ナハトゲレートの可能性
寮対抗戦が始まって数日が経った。
アインホルン寮が発表した「魔力通信装置」は、その評判がうなぎ登りで、初日から予想をはるかに上回る反響を呼んでいた。会場では、その革新的な技術に目をつけた商人たちが「ぜひ出資させてほしい」と熱心に申し出たり、貴族たちが「ぜひ譲ってほしい」と高額での購入を打診したりと、学生達は嬉しい悲鳴を上げていた。
「エミーリア、追加のお茶の準備できたわ。どこに置いておけばいい?」
アグネスの声が、賑やかな会場に響く。
「ありがとう、アグネス。バックヤードにドーリスがいるから、彼女に聞いてみてくれる?」
エミーリアは、ひっきりなしに訪れる客への対応に追われながらも、的確な指示を出していた。
その時、男子学生達が息を切らしてテーブルを運び込んできた。
「商談用のテーブル、借りてきたぞ!」
「助かったわ。このテーブルを少し寄せて、空いたスペースに置いてくれるかしら?」
エミーリアの言葉に、男子学生は「了解!」と力強く応じ、すぐに作業に取り掛かった。
想定以上の盛況ぶりに、用意していたお茶やお菓子はあっという間に底をつき、急遽追加の商談用テーブルを運び込むことになったのだ。エミーリアは、自身が心血を注いだ研究がこれほど注目を浴びていることに上機嫌で、下級生達に次々と指示を出していた。
盛況な研究発表会場の様子を見ていたヴェットカンプの代表メンバー達は、一様に士気が高まっているようだった。例年よりも勝ち進んでるメンバーが多く、寮全体が活気づいていた。
魔法の発動速度を競うブリッツに出場していたブルーノもまた、順調に勝ち進んでいた。次はいよいよ準決勝。一年生でここまで勝ち進むのは異例のことであり、アインホルン寮の期待は最高潮に達していた。
「次勝てば決勝だ。優勝が見えてくるぜ」
展示会場に顔を見せたブルーノは、気合いのこもった様子で意気込みを語る。
「わたくし達は応援にいけませんけれど、頑張ってくださいね」
「期待してる」
クラリッサが優しく微笑み、ディアナもまた真剣な眼差しで彼を見つめていた。
「おう、任せろ!」
ブルーノは、人懐っこい笑顔を浮かべ、頼もしい返事をして競技場へと向かった。彼の背中には、寮の仲間たちの期待が込められていた。
例年であれば交代で休憩を取りながら、ヴェットカンプの応援に駆けつけることもできていた。しかし、今年はひっきりなしにやってくる客への対応に追われ、応援に行くことすら叶わない状況だった。それどころか、二日目以降は学生を増員して対応に当たっていたほどだ。
ディアナもまた、その動員された学生の一人だった。彼女は客を席へ案内したり、お茶を出したりと忙しく立ち働いていた。それでも人手は足りず、簡単なナハトゲレートの説明まで彼女自身がおこなわなければならないほどだった。
「ふう……」
一組の客を見送ったディアナは、ようやく一息つくことができた。
長かった寮対抗戦も、残すところあと三日となっていた。
今日も朝からナハトゲレート目当ての客がひっきりなしに訪れ、ディアナは文字通り天手古舞の忙しさだった。
お陰で昼食はブルーノが差し入れしてくれた串焼き二本だけ。しかも、ゆっくり食べる時間すら取れず、客対応の合間にバックヤードで立ったまま、飲み込むような勢いで胃に流し込んだだけだ。
午後も夕方に近づき、ようやく客足も落ち着き始めていた。しかし、今頃はヴェットカンプの準決勝や決勝がおこなわれる時間だろうか。一時的に競技場に人が流れているだけなのかも知れない。
展示会場の中を見れば、クラリッサやエミーリアは相変わらず客の対応に追われている。差し入れでも買ってこようかとも思ったが、さすがに彼女らを放ってこの場を離れるのは気が引けた。
「ディアナさん!」
展示会場の入口で、思案して逡巡していると、不意に背後から自分を呼ぶ声がした。
その声には聞き覚えがあり、ディアナはハッとして振り返った。
そこに立っていたのは、ディアナの予想通り、柔和な笑顔を浮かべたベルンハルトとイリーネだった。
クラリッサの両親である二人が、まさかヴィンデルシュタットから遠く離れた王都にいるとは夢にも思わず、ディアナは驚きに目を見開いた。
「旦那様、それに奥様も!」
驚きつつも、ディアナはすぐに笑顔を浮かべて二人に挨拶した。
