕ぎつけた。正解、不正解の問題ではない。誠意を見せたかが重要なのだ。この一カ月抱えていた大量の課題たちがようやく自分の元を離れ、かなり気持ちが楽になった。そうして自然と軽くなった足取りで、僕はある場所を目指していた。

 紙パックのジュースとパンを手に、今日もあそこ――光城高校D棟一階、旧理科準備室――にである。

 生徒の教室があるA棟とB棟とは違い、移動教室か文化部の部活でしか利用されることのないこの棟は、まるで電源が入っていないみたいに静かだ。自分が歩く足音と、外のグラウンドから聞こえる生徒たちの声、ボールを打ち返した時の金属音などが小さく耳に入るだけ。日も大して差し込まないため、廊下はどことなくひんやりとしている。

 そこに行く明確な理由なんてなかった。こうして歩いている今でさえも、なぜわざわざ遠くの棟に向かっているのか、よくわからないくらいだ。

 ――ただ、もしかしたら。そう、もしかしたらという気持ちがあったんだ。僕はそんな輪郭のイマイチはっきりとしない願望に吸い寄せられて、学校のある日は毎日そこに行ってしまう。

 C棟とD棟を繋ぐ連絡通路を渡って、右折。そのまま廊下を突き当たりまで歩いた最奥部に旧理科準備室はあった。約一カ月ぶりに来てみたところで当然、特に変わった点は見られない。僕は旧理科準備室を前に小さく息を吐くと、廊下の壁に持たれかかり、そのまま座り込んだ。尻に感じる廊下の冷たさが心地良い。

 そして手に持っていた紙パックジュースにストローを差し、一口。喉を濡らすと次にパンの封を開けた。すると。


「加々美。お前はまぁたこんなところで一人寂しく飯を食っているのか」


 先生心配になっちゃうぞ、という言葉とともに、僕の昼食は阻害された。


「というかそれ、フルーツオレとカレーパンって組合せはどうなんだ? 普通牛乳とかだろうに」


笹子(ささご)先生……いちいち生徒の昼ご飯に口出ししないでください。フルーツオレもれっきとした乳製品なので、牛乳と似たようなものです」


「むう、可愛げのないやつだ」


 僕が笹子先生と呼んだその女性は、やれやれとため息をつくと、僕の隣に腰を下ろした。


「なんで座るんですか……」


「いいじゃないか別に。元顧問と元部員のよしみだ。邪険に扱ってくれるな」


 上下黒のパンツスーツをかっこよく着こなした女教師、笹子先生は持参したコンビニ袋からおにぎりを取り出してそう言った。

 二週間に一回くらいの頻度で、僕たちはこうして誰もいないD棟で鉢合わせる。だから笹子先生が僕に声を掛けただけでこの場を立ち去るとも思っていなかったし、どうせ今日のお昼もコンビニで買ってきたものだろうと思っている。


「いい加減自分で弁当でも作ってみたらどうですか」


「そりゃこっちのセリフだ。というかお前が私に弁当を作れ。それで万事解決だ」


「何も解決してないです」


 僕は高校教師相手に臆することなく言葉を返す。それが容姿と立ち振る舞いだけは美しい笹子先生のためになると思ったから。


「そういや先生な、購買のパンは食ったことがないんだ。どれ加々美、一口寄こしてみろ。さあここだ。外すなよ」


 笹子先生は大きく開けた自分の口を指さしながらアピールをしていた。


「嫌ですよ……もう食べちゃってますし」


「先生のおにぎりやるから。あと一口くらいしかないけど」


「早っ! そこまでいったならもう食べちゃってください!」


「ほんっとにお前はユーモアの欠片もないやつだなぁ……いいよ、食べるから」


 笹子先生は少々頬を膨らますとおにぎりの最後の一口を口に放り、海苔がくっついた人差し指やら中指やらを舐めていた。正直、こんな自堕落な人に教鞭を振るわれていると思うとしっかりしなきゃな、って思う。ちゃんとした大人にならないとだ。

 ちゃんとした大人の定義は、わからないけれど。


「……もう、一年が経ったんだな」


 声が不意に、湿り気を帯びたのがわかった。

 おにぎりを食べ終わり、ブラックの缶コーヒーを飲みながら笹子先生は思い出したように言った。いや、思い出したのではない。僕には先生の言葉があらかじめ用意されていたもので、それを言うためにここに来た。そんな風に聞き取れたのだ。


「……」


「なあ、もうやらないのか? 部活」


「……できないですよ。先輩抜きで何をしろって言うんですか」


「一人いないくらいで新聞部が機能しなくなるわけがないだろう。野球やサッカーじゃあるまいし」


 一人。その一人の存在が、僕たちにはあまりにも大きかった。一騎当千という言葉では到底言い表せない、そんな大きく、眩しい人。


「……とにかく、やりませんよ。先生も担当する部活がなくなって気が楽なんじゃないですか」


「それはまあ、そうだが」


 そこは嘘でも否定してほしかった。


「だがな、先生だって心配ではあるんだぞ。この一年の加々美や夏狩、勝山に有栖(ありす)を見ているとな、なんというか、ただ生かされているだけに見えるというか」


 この世界に、と笹子先生は言うと少しの間、廊下に静寂が訪れた。


「……国語の先生なんですから、そこはもっと具体的に言って下さい」


「なんだと。まったく失敬だなお前は」


 僕は更に頬を膨らます笹子先生に小さく吹き出した。

 ……だがしかし、一見突拍子もないことを言ったように聞こえた笹子先生の言葉は、意外にも僕のみぞおち辺りをぐい、と押すような、痛くはないが不快感を覚える感触があった。

 自覚はしていたのだ。確かに僕は、この世界に意味もなく生かされている。こうして水分と食料を取り、決まった時間に眠り、また次の日を迎える毎日。辺りを見回しても原動力になるものは落ちていない。立ち止まりたいのに、首に巻かれた『世界』という名のリードが、行先もわからないまま僕を引き続けている。

 生きている理由がわからなかった。かと言って死にたいなどとはこれっぽっちも思っていない。目に映る光景のピントは、もうずっと合っていなかった。


「……やりませんよ」


 それでもこの場所だけは、不思議と視界が明るくなる。そんな気がして。



 

 コンクリートで塗り固められ、もう誰も入ることを許されなくなってしまった旧理科準備室――もとい新聞部の元部室を、僕は今日も静かに眺めた。


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