めあめふれふれ
タネリに詠唱を教わってから半年、ディアナは九歳になった。
ディアナは無詠唱では、まだ少し制御が甘いところがあるものの、詠唱すれば他の人と変わらないレベルで魔法が使えるようになっていた。
「じゃあディアナ、お願いね?」
「はあい、見ててね?」
そう言うと無詠唱で火魔法を発動させ、手の平に発現させた握り拳大の火球を、かまどの火種に手早く移した。
「随分上手に制御できるようになったじゃない」
「えへへ」
「お姉ちゃんばっかりずるい。今度はボクがするの!」
「昨日はペトルがいっぱい手伝ったでしょ。だから今日はあたしの番!」
最初は詠唱をおこなっていた生活魔法も、今では無詠唱で行使するようになっていた。
魔法が使えるようになって、普段からかまどやランプに火を点けたり、少なくなった水瓶に水を足したりと、今までは見ているしかできなかった彼女にとって、こうして手伝いができることが何よりも嬉しかった。
ペトルと競争するように先を争い、時には行きすぎて姉弟げんかに発展してしまうこともあるが、それはどこの家でもある話で、この家にもようやく普通の家の喧噪が生まれただけのことだった。
この年も、この地域の広い範囲で干ばつの兆候が見えていた。
年明けから雨の日がほとんどなく、雨季を迎えても空はカラッと晴れ渡り、燦々と日差しが降り注いでいた。
そのため村の水源の水位もすでに半分を切っており、このままでは水不足となるのは確実だった。
『干天の慈雨』
ディアナはヘイディと一緒に、水源に雨を降らせていた。
この日の魔法で、水位は七割ほどまで回復したが、それでも水量の不安は拭えない。
そのため日を空けて、水量を見ながら何度か降雨魔法を使うということになった。
「こんなに雨が降らないなんて初めてよね?」
「ああ、記録にもほとんど残っていなかったな。うちはヘイディやディアナがいるからまだましだが、他の村ではもっと深刻な事態となっているだろう」
「領主様には訴えたんだろ?」
「連名で嘆願書を渡しては来たが、だからと言ってすぐに魔法師が派遣される訳じゃないからな」
アハトが難しい顔を浮かべる。
降雨魔法を使える魔法士は、ほとんどが王宮魔法師として王宮に仕えている。
干ばつなどの災害が起これば、当該地域へと派遣されることになっているが、地方の領主にはその権限がなく、王宮魔法師は王命がなければ動くことができないのだ。
また同時に、王宮魔法師は王国の最高戦力でもあるため、大規模な干ばつが起こったとしても、周辺国との関係によっては簡単に動かせず、いざ派遣されたとしてもすでに手遅れとなることもあった。
ヘイディもかつては王宮魔法師候補として、王都の上級魔法学校に通っていた。
しかしこの村では膨大な魔力を持つ彼女ですら魔力総量が足りず、また攻撃魔法に適正がなかったことから、魔法師への道が閉ざされた過去を持っていた。
「まだ雨が足らない?」
「ディアナのお陰でこの村は大丈夫だよ。ちょっと他の村が心配なんだ」
見上げて来たディアナの頭を撫でながら、アハトが心配事を説明する。
「じゃああたしが行って雨を降らしてこようか?」
「そうだなぁ、一箇所や二箇所ならそれでいいかも知れないが、困ってる所はもっとたくさんあるんだよ。
いくらディアナでもそれだけ全部を廻るのは無理だ。余程困ったら何箇所かお願いするかも知れないが、今はまだ大丈夫だよ」
アハトはそう言うと、心配いらないとディアナに笑いかけた。
しかしこの年、干ばつの兆候はすでに広範囲で出ていた。
さすがに現在兆候の出ている範囲全てに雨を降らせることは、数人の王宮魔法師でも難しいだろう。
周辺の懇意にしてる村を助けるくらいなら、アハト個人としてはやぶさかではないが、無理の利かないヘイディを酷使することになる。いくらディアナの補助のお陰で負担が減っているとはいえ、妹に無理をさせたくはなかった。
それに、一度他の村を助けたとして一回で済めばよいが、そこから際限なく要請がくる可能性がでてくるだろう。
小さいとはいえ行政を預かる長としては、村の利益を考えることは最優先だ。
村長としては、大事な住民に負担をかけるような愚策は、採りたくはなかった。
「杞憂に終わればいいんだが……」
