魔力を蒸留してみよう
自習室を出たディアナは、クラリッサを伴って三階の自室に向かった。
ブルーノも立ち会いを希望したが、三階に男子は入れない。そのため彼は三階の階段ホールのギリギリに立ち、心配そうな顔を浮かべてディアナを見送ることしかできなかった。その表情には、彼女の無事を願う切実な思いがにじんでいた。
部屋に戻ったディアナは、クラリッサを招き入れた。
クラリッサがアインホルン寮にあるディアナの部屋に入るのは、これが初めてのことだった。
「相変わらず何もない部屋ですわね」
クラリッサはディアナの極端に荷物の少ない部屋を軽く見回し、小さくため息をついた。クノール寮の部屋とほとんど変わっていない。あのときもアルマからもう少し年相応の女の子らしい人形などを飾ればいいのにと言われていたが、最後まで「必要ない」と頑なに拒み続けていた。
ある意味ディアナらしい、余計なものが一切ないシンプルな部屋だった。
ディアナはベッドの中央に胡座をかいて座り、クラリッサはベッドの端に横座りで腰を下ろした。二人の間に、図書室から借りてきた分厚い書籍がドサリと音を立てて置かれた。魔力の蒸留に関する書籍は、その存在感だけで二人の間に緊張感を生み出していた。
「どうやって進めますの?」
クラリッサの声には、わずかながら不安が滲んでいた。
「とりあえず、これを頭に思い浮かべる」
ディアナはそう言って、先ほどの見開きを開いた。そこには、複雑な構造を持つ蒸留器、「ポットスチル」の図が描かれていた。
「今度は調合鍋の代わりに、このポットスチルを造って中に魔力を貯めるってこと?」
「そう」
クラリッサには理解できないが、ディアナは頭の中で水瓶や調合鍋を想像し、その中に魔力を貯めていると言っていた。今回は調合鍋の代わりに、瓢箪型のポットスチルをイメージして、その中に魔力を貯めようとしているようだ。
容器を簡単に変更できるとはクラリッサには思えなかったが、あくまでも頭の中のイメージだ。ディアナの中では、問題なくできることなのだろう。
「わかりましたわ。先ほども言いましたけれど、ほんの少しでも迷いが出たならそのまま進めず、わたくしに相談すること。煮詰めたときのようにどうしようもなくなるまで一気に進めず、少しずつ様子を見ながら進めること。
この二つは必ず守ること。いいですわね?」
クラリッサは真剣な眼差しでディアナに釘を刺した。過去の失敗を繰り返させないためにも、彼女はディアナの安全を最優先に考えていた。
「ん。わかった。……ありがとう」
ディアナは素直に頷き、そして、ぽつりと感謝の言葉を漏らした。その言葉は、クラリッサの心に予想外の波紋を広げた。
「い、いきなり何ですの!?」
クラリッサは驚きに目を見開いた。ディアナがここまで感謝を露わにすることは珍しい。
「クレアが友達でよかった」
ディアナの言葉は、飾らない真心がこもっていた。
「ちょ、ちょっと、事を始める前にフラグが立ちそうなことは言わないでください!」
いきなり感謝を伝えたディアナに、クラリッサは慌てた。
フラグとは、探索士の間で広く信じられている迷信のひとつだ。
例えば、遠い場所に探索に赴く前や、その最中に「帰ったら○○する」などと言えば、帰れなくなることを言う。もちろん真偽は定かではないが、探索士にとって無事に戻ることは任務達成と同義のため、帰れなくなるような事態は、例え冗談でも避ける傾向があった。
クラリッサは、大切な友に無事でいてほしいと心から願っていた。
「ん。大丈夫。必ず成功させるから見てて」
ディアナの瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。その自信に満ちた眼差しに、クラリッサはわずかながら安堵を覚えた。しかし、同時に、胸の奥には一抹の不安も残っていた。彼女の友が、この新たな挑戦を無事に乗り越えられるよう、クラリッサは祈るように見守るしかなかった。
不安がるクラリッサを元気づけるように、ディアナはにっこりと笑顔を浮かべた。そして、手にした書籍に目を落とし、その中に記された図解と説明を脳内で反芻する。脳裏で瓢箪型のポットスチルを鮮明にイメージしていく。その銅色の輝き、なめらかな曲線、そして頂部から伸びる細いパイプの先にある冷却槽まで、細部にわたるまで完璧に再現しようと、ディアナは深く集中していた。
水瓶から見慣れた調合鍋への変更は容易だったが、今回イメージしようとしているポットスチルは、見たことも触れたこともない未知の装置だ。その構造を完全に理解し頭の中で具現化することは、想像以上に困難を極めた。「むむっ」と唸りながら、ディアナは眉間に深い皺を刻む。その額には集中ゆえの薄っすらとした汗が浮かび、唇は固く結ばれていた。クラリッサは、その張り詰めた空気を壊さぬよう、固唾を飲んで友の様子を見守っていた。
やがて、ディアナの動きがぴたりと止まる。
