凄いぞ、お前は天才だ!
魔獣の討伐から十日。
アランは、治療の甲斐あって、脇腹の傷はようやく塞がり、赤みを帯びた肌が盛り上がりつつあった。左足の骨折も幸い大事には至らず、今では松葉杖を使えば一人で歩き回れるまでに回復している。しかし、無残にも切断された左手だけは、どれだけ時が経とうとも元に戻ることはない。それでもアラン本人は、それほど気にした様子はなく、むしろあっけらかんとした態度で、傍で見守るヘイディを呆れさせていた。
あの日、アランが魔獣を討伐して以来、ディアナは毎日のように「身体強化魔法を見せてほしい」とせがんでいた。アランの傷は癒えておらず、全力を出すことはできない。それでも、愛する娘の健気なおねだりには応えてやりたい。父親としての優しさが、アランの心を突