「やあ、元気そうだね」
「王都にいらしてたんですか?」
「ああ、クレアから招待状を貰っていてね。正直、この時期に王都に来るのは難しいかと思っていたんだが、たまたま滞在時期と寮対抗戦の会期が重なってね。これは良い機会だと思って足を運んでみたんだ」
ベルンハルトはそう言って、展示会場を見回した。
「少し顔を出してみるつもりだったんだけど、すごいじゃない。大盛況ですわね?」
イリーネもまた、賑わう会場の様子に目を輝かせた。
「はい。今年の展示物はアインホルン寮の歴代の中でも自信作なんです」
ディアナは胸を張って答えた。
「へぇ魔力通信装置っていうのかい? わたしも見せて貰っていいかい?」
ベルンハルトは、展示されているナハトゲレートに興味津々のようで、身を乗り出すようにして展示会場を覗き込んだ。その瞳は、まるで子供のように好奇心に満ちていた。
「もちろんです。どうぞこちらへ」
ディアナは二人に笑顔を向け、ナハトゲレートの展示ブースへと案内した。
ちょうどその頃、クラリッサは対応していた来客を見送り、ふと一息ついたところだった。
「クレア!」
若干疲れた表情をしていたが、ディアナが名を呼んだ瞬間、クラリッサの表情は一変した。ベルンハルトとイリーネの姿を認めると、まるで花が咲いたかのような満面の笑みを浮かべ、すぐさま二人の元へと駆け寄った。
「お父様、お母様! 来てくださったのですね!」
クラリッサの声は弾んでいた。久しぶりの再会に、親子の温かい空気が会場に満ちた。
「もちろんさ。せっかくクレアが招待してくれたんだ。何を置いても駆けつけるさ!」
ベルンハルトは、満面の笑みで答えた。
「このような機会はなかなかないですもの。昨日は楽しみでなかなか寝付けなかったわ」
イリーネもまた、柔らかな笑顔で頷いた。
「まぁ、お母様ったら」
久しぶりの再会に会話が弾む。
ビンデバルト家の人々は、互いに深い愛情と信頼が流れているのが見て取れる。
いつ見ても仲の良いビンデバルト家を若干羨ましく思いながら、ディアナも輪に加わって楽しいひとときを過ごした。
「なかなか評判になっているようだね。社交でも話題に上っていたよ。わたしにも研究成果を紹介してくれるかい?」
ベルンハルトは、周囲を見回しながら興味深そうに尋ねた。
「もちろんですわ。これがわたくし達アインホルン寮の研究成果ですわ!」
クレアは自信に満ちた声で答えると、誇らしげに胸を張った。彼女の顔には、研究の成果を披露できる喜びと期待が滲み出ていた。
「何というか、派手な色だね」
遠くからでも目立つ赤い箱状の魔法具に、ベルンハルトが微妙な表情を浮かべた。
彼の目にはケバケバしく見えているのだろう。
貴族の彼から見れば、このような派手な色彩は、あまり品が良いとは映らないのかもしれない。
「これはデモンストレーション用に目立つようにしているだけですわ。もちろん色は変更できます。それに魔法具の本体はこの中にあるのです」
クラリッサは彼の反応を予測していたかのように、落ち着いた声で説明した。彼女は慣れた手つきで箱の側面にある扉を開き、中に収められた黒い装置を示した。
その装置は、外見からは想像できないほどにシンプルだった。
「本体は思っていたより小さいんだね」
ベルンハルトは、興味深そうに黒い装置を覗き込んだ。
それは、見たこともない奇妙な形状をしていたが、どこか洗練された美しさを感じさせた。
ナハトゲレート本体は、少し大きめの背嚢くらいの大きさだ。
金属製で、表面は艶消し加工が施され、光を鈍く反射している。本体正面には、人の声を取り込むための送話器が埋め込まれており、その周囲には微細な穴がいくつも開いている。本体の横には、柔軟なコードでつながった受話器がかけられていた。受話器は耳に当てる部分が柔らかい革で覆われており、長時間使用しても疲れにくいように工夫されていた。本体の上部には、着信を知らせるための真鍮製のベルが取り付けられていた。
「今は校庭に置かれた通信装置との間でしか通話ができませんが、この装置が普及すれば任意のナハトゲレート同士で通話が可能になりますわ」
クラリッサは、ナハトゲレートの機能を説明しながら、その将来的な可能性について熱っぽく語った。
