ただいま
――ガチャ
静寂を破るかのように、談話室のドアが勢いよく開いた。
皆の視線が一斉にそちらへ向かう。突然姿を消し、誰もがその行方を案じていたディアナが、何事もなかったかのようにそこに立っていた。
「ただいま」
彼女の声は、まるで散歩から帰ってきたかのように軽やかで、談話室に響き渡った。
皆はギョッとしたように、瞬きもせずディアナを凝視する。その視線の集中ぶりに、さすがのディアナも少しばかり驚いた表情を見せたが、それも束の間。気にした様子もなく、ポカンと口を開けて立ち尽くしているクラリッサの傍までスタスタと歩み寄る。
そして、屈託のない笑顔を浮かべた。
「お腹減った。お昼食べ損ねた」
あまりにも呑気な言葉に、沈黙が訪れる。最初に我に返ったのはエミーリアだった。血相を変え、ディアナに詰め寄る。
「ちょっとディアナ、あなたどこに行ってたの?」
エミーリアの剣幕に、ディアナは眉一つ動かさずに答える。
「図書館」
「図書館!? 図書館ってあの図書館かい?」
エミーリアに代わってルーカスが問いかけた。
彼の声は動揺のせいで上ずっており、当たり前のことを間の抜けた響きで問いかけていた。
「ん」
ディアナはそれを証明するように、胸元に抱えた数冊の書籍に視線を落とした。
エミーリアとルーカスがクラリッサを見るが、彼女は小さく首を振る。まさかディアナがそんなところにいるとは夢にも思わなかったため、図書館は確認してなかったのだ。彼女たちの間に流れる沈黙は、安堵と同時に、確認を怠ったことへの自責の念を含んでいた。
クラリッサは全身から力が抜けたように、ストンと腰を下ろした。膝から崩れ落ちるようなその姿は、張り詰めていた緊張が一気に解き放たれたことを示している。
「どうしたのクレア! 大丈夫?」
座り込んだクラリッサを心配してディアナが声をかけるが、状況を把握できていないのは彼女だけだ。その能天気な声が、却ってクラリッサの感情を逆撫でする。
無事だったという安堵から茫然自失となっていたクラリッサだったが、落ち着いてくると激しい揺り戻しが彼女を襲う。またのんきなディアナの声がそれに拍車をかけた。
クラリッサは目を吊り上げてディアナを睨んだ。その視線は、心配と怒りが入り混じった複雑な感情を雄弁に物語っていた。
「大丈夫ではありませんわ! 食事の時間にも戻ってこないし、黙っていなくなっちゃったから心配していたんですのよ!」
その言葉には、どれほど心配したかという切実な思いが込められていた。
「ご、ごめん」
ディアナは小さく、しかし心底申し訳なさそうに謝った。自分の行動がどれほど周囲を心配させたかを、ようやく理解したようだった。
「わたくしだけに謝っても仕方ありませんわ。皆に迷惑をかけたのですわ!」
クラリッサはそう言って両手を広げた。
周りには、自分たちのやり取りを固唾を呑んで見守る多くの寮生が集まっていることに、ディアナはそこで初めて気がついた。そして同時に、皆が自分を心から心配してくれていたことを知った。
その視線は、安堵と、かすかな非難、そして何よりも深い愛情に満ちていた。彼女がどれほど多くの人に支えられているかを、改めて痛感させられる瞬間だった。
「皆、ごめんなさい。……心配かけました」
ディアナは消え入りそうな声で、謝罪をおこなった。
「声が小さいですわ。せっかく謝っても、相手に伝わらなければ意味がありませんわよ!」
心配が大きかった分、怒りが収まらないのか、クラリッサはディアナの声が小さいと文句を言う。彼女の言葉には、ディアナが無事に帰ってきたことへの安堵と、二度とこんな心配をさせないでほしいという切実な願いが込められていた。
「まぁ、無事に戻ってきたんだからいいじゃないか。それにそろそろ夕食の時間だ。ディアナもお昼を抜いたからお腹も減ってるだろう?
だけど、今後一人でどこかに行くときには、誰かに行き先を告げてからにすること。わかったね?」
そこにルーカスが間に割って入り、ディアナに注意したことで、ようやくクラリッサも矛を収めたのだった。彼の落ち着いた声は、緊張していた場の空気を和らげた。
「はい」
ディアナは子犬のように、小さくなって反省していた。
完全に自分のことしか見えてなかった彼女は、あのとき暗闇を照らす一筋の光に見えた希望に、藁にもすがる思いで飛びついたため、全く周りのことが見えてなかったのだ。自分の軽率な行動が、どれだけ多くの人に心配をかけたかを深く反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないと心に誓った。
「さあ、夕食の時間だ。皆食堂に行こう! ディアナ、そのままでは行けないよ。さすがに本は置いてくるんだ」
「そうね。せっかく借りてきた本が汚れちゃうと困るでしょ?」
食事の時間を知らせる鐘が鳴り、皆一斉に談話室を出て行く。
お昼を食べてないディアナもそれに続いて行こうとするが、ルーカスとエミーリアに捕まり、本を部屋まで置きに行くように言われてしまう。
「仕方ありませんわね。ディアナさん、わたくしも一緒に行ってあげますから、本を部屋に置いてきましょう」
お腹が減っているディアナは最後まで渋っていたが、クラリッサに付き添われ、本を自室に置くために階段を上っていくのだった。
クラリッサの言葉には、未だ怒りが残っているような口調とは裏腹に、ディアナを一人にしないという優しい気持ちが滲み出ていた。
「それで、ディアナさん。食事も摂らず、図書館で何を調べていたのかしら?」
クラリッサの声が、談話室の奥にある自習室に静かに響いた。
食事が終わり、寮へと戻ってきたディアナは、部屋に戻ろうとしたところでクラリッサに捕まり、この自習室へと連行されたのだ。普段は穏やかなクラリッサの表情には、心配と少しばかりの困惑が混じり合っていた。
クラリッサの隣には、腕を組んでディアナを見下ろすブルーノもいた。ディアナが腰を下ろす机の上には、彼女が借りてきた分厚い本が、まるで城壁のように積み重ねられていた。
ディアナは、二人の視線を受けても動じることなく、静かに積み重ねられた本の中から一冊を手に取った。
「ん。これ」
簡潔な言葉と共に、目の前の書籍のタイトルが見えるように広げた。そのタイトルを読み上げたクラリッサは、思わず声を上げた。
「何ですの『醸造のすべて』?」
クラリッサの声には、驚きと困惑が入り混じっていた。
無理もない。この学校の図書館に、そのような専門書が蔵書されていること自体が稀なことであり、ましてやディアナが興味を持つとは誰も予想しなかった。
ディアナが広げた本だけでなく、その隣に積まれた本のタイトルもまた、クラリッサとブルーノを困惑させるに十分なものだった。「蒸留は人の英知がもたらした」「醸造の歴史」「蒸留酒の仕組み」……。どれもこれも、酒の醸造や蒸留に関する書籍ばかりだった。
「お前、酒でも造るつもりなのか?」
ブルーノが、素直な感想を口にした。その言葉は、彼だけでなく、クラリッサの心境も代弁しているようだった。目の前に広がる光景は、どう見てもディアナが突如として醸造の道に進もうとしているようにしか見えない。誰もが、彼女の突飛な行動に困惑を隠せないでいた。
「違う。いや、違くないけど違う!」
「どっちなんだよ!」
ディアナのまるで煙に巻くような説明に、ブルーノが苛立ちを隠せない様子で声を荒らげた。
「キチンとわかるように説明していただけないかしら?」
クラリッサもまた、冷静さを保ちつつも、その口調には微かな苛立ちが感じられた。
要領を得ないディアナの説明に、二人は焦れたように深く、長い溜息を吐いた。
ディアナは、そんな二人の様子を気にすることなく、どこか飄々とした表情で書籍の中から一冊の古びた本を取り出した。埃を軽く払い、おもむろにその本を開くと、「これ」と言って二人の目の前に差し出した。
ページを繰ると、そこには、蒸留酒の造り方が精緻な図解と共に描かれていた。
見開きの左側には、巨大な瓢箪型の容器が描かれ、その先端から細長く伸びた管が右ページに描かれた冷却槽につながっていた。その大きさは、昼間見た蒸留装置よりも遙かに大きいが、基本的な構造は何ら変わらなかった。
「変質した魔力をこれで濃縮する」
ディアナは、図を指差しながら簡潔に説明した。
「そんなことできますの? というより、そんなことして大丈夫ですの?」
クラリッサは、その発想の飛躍に驚きを隠せない。彼女の疑問はもっともだった。現在、アレクシスは、変質した魔力を浄化するために、マギーバートを使うことを提案していた。それに向けて今は各地から希少な素材を集めている最中だ。
確かにマギーバートを使ったとしても、すべての変質した魔力を完全に溶かし切ることは難しいとも聞いていた。しかし、少なくとも今よりも状況が悪くなることはないはずだと、皆が信じて疑わなかった。
その準備を進めている最中、ディアナが全く別の方法を試そうというのだ。これにはクラリッサだけではなく、ブルーノも心配そうにディアナの顔をじっと見つめていた。
「……わからない。でもウッシーと約束したから」
ディアナの声は、迷いを含みながらも、揺るぎない決意を秘めていた。
「ウッシー? ああグライフ寮の二年生の?」
クラリッサは首を傾げた。ウルスラの名前はディアナから何度か聞いていたが、寮が違うため、直接会ったことはなかった。
実家が魔法薬を扱う名家であるためか、魔法薬学に並々ならぬ造詣を持つとの噂は耳にしていた。アルケミア魔法学院では珍しい、一般入試からの入学組としても有名で、その実力は学内でも一目置かれていた。
「ん。模擬戦の約束をした」
ディアナは静かに頷いた。
どうやらウルスラは模擬戦のメンバーに選ばれており、アルバイトのときにディアナと対戦の約束を交わしたらしい。
ディアナの魔力が変質したのは、その約束を交わした直後のことだった。それ以来、彼女の魔法は不安定になり、今となってはディアナがメンバーに選出されることは、もはや非常に難しいと考えられていた。しかし、ディアナはその約束を何よりも大切にしていたのだ。
「でも、次も失敗したら……」
ブルーノの声には、抑えきれない不安がにじみ出ていた。彼はディアナの身を案じ、その無謀とも思える行動を止めようとした。
「ブルーノ!」
失敗という言葉を口にしたブルーノを、クラリッサは強い口調で諫めた。しかし、彼女もまた、ディアナが直面している危険性を深く理解していた。ただでさえ変質した魔力だ。もし再び制御に失敗すれば、魔法を二度と使えなくなるか、最悪の場合、命を落とす可能性さえある。
クラリッサの心臓は警鐘を鳴らしていた。しかし、ディアナが一度やると決めたら、それを翻意させることは並大抵のことではないことも、クラリッサはよく知っていた。彼女の意志の強さは、時に頑固とも言えるほどだった。
「わかりましたわ。やるならわたくしが立ち会います」
「クラリッサ様!?」
驚愕に目を見開いたブルーノの驚きの声に、クラリッサは表情一つ変えず、ディアナに向き合って静かに告げた。その瞳には、すでに決意が宿っていた。
「ディアナさんはどうせするなと言っても、こっそりやるつもりでしょう? それならば、わたくしが見届けて差し上げますわ」
隠れてやろうとするなら、誰も止めることはできない。ならば、自分の目の前でやらせる方がまだ安全だ。もし何か異変があれば、すぐに止めることができる。万が一、ディアナが魔法を使えなくなったとしても、ビンデバルト家で一生面倒を見てもいい。もし実家が断るようなら、自分が私財を投じてでも面倒を見よう。ほんの一瞬の間に、クラリッサはそこまで覚悟を決めていた。
もっとも、その覚悟をディアナに言うつもりは毛頭なかった。言えばきっと、ディアナは自分の責任だと拒否してしまうことが分かっていたから。ディアナの自尊心と独立心をクラリッサはよく理解していた。
だから彼女は口角を上げ、不適に笑った。その笑顔は、不安を抱えるブルーノを安心させ、ディアナに挑む覚悟を示すものだった。
「ですから、必ず成功させなさい!」
その言葉には、クラリッサのディアナに対する信頼と、彼女を絶対に諦めさせないという強い意志が込められていた。それは、単なる応援ではなく、共にこの困難に立ち向かうという、揺るぎない決意の表明でもあった。