「ふぅ……」
深々と息を吐き出すディアナの姿に、クラリッサは安堵の息を漏らした。
先ほどの苦悩から解放されたかのように落ち着きを取り戻し、達成感が微かに見て取れた。どうやら、念願のポットスチルを完全にイメージすることに成功したのだろう。
これまで使用していた調合鍋も、小さなプールほどの大きさはあったが、ディアナの目の前には、それをもはるかに凌駕する巨大な赤銅色の瓢箪型ポットスチルが、まるで一つの建造物のように聳え立っていた。その表面は光を反射して鈍く輝き、上部からは細いパイプが優雅な曲線を描きながら伸び、隣に置かれた円筒形の冷却槽へと接続されている。
クラリッサは、ディアナの集中を邪魔するわけにもいかず、ただ状況を想像するしかない。そのもどかしさに、彼女は唇を噛みしめる。しかし、ディアナに何か異変があった場合、瞬時に対応できるよう、クラリッサは一点の集中を途切らせることなく、友の微細な変化も見逃すまいと、その姿を凝視し続けていた。
ディアナは、授業で蒸留装置の基礎知識を学んでいたし、実際に今日、不純物と液体を分離する実験も体験済みだ。しかし、蒸留酒を製造する現場を直接見たことは一度もなかった。それでも、借りてきた書籍を穴が開くほど読み込み、そこに記された手順と構造を頭に叩き込んだ。そして今、彼女の脳内に構築されたポットスチルは、その知識とイメージの集大成と言えるものだった。あとは、実際に魔力を蒸留してみるだけだ。
その時、ディアナの脳裏に「少しずつ様子を見ながら進めること」という、クラリッサの優しい忠告が蘇った。
前回の煮詰めたときのように、今回も一気に終わらせてしまいたいという誘惑に駆られた。しかし、自分の身を案じてくれた友との大切な約束を違えるわけにはいかない。
ディアナは、その誘惑を振り払うように深く息を吐き、少量だけを蒸留してみることにした。
ポットスチルの開口部を覗き込みながら、ディアナは慎重に加熱を開始する。
魔力を帯びた液体の表面が、ゆっくりと微細な波紋を広げ始めた。ここまでは、前回の煮詰め作業と同じだ。だが、今回の目的は、余分な水分を飛ばして煮詰めることではない。意識するのは、液体の中に溶け込んだ魔力を、水とは異なる性質を持つ「魔力の蒸気」として蒸発させていくイメージだ。その意識の切り替えが、蒸留の成否を分ける鍵となる。
やがて、液体の表面から薄い靄のようなものが立ち上り始めた。それは、上澄みの不純物の多い魔力だ。ゆっくりと蒸発していき、ポットスチルの上部につながるパイプを通って冷却槽へと流れ込んでいく。熱せられた魔力の蒸気は、冷却槽の内部を巡る冷たいコイルに触れることで、急速に冷やされ、再び液体へと戻っていく。その液体が、冷却槽の下部にある蛇口から、一滴、また一滴とゆっくりと滴り始めた。
「これが、『初留』……」
ディアナは、滴り落ちる液体を小さな瓶に受け止める。しかし、これは上澄み部分が蒸留されたもので、まだ不純物が多いためそのまま捨てることになる。実際に瓶の中身を確認してみるが、食事などから直接取り込んだ粗雑な魔力のためか、蒸留を経てもその質はそれほど変わっていないように見えた。
さらに加熱を続けると、滴り落ちる液体の色と輝きが、明らかに変化し始めた。
冷却槽を通って冷やされ、液体となった魔力が、先ほどと同じように蛇口の下に設置された水瓶へと静かに流れ落ちていく。その透明な液体は、水瓶の中でゆっくりとその量を増やしていった。
「キレイ……」
ディアナの口から漏れたのは、感嘆の声だった。
これまでの魔力は、その濃淡でしか判別できなかった。しかし今、蛇口から零れ落ちる液体は、ディアナ自身の瞳と同じ、深く澄んだ翡翠色をしていた。濁りのないそれは一点の濁りもなく、高い透明度を保ちながら、翠色の淡い光を放っていた。そして何よりも驚くべきは、あれほど悩まされてきた魔力特有の粘度が一切なく、まるで水のようにサラサラとした液体そのものだったのである。
「どうでした?」
静かに目を開いたディアナに、身を乗り出すようにしたクラリッサが尋ねた。
「できた。……と思う」
ホッとした様子のディアナが、柔らかい笑顔を浮かべた。それはまるで、長年の重荷から解放されたかのような、憑き物が落ちたかのような安堵の表情だった。
「ほんの少ししか試してないけど、うまくいった」
そう言うと、ディアナはクラリッサの目の前で手のひらを出し、火魔法を唱えた。
「火よ」
試しに発動させた生活魔法。
ディアナの手のひらに、拳よりも一回り小さい火の玉がふわりと浮かび上がった。しかし、その炎の色は通常とは異なり、青く輝いていた。それは炎の温度が高いことを示していた。ディアナは何度か同じ魔法を試したが、現れる火の玉の大きさは全て同じで、非常に安定していた。青かった炎の色も、回数を重ねるごとにディアナの制御が効くようになり、やがて通常の赤い色へと変わっていった。
