ディアナ失踪
最終メンバー発表の日まで一週間となったこの日、アインホルン寮の一年生たちは、寮監であるフリーダの薬学の授業を受けていた。
普段の授業では、各寮合同で行われることが多く、その際には各寮が成績を競い合うため、張り詰めた空気が漂うのが常だった。しかし、今日の授業はアインホルン寮の一年生のみ。同じ寮の仲間たちと顔を合わせるだけの空間は、調合教室全体をリラックスした雰囲気で満たしていた。
ディアナもまた、その中にいた。
彼女は魔力量に制限があるというハンディキャップを抱えていたが、実技を伴わない座学や、特定の魔力を必要としない作業においては、以前と変わらず授業を受けることができていた。
「さて、今日は調合ではなく、蒸留装置を使い混合液から素材の分離をおこなっていただきます」
フリーダの声が、穏やかながらも教室に響き渡った。
「今では錬金魔法を使えば、素材を簡単に分離できます。しかし、それは金属性の魔法であり、適性がなければ使うことができません。それに、あなた達が金属性を習うのは二年生になってからです。つまり、分離魔法を使えない状況で素材を分離するために使用するのが、この蒸留装置です」
フリーダがそう言って教壇の上の蒸留装置を示した。
蒸留装置は高さ三十センチメートルほどの銅製で、上部が滑らかな曲線を描いてくびれた円筒形をしていた。先端からは細い管が伸びており、それが冷却槽と呼ばれる別の円筒形の装置とつながっていた。
生徒たちは皆、興味津々に装置を見つめていた。
フリーダは、生徒たちの反応を満足げに見つめながら、ゆっくりと蒸留の原理とその応用について説明を始めた。彼女の説明は、単なる知識の羅列ではなく、魔学の歴史や、蒸留がどのようにして人類の生活に貢献してきたかといった、興味深いエピソードを交えながら進められた。
「さて、今日は皆さんにはこの蒸留装置を使って、中に入った混合液の分離をおこなっていただきます」
五班に分かれた学生たちの前には、教壇にあるものと同じ蒸留装置が一つずつ用意されていた。
赤銅色の鈍い光を放つその装置の中には、すでに何か透明な液体が満たされている。それが一体何なのか、学生たちの好奇心を掻き立てるには十分だった。
「蒸留装置にはそれぞれ違う混合液が入っているので、皆さんには蒸留した溶液が何かを当てていただきます」
まるでゲームのような課題に、ご褒美こそないものの、学生たちの顔には楽しげな笑みが浮かび、やる気に満ちた眼差しが宿り始める。各班とも先を争うように、真剣な面持ちで蒸留の準備に取りかかり始めた。
ディアナもまた、クラリッサと一緒に実験に参加していた。だが、今の彼女はどこか一歩引いたような態度で、積極的に実験に関わろうとはしない。その瞳は一点を見つめることもなく、まるで上の空のようにぼんやりとしていた。
時折、クラリッサが心配そうにディアナの横顔を見つめる。その視線に気づいたディアナは、気を遣わせてしまったことを反省し、授業に集中しようと試みる。しかし、その努力は長くは続かず、気がつけば再びぼんやりと遠い目をしてしまうのだった。
「……このように、混合液をそれぞれの揮発温度の違いを利用して分離するのが蒸留の原理です。皆さんが大人になったら、この原理はもしかしたら身近なものになるかもしれませんね」
フリーダは、蒸留の仕組みを図解しながら、分かりやすい言葉で解説を続ける。その声は穏やかで、生徒たちを惹きつける魅力があった。
「例えば美味しいお酒も、種類によっては同じ原理で造られています。お酒に含まれる水分とアルコール分を蒸留によって分離し、アルコール分を濃縮することで、より香り高く味わい深いお酒になるんですよ。
……あらあら、こんな話をしてたら、先生、なんだか少しお酒が飲みたくなってきましたね」
その言葉に、教室の何人かから小さく失笑が漏れた。
若くキュートなフリーダは、就任当初から男子学生からの人気が高かった。しかし、その見た目に反してかなりの酒豪らしく、就任早々の教師らの歓迎会の席で、同僚の教師が引くほどの酒乱ぶりだったとの噂が立っていた。また、それを裏付けるように、授業中にこうしてお酒の話をするため、今では少々残念な先生という目で見られることが増えている。
ディアナは、ぼんやりと蒸留装置を見つめていた。その瞳には何も映っていないかのようだった。しかし、フリーダが口にした「濃縮」という言葉が、彼女の意識をかすかに引き戻した。眉がピクリと動き、彼女の視線がゆっくりとフリーダへと向けられる。
「濃縮……濃縮……濃縮……」
ディアナは小さな声で、まるで呪文を唱えるかのようにその言葉を繰り返していた。その声は次第に大きくなり、彼女の瞳に力が戻っていくのが見て取れる。そして、やがて大きく目を見開き、突然立ち上がって叫んだ。
「濃縮っ!」
その突拍子もない叫びに、フリーダを始め、学生達がビクリと肩を震わせた。一斉に怪訝な顔がディアナに向けられた。
「ディアナ、どうしました?」
驚いたフリーダが問いかけると、ディアナは顔を赤く染め、慌ててストンと腰を落とした。
「い、いえ、何でもありません」
隣に座っていたクラリッサが、心配そうにディアナの顔を覗き込む。
「大丈夫、ディアナさん?」
「うん。……クレア」
ディアナは俯いたまま、フルフルと肩を震わせていた。
まだ調子がよくないのかと思ったクラリッサだったが、顔を上げたディアナの様子は、彼女の想像とは全く違うものだった。