今はまだ試作段階であり、事前に登録された校庭に設置された通信装置との間でのみ通話が可能だが、将来的には個々のナハトゲレートに固有の登録番号が割り当てられ、その番号を入力するだけで、遠く離れた場所にある任意のナハトゲレートと直接通話ができるようになるという。
「面白いじゃないか!」
説明を聞いたベルンハルトが、目を輝かせて大きく頷いた。彼の顔には、新たな技術がもたらす可能性への興奮がはっきりと表れていた。
「これを使えば、ヴィンデルシュタットからアルブレヒトブルクへの連絡が短時間でできそうだね」
彼は、このナハトゲレートが既存の通信手段に比べて、いかに画期的なものであるかを瞬時に理解した。
「そうですわね。今は手紙をやりとりするだけでも、返事がくるまでどれだけ急いでも二十日くらいかかりますもの。このナハトゲレートを使えばすぐに連絡をとることができそうですね」
ベルンハルトの言葉に大きく頷いたイリーナは、その目に未来への輝きを宿していた。遠く離れた場所と瞬時につながる、夢のような光景を思い描いているかのようだ。
手紙でのやり取りが主流である現在、情報の伝達には膨大な時間と労力がかかっていた。例えば、重要な決定を伝えるにも、返事を待つ間に状況が変化してしまうことも少なくない。また、緊急事態が発生しても、迅速な対応が難しいという根本的な課題を抱えていた。
しかし、ナハトゲレートの登場は、その常識を覆す可能性を秘めていた。
この魔法具が広まれば、アルブレヒトブルクにいるエッカルトとヴィンデルシュタットにいながら、まるで隣にいるかのようにスムーズに会話ができるようになると、イリーナは嬉しそうに語る。
辺境伯という立場上、昔から王都との距離には悩まされてきた。
ヴィンデルシュタットからアルブレヒトブルクまで、馬車の旅で十日。早馬などを駆使して、どれだけ急いでも六日から七日かかってしまう。往復すれば単純にその倍の時間が必要となる。
これでは急を要する事態が起こったとしても確実に出遅れてしまう。また、時間だけではなく、旅程に伴う宿泊費や食費、馬代など、辺境伯といえど馬鹿にならない金額がかかっていた。これらの費用は、領地の財政を圧迫する一因でもあったのだ。
しかしナハトゲレートを使えば、そうした時間的、経済的な制約から解放され、瞬時に連絡を取り合うことができるようになるのだ。ベルンハルトは、その可能性に胸を躍らせながら、にこやかに問いかけた。
「これは通信できる距離に制限があるのかい?」
どれだけ便利だろうとも、短距離しか通信できなければ、その恩恵は限られてしまう。
辺境伯として、より広範な地域との連携を視野に入れているベルンハルトの雰囲気は、いつしか父親としての柔和なものから、領地の未来を担う辺境伯のものへと変わっていた。
だがクラリッサも負けてはいない。その気圧されるような雰囲気に臆することなく、にっこりと微笑んだ。
「この装置の動力には魔法石を使っています。魔法石の品質を上げれば、理論上ではどれだけ離れた場所にいても通信は可能です。原理的には他国とも通信できる可能性を秘めています。ですが、今の段階ではそこまで実証はできていません。通信距離については、今後の研究と改良が不可欠な、まさにこれからの課題ですわね」
「なるほど。その実証データを取るために出資者を募っている訳だね」
ベルンハルトの言葉に、クラリッサは答えずに静かに微笑むだけだ。
娘の仕草に確信を得たベルンハルトは、大きく頷いた。
「検証するなら、ぜひわたしも協力させて貰うよ。ヴィンデルシュタットの屋敷にこのナハトゲレートを置けばいい」
その言葉は、クラリッサにとってまさしく青天の霹靂だった。
これ以上の実証を進めるために、辺境伯家の援助は研究者にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。しかし、ベルンハルトの申し出は、あまりにも唐突で、そしてあまりにも寛大すぎた。
「それはまたとないお申し出ですけれど。お父様、本当によろしいのですか?」
ナハトゲレートの移設には専門の技術者が必要となるだろう。加えて、安定した稼働には高品質の魔法石が不可欠であり、その調達にも莫大な費用がかかる。さらに、まだ実証段階であるため、予期せぬ不具合や故障が発生すれば、その都度メンテナンス費用がかさむことは目に見えている。数え上げればキリがないほどの費用が予想できた。