アハトはどこまでも晴れ渡った空を見上げながら、誰にともなくそう呟いた。
それから一カ月が経ち、アハトの心配は現実のものとなった。
例年なら雨季が終わり、夏を迎えている頃だ。
結局今年の雨季は、露ほども雨が降ることはなかった。それどころか雨季の間から真夏を思わせる猛暑が連日続いていた。
これにはディアナ達の降雨魔法も焼け石に水となり、水源の貯水量水量はついに二割を切ってしまっていた。
ボンノ村でさえその有様だ。彼女達のいない周りの村や集落では、水源が干上がった所も出始めているという。
さすがに王宮では切り札である王宮魔法師の派遣を決めたという話だが、すでに飢饉の噂が広まっていて穀物の価格が上昇し始めていた。
「ディアナちゃんありがとうね。ここはもういいから次の所に行ってあげて」
「はぁい」
水源の水位が三割を切った辺りから、ディアナは水源から離れた農地を直接巡るようになっていた。これは水源への供給でも、水量が五割に届かなくなってきたため、水源から遠いところの農夫が、アハトに訴えているのを聞いたことがきっかけだ。
今やヘイディすら凌駕する魔力量を持つようになっていたディアナは、ヘイディのように降雨魔法を使った後に疲弊してぐったりするようなこともなく、毎回それほど疲労している様子も見せずに元気に走り回っていた。
そこでこっそり村はずれに行き、困っていた農地に自主的に降雨魔法を使ったのだ。
もちろん膨大な魔力を消費して雨雲を呼ぶ魔法だ。
ディアナの行為は、すぐにバレた。
「へへへっ、バレちゃった」
だが、悪戯っ子のような屈託のない笑顔で笑うディアナに、大人達は何も言えなかった。
「あなた体調は大丈夫なの? 気持ち悪くない?」
「うん、全然平気」
降雨魔法の連続使用による体調を心配したヘイディに、ディアナはそう言って笑う。
「あたし、水源から遠いところに雨を降らせようと思うの」
「お前はまだ九歳だぞ。そんなことを気にする必要はないんだ」
「でも、雨が降らなくて困ってるんでしょ?」
アランが声を荒らげるが、ディアナのそのひと言で二の句を継げなくなってしまう。
「あたしは全然平気だよ。お母さんと一緒にちゃんと水源にも雨を降らせるから。その後ならいいでしょ?」
「そんな無茶をして。もし魔力が枯渇して倒れたらどうするんだ?
今はお父さん達は忙しくて、いっしょについててやれんぞ」
「ええ、だって今日も大丈夫だったもん。平気だよ」
ヘイディと違って元気そうな様子を見せるディアナ。
雨は喉から手が出るほど欲しい時期だ。ディアナの気持ちは痛いほど嬉しかった。
しかし農繁期のこの時期は、アラン達大人は基本的に忙しい。ディアナと一緒に行動するのは不可能に近い。
膨大な魔力消費を伴う降雨魔法だ。見守る人もいない場所でディアナ一人だけで行使させるのは、さすがに危険だと誰しもが考えていた。
「お、俺が!」
そんな中、タネリがおずおずと手を上げる。
タネリはアハトに訴えていた農夫の子で、先程のディアナの降雨魔法を傍で見ていた。
「俺がディアナの傍についててやるよ。体調とかちゃんと見るからさ。
だからさ、父ちゃん達の農地を助けてくれよ!」
「タネリ……。お父さんお母さん、タネリが見ててくれるならいいでしょ?」
ディアナはタネリと並んでアランやヘイディに訴える。
タネリが見ててくれるなら多少は安心できるが、ディアナは彼を苦手にしていたはずだった。一時期、虐められて外に出られなくなった時期があるのだ。
確かにタネリに詠唱呪文を教えて貰ったお陰で、ディアナは生活魔法を使えるようになった。そのことに関してはタネリに感謝している。しかし普段から当たりが強く、他の子ともトラブルの絶えないタネリと一緒にするのが不安だった。
「ヘイディ、どうする?」
「兄さん……」
決められなかった二人はアハトを見た。
「カミルと三人ならいいだろう」
暫く考えたアハトは、カミルとタネリの二人でディアナの様子を見ること、少しでも気分が悪くなればすぐに中止することを条件に、ディアナに降雨魔法を使うことを許可するのだった。
それだけ状況が逼迫していて背に腹は替えられず、不本意ながらディアナの好意に甘えることになったのであった。
