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高校二年生最後の夏休みは、これといった起伏もなく、ただただ平坦に過ぎた。『最後の』という言葉を付け加えれば、何かかけがえのなさのようなものが出てくるような気がして使ってみたが、特に感傷に浸るわけもなく。
人生で一回こっきりの高校二年生。人生で一回こっきりの高校二年生の夏休み。僕たちの背後には、常にぴったりと『最後』が忍び寄っている。
おおよそ一カ月ぶりの教室内。一限目が始まるまでは動き出さないケチな冷房を睨みつけながら、僕は全開に開いた窓から入る生ぬるい風でなんとか涼を取ろうとしていた。
喧騒溢れる教室内から意識を外に移す。夏の濃い青空と大きな入道雲が、窓のアルミサッシを額縁代わりとしてちょっとした絵画でも見ているような気分。今朝は起きた時から既にミンミンゼミがせかせかと鳴いており、九月に入ったというのに夏はまだもうしばらく続きそうだった。ああ、できることならあの雲のように空を巡ってみたいし、セミのように……セミは忙しそうだからいいか。
「航ってば! 聞いてんのっ!?」
「――おわっ!?」
そんなところで大空を舞っていた僕の意識は、一人の女子生徒の大声で首根っこを掴まれるように引き戻されたのだった。
僕は何事だと目をしばたかせると、目の前の席にこちらを向きながら座っている女子生徒がいるではないか。まじまじとこちらを覗き込む、ちょっと怒り気味で栗色の大きな瞳。
明らかに僕なんかよりも小さい少々丸めの顔。そこにはめこまれているパーツの各種はどれも一級品。左目の上あたりから分けられた前髪から覗く額はちょっと広め。こげ茶掛かった黒髪のロングヘアは毛先までしっかり艶めいている。綺麗な鼻筋、血色の良い唇は大きな瞳と相まって活発な印象を受ける。前世でどれほどいい行いをしたらそんな風に生まれて来られるんだろう、と男ながらに羨望の眼差しを向けてしまうような、そんな女の子。
「……なんだ彩智か。いたんだ」
僕はここまで褒めちぎっておきながら、彼女を軽くあしらった。中学三年生からの付き合いで、それなりに見知った仲だったから。
「なんだ、じゃないでしょ! そろそろ朝のホームルーム始まるんだからいるに決まってるし!」
そしてさっき活発な印象と表現したが、印象などではない。彩智と知り合ってから二年。僕はすぐにこの女の子がイケイケな人間だということを理解した。
夏狩彩智という女に『消極的』という言葉は存在しない。常に色んなコミュニティの中心におり、周りの連中を巻き込む積極性は天下一品。
「それもそっか。だけど彩智、クラス違うじゃん」
「うぐ……」
彩智はバツが悪そうに僕から目を逸らした。そう、彩智は隣のクラスの人間であり――ということは当然、今彼女が座っている席は自分のものではない。今もこうしてさも当然のように腰を下ろしているが、ちょっとあれを見てほしい。僕らと絶妙に微妙な距離を置いて立ち尽くしている男子生徒の姿を。「あのぉ、その席……」と瞳が訴えているじゃないか。でも彼が彩智に声を掛けられないのは、彼女がこの学年で有名人であることと、言ったらどんな目に遭うかわかったものではないから。
そんな学年の人気者が僕なんかにしつこく絡んでくるのは、きっと僕に原因があるのはわかっている。そこまで理解しておきながら何もしないのは、僕がバカだから。それもわかっている。
「んで、何の用さ」
「え、いや別に……いくらおはようって言ってもシカトされるのがムカついたから」
「それだけで……まあいいや、おはよう」
「……おはよ」
彩智はごにょごにょと言うと、素早く前方に体を戻したのだった。
「……いや、そうじゃなくて立ちなさいよっ!」
「チッ、バレたか」
バレるとかじゃないと思う。
結局彩智はホームルーム開始のチャイムが鳴るぎりぎりまで前の席に居座り続けてから、渋々自分の教室へと帰っていった。その帰り際、
「ねえ航」
「ん?」
「……もう、集まらないの?」
彩智の言葉に、僕の口は動かなかった。彩智は数秒だけ足を止めたが僕からの返事がないとわかると、何も言わずそのまま教室を後にしていったのだった。
――これからキミたちに、奇跡をお見せしよう!
――そうだ、旅をしよう! 私たちの人生は、まだ何も始まっちゃいないんだから!
まだ何も始まっていない。僕たちは頼んでもいないのに旅に駆り出されて、出されたきりほったらかされている。水先案内人を失った旅人は、船の上で何をすればいいのかもわからなくその場に立ち尽くす。凪の海原で静かに、ただ風が起きるのを待つしかないのだ。
その風が吹かなくなってもう、一年と少しが経つというのに。