クラリッサ達にとって、ベルンハルトの申し出はまさに願ってもないことだったが、彼女は、まだまだ困難が予想できるナハトゲレートの開発に、何の条件も付けずに簡単に出資を決めてしまって大丈夫なのかと、逆に心配になるほどだった。
父の突然の決断に、彼女の心には喜びと同時に、一抹の不安がよぎっていた。
「もちろんだよ。正直わたしは最初、学生の研究発表だと高を括っていたんだ。だけどこれほど素晴らしいものだとは思わなかったよ。ぜひ出資させて欲しい」
ベルンハルトは、まるで子どものように目を輝かせ、手放しで喜び続けていた。その純粋な熱意に、クラリッサは改めて父の寛大さと、ナハトゲレートへの深い期待を感じ取った。しかし、同時に、あまりにもスムーズに進みすぎることに、一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
心配になったクラリッサは、隣のイリーナに視線を向ける。
彼女は微笑みを浮かべると軽く頷いてみせた。彼女の表情には、この展開を予期していたかのような落ち着きがあった。
「さきほども言ったけれど、わたくし達にとって距離の問題はとても大きいの。それが少しでも縮まるなら開発費用なんて安いものよ」
イリーナの言葉は、ベルンハルトの決断の背後にある、辺境伯家が抱える切実な問題を浮き彫りにした。王都との距離は、辺境伯家にとって長年、死活問題だったのだ。
辺境にある領地の経営が最も重要であることは間違いない。しかし、王国の貴族として名を連ねている以上、王都に顔を出さないわけにはいかないのだ。
重要な会議や貴族間の交流、そして王家との謁見など、辺境伯が王都に滞在しなければならない機会は多岐にわたる。しかし、ヴィンデルシュタットから王都までの道のりは長く、その往復には膨大な時間と労力が費やされる。
そのため王都には、辺境伯代理の権限を与えたエッカルトを常駐させていた。しかし、まだ正式に辺境伯を継いでいないエッカルトでは、一部の貴族から侮られることも多く、どうしてもベルンハルトでなければ対処できない問題も少なくなかった。
ナハトゲレートが実用化されれば、王都と辺境の間の情報伝達のスピードが格段に上がり、辺境伯が何度も王都と行き来していた頻度も劇的に減らすことができるかも知れない。それは、辺境伯家の運営効率を飛躍的に向上させるだけでなく、ベルンハルト自身の負担を軽減し、より領地の発展に集中できる時間を生み出すことに繋がるだろう。この魔法具は、単なる通信機器ではなく、辺境伯家の未来を左右する可能性を秘めていたのだ。
「これは期待せずにいられない代物だよ」
ベルンハルトは、貴族として取り繕うことなく、心からの賞賛を口にした。彼の声には、辺境伯という立場を超えた、一人の人間としての純粋な感動が込められていた。
その後、クラリッサは、両親を開発責任者のエミーリアに紹介した。
エミーリアは、今回の寮対抗戦で一番ともいえる大物貴族である辺境伯夫妻の前に、恐縮しきっていた。しかし、ベルンハルト夫妻がナハトゲレートを絶賛すると、彼女は心から嬉しそうに喜び、瞳を輝かせた。自身の研究が認められたことへの喜びと、その研究がもたらす可能性への期待が、彼女の表情に満ち溢れていた。
「よろしくお願いいたします。辺境伯様から協力いただけるなんて、これほど嬉しいことはありません!」
エミーリアの声は、喜びと感謝に震えていた。彼女にとって辺境伯家の支援は、研究を加速させるための何よりの追い風となるだろう。
「古代魔法文明の魔法具の再現はなかなか難しいと聞いています。このナハトゲレートの成功を心から信じています」
ベルンハルトの言葉は、エミーリアの研究への深い理解と、その成功への揺るぎない信頼を示していた。彼の言葉は、エミーリアにとって何よりも力強い激励となった。
その後、ベルンハルトとエミーリアの間で正式に出資の契約が結ばれ、二人は固い握手を交わした。
――リンリン、リンリン……
ちょうど握手を交わしたそのタイミングで、ナハトゲレートの呼び出しのベルが鳴り響いた。
それはまるでこの新たな協力関係が、これから多くの奇跡を生み出すことを告げるかのようだった。