その魔法師は、ボンノ村を見渡すことができる丘の上に立っていた。
「ほう! こりゃ驚いた」
この村の景色は、これまで見てきた他の村と全く違う様子に、思わず目を見張った。
薄いグレーのローブを羽織り、杖を携えた老魔法士だ。
フードを深く被っているが、フードから見える軽くウェーブした長い白髪と同じく、胸元まである白い顎髭。深く皺が刻まれた顔には、目にかかるほど伸びた白眉が目立つが、きちんと手入れされているのか、キレイに整えられていた。
ローブの胸元には王家の紋章である山羊が刺繍されていることから、この魔法士は王宮魔法師の一人だということがわかる。
王命により、甚大な干ばつの被害が予想される、ビンデバルト領に派遣されてきて約半月。
干害は当初の想定以上の規模で広がっており、このままでは飢饉などの二次災害も予想されていた。
彼らは被害を少しでも食い止めるため、被害の調査と降雨魔法を行いながら各地を巡っていた。
だが訴えが王宮に届いてから、王命が下されるまでに干ばつの範囲は大きく広がっていた。そのためアハト達の懸念の通り遅きに失した感があり、それは派遣された魔法師達も感じていたことだ。
そんな無力感に苛まれる中で、彼が訪れたのがボンノ村だった。
「これは何としたことだ?」
農地には青々とした作物が茂っていて、農地以外にも緑色の葉が目立っていた。
彼らが今まで廻ってきた他の村と、明らかに様子が違っていたのだ。
老魔法師は丘を下ると、真っ直ぐに農地へと近づいていく。
「ほぉ、ちゃんと育っておるようだ」
震える手で青々と育っている穂を手に取る。
実がつき始めたばかりの穂はまだまだ頼りないほど小さいが、軽くつまめばちゃんと実が入っていることが分かる。これならば余程のことがない限り秋になれば収穫できる筈だ。
老魔法師はホッと息を吐いた。
「おや、王宮魔法師様ではないですか?
お仕事ご苦労様ですじゃ。今年は雨が降らないから廻る土地が多くて大変じゃろう?」
農地の手入れをしていた老夫婦が、魔法師に気づくと声をかけた。
「其方らの苦労に比べたら全然ましじゃよ。
それよりもこれは一体どういうことじゃ。儂らが派遣される前から魔法師が雨を降らせていたかのようじゃが?」
周りの地域に比べると、この村だけが異常といえるほどに潤っていた。
魔法師として、特定の地域にだけ特別扱いする行為はあり得ない。実際にそのような行為をおこなった魔法師は処分の対象となる。農婦はそんな魔法師の心配をよそに、彼の知る懐かしい人物の名を口にした。
「ああ、魔法師様じゃなくヘイディちゃんじゃよ。
それに今年は娘のディアナちゃんも頑張って雨を降らせてくれておるでの」
「ほう、おばあさん、今ヘイディと言うたか。懐かしい名前を聞いたのう。それに娘とな?」
この魔法師にとって、ヘイディはかつての教え子の一人だ。
先祖にエルフの血が入っているためか彼女の魔法の適性は高く、何より希少な天候魔法を使うことができた。
だが成長するにつれて魔力の伸びが頭打ちとなり、折角の天候魔法も魔力不足のため、基本となる降雨魔法しか使うことができずに上級魔法学校を去っていった。
生まれ故郷に戻った後、結婚し子供が生まれたと聞いたことがある。
そういえば彼女の出身地はこの辺りだったと思い出した。
学校を去ってから十年以上経ち、今では娘と供に雨を降らせているとは。
魔法師は思わず相好を崩すのだった。
「ほれ、あそこじゃ。あの雲がかかっている辺りにディアナちゃんがいるはずじゃ」
農夫が指を指した方向を見れば、確かに晴れ渡った空の中、そこだけ黒雲が湧き雨が降っているのがわかる。
「ここは水源からちと遠くてな。日照りが続けば、こんな所まで水が回らず困っておったんじゃよ」
水源から遠いところに一回だけでも降雨魔法を使ってくれないか?
窮状を村長に訴えたが、ヘイディの魔力量の問題もあって、そのときは村長に断られたという。だがそれ以降、ディアナが単独で水源から遠い農地に雨を降らせて廻っているのだという。
「なるほどよくわかった、ありがとう。
それじゃその心優しい魔法士様と少し話をしてみようかの」
魔法師は老夫婦に礼を言うと、雨雲が湧いている農地へと向かっていくのだった。