「どう……ですの?」
クラリッサは、その変化を目の当たりにして、思わず問いかけた。
ディアナは力強く頷いた。
「ん。問題ない」
これまでの感覚で使えば、精製された魔力は威力が格段に高まってしまう。しかし、サラサラとした液体になったことで、その制御は格段にしやすくなっていた。調整には気を付けなければならないが、慣れればこれまでと変わらない感覚で魔法を使えるようになるだろう。
続いてディアナは、全身に魔力を纏わせ始めた。
できるだけ薄く、均一に全身へと魔力を広げていく。全身が敏感なセンサーとなったような感覚は、以前と変わらなかった。いや、むしろこれまでよりも、精度が格段に上がったように感じられた。すぐ目の前に座るクラリッサの体温や、かすかな息遣い、そして微かな鼓動に至るまで、ありありと感じ取ることができた。
「あとは魔法ですわね」
クラリッサの言葉に、ディアナは静かに頷いた。
彼女の心臓は期待と、ほんの少しの不安で高鳴っている。蒸留した魔力が、本当に彼女の魔法にどのような影響を与えるのか、まだ未知数だった。
二人は人目を避けるように屋上へと向かった。
すでに消灯時間を過ぎ、学校全体が静寂に包まれていた。屋上には人気はなく、二人きりの空間が広がっていた。ひんやりとした夜風が頬を撫で、ディアナの緊張を少しだけ和らげる。
「見つかる前にさっさと検証しましょう」
クラリッサに促され、ディアナは屋上の中央に立った。
どの魔法を試すべきか、ほんの少し迷いがあった。派手な魔法は避けたいが、かといって変化が分かりにくいものでも困る。熟考の末、彼女は一つの魔法に狙いを定めた。軽く深呼吸をすると、愛用の杖を構える。
先端に淡い光が宿り、魔力が集約されていくのが感じられた。
「干天の慈雨」
ディアナが呪文を唱えた直後、見守るクラリッサが驚愕の表情を浮かべた。ディアナが選択した魔法は、まさかの天候魔法だったからだ。
静かに、しかし確実に、屋上に雨が降り始める。
滴はディアナを中心に、三メートル程度の範囲に限定されていた。村で使っていた頃は、範囲を絞ることなどできなかった。制御の精度が格段に上がったのは、彼女自身の成長もさることながら、やはり蒸留した魔力の影響が大きいのだろう。
気のせいかも知れないが、今までの魔力よりもはるかに制御がしやすいように感じられた。魔力の流れがクリアで、イメージした通りに力が動く。
しかし、蒸留していた魔力の量は限られていた。あっという間にその少ない魔力を使い切ってしまい、降り始めた雨はわずか十秒程度で止んでしまった。
それでも、クラリッサが受けた衝撃は大きかった。
雨が止むと同時に、彼女はディアナに詰め寄った。その瞳には、驚きと興奮が入り混じった感情が宿っていた。
「ディアナさん。今の魔法って天候魔法ですわよね? 貴女もしかして天候魔法も使えたのですか?」
クラリッサの問いに、ディアナは少し気まずそうに答える。
「ん。お母さんに教わった魔法。……黙っててゴメン」
ディアナが天候魔法が使えることは、クラリッサはおろか、アルマにすら秘密にしていた。
しかし、今回あえてこの魔法を選択したのは、心配してくれたクラリッサへの感謝を示すためだった。そして、これまで彼女達を散々驚かせてきた自分だ。今さら一つくらい驚かせたところで、二人の関係が今までと変わることはないだろうという、揺るぎない信頼がディアナにはあった。
案の定、クラリッサは驚いたものの、ディアナを拒絶するような素振りは見せなかった。それどころか、天候魔法のことは薄々感づいていたらしい。
「ディアナさんが天候魔法を使えるなんて今さらですわ。とっておきの風魔法だと言ってましたけれど、魔鳥を倒すときに使った魔法って、天候魔法だったのじゃありません?」
何でもないことのように言いながら、クラリッサは確認するようにディアナに問いかけた。ディアナは頬を少し染めながら、小さく頷いた。やはりクラリッサにはお見通しだったようだ。
「それよりも、今のは通常の魔力を蒸留したのでしょう? 次はいよいよ変質した魔力を蒸留するのですわよね?」
クラリッサの言葉に、ディアナは再び真剣な表情を浮かべた。
「ん。これを何とかしないと何も変わらない」
彼女が抱える最大の課題は、彼女の体内で変質している魔力だった。その魔力を制御できるようにならなければ、真の意味で前に進むことはできない。二人はそう言いながら、屋上を後にして自室へと下りていった。
その後、ディアナは徹夜で変質した魔力の蒸留作業に取り掛かった。クラリッサもディアナに付き添い、夜通し彼女の隣にいた。
夜が明け、東の空が白み始める頃には、ついにすべての作業が完了した。
変質した魔力は、ディアナの目論見通り、より強く輝く翡翠色の魔力へとすべて変換することに成功したのだ。
その輝きは、まるで新しく生まれた宝石のようだった。