その瞳には、先ほどまでの空虚さはなく、代わりに何かを発見したかのような、強い光が宿っていた。
「あたし、見付けたかも知れない!」
ディアナはそう叫ぶと、普段の冷静さをかなぐり捨て、珍しく興奮した様子でクラリッサに詰め寄った。その翡翠色の瞳は、これまでの疲れたような眼差しとは打って変わり、大きく見開かれ、期待に満ちた輝きを放っている。勢い余って、彼女はクラリッサの手を両手で強く握りしめた。突然のディアナの勢いに、クラリッサは思わず後ずさってしまう。
「見付けたって、まさか、魔力を溶かす方法ですか?」
クラリッサはディアナの興奮ぶりに戸惑いながらも、その言葉の意味を推測する。
ディアナは魔力の圧縮に失敗し、その結果体内の多くの魔力が変質してしまっていた。圧縮を再開するためには、まず変質してしまった魔力を何とかしなければならなかったはずだ。だから、魔力を溶かす方法を見つけたとでも言うのだろう。
「ううん。魔力の圧縮方法!」
しかし、ディアナの答えはクラリッサの予想とは全く異なっていた。
「はい!?」
クラリッサの驚きの声が、静かな教室に響く。
彼女の頭の中は、疑問符でいっぱいになった。
「ちょっとディアナさん。意味がわかりませんわよ」
ディアナの中では答えが出ているのだろうが、クラリッサには彼女の言う言葉が意味不明で、理解の範疇を超えていた。クラリッサは何とか説明を聞き出すため、興奮するディアナを落ち着かせようと試みる。しかし、一度火が付いた彼女の興奮は、どんな言葉も届かないほどに高まっていた。
「ディアナ、クラリッサ。二人とも静かにしなさい!」
ついにはフリーダから注意の声が飛ぶ。だが、授業が終わるまでディアナの興奮は治まることはなく、その間、彼女はずっと身振り手振りを交えながら、呆れ顔を浮かべるクラリッサに熱弁をふるい続けていたのである。
ディアナは薬学の授業が終わると、行き先を誰にも告げずにふらりとどこかに行ってしまった。そして、その日の授業が全て終わっても、寮に戻ってくることはなかった。
「寮にも戻っていないなんて、どこに行ったのかしら?」
クラリッサの心配そうな声が談話室に響く。
「昼御飯にもこないなんて、お腹をすかしてどっかで行き倒れてるんじゃないのか?」
ブルーノが本気とも冗談ともつかないことを言う。
「ちょっと! 冗談でもそういうことを言うのはやめてくださる?」
クラリッサがキッとブルーノを睨みつけると、彼は慌てて謝罪し、口を噤んだ。
何よりも食事を心から楽しみにしていたディアナは、どれほど忙しくてもこれまでは必ず食事の時間にはきちんと姿を見せていた。何も言わずに一食抜くなど、これまでの彼女からは考えられない行動だったのだ。
ブルーノの言葉も、単なる冗談ではなく、実際にあり得るのではないかと思わせる根拠は十分にあった。
「外出の許可も出されてないんでしょ?」
「出てなかったですわ」
エミーリアの言葉に、フーゴに確認してきたクラリッサが力なく首を振る。
「なら無断外出でない限り学校内にはいるわね。ディアナちゃんが食事を抜くなんて異常事態だわ。もうすぐ夕食だしそれまでに姿を見せなければ、フリーダ先生に報告しないといけないわね?」
寮のハウスリーダーであるエミーリアも、心配そうな表情で腕を組んでいた。彼女の言葉には、ディアナの異常な行動に対する危機感がにじみ出ていた。
学校内でディアナが立ち寄りそうな箇所は、それほど多くはない。すでに彼女が立ち寄りそうな場所は、皆で手分けして確認済みだった。
クラリッサは、彼女の行方に頭を悩ませていた。
魔力圧縮の方法を見付けたと目を輝かせていたディアナは、興奮のあまり支離滅裂で何を言っているのか理解できなかった。まさか授業が終わると、そのまま姿を消してしまうとは予想だにしなかったため、あのとき無理矢理にでも話を聞いておけばよかったと、クラリッサは激しく後悔していた。
「それで、他にディアナの行方に心当たりはないのか? アレクシス先生のところは?」
「……アレクシス先生は先日からご不在で、お部屋には鍵がかかっていました」
もう一人のハウスリーダーのルーカスの焦れたような質問にも、クラリッサは力なく首を振った。
ディアナがよく訪れていたアレクシスの部屋にも、念のためクラリッサは足を運んでみたが、彼は先週から不在にしており、部屋には鍵がしっかりと施錠されたままだった。
全く手がかりが見つからないことに、ブルーノは先ほどから落ち着きなく談話室内をうろうろと歩き回っていた。
「またあいつ一人で抱え込んでるんじゃないのか?」
ブルーノが吐き捨てるように言った。その言葉を、クラリッサは明確に否定することができなかった。
ディアナはもともと、一人で黙々と物事に取り組むタイプだ。
彼女らも実際にそのことを何度か指摘したこともあり、それによってディアナも以前よりは相談してくれるようにはなっていた。しかし問題が大きければ大きいほど、ディアナのやる気をかき立てる側面がある。そのため、今回も周囲が見えなくなり、どこかで没頭しているのかも知れない。いや、没頭しているだけならまだいいが、問題が起きて動くことができなくなっていたとしたら――。
この時間、いつもなら賑やかなはずの寮内も、今日ばかりは寮生の口数も少なく、重苦しい雰囲気に包まれていた。
同郷のクラリッサやブルーノだけでなく、今やアインホルン寮の全員がディアナの行方を案じていた。彼女の不在が、寮全体に不穏な影を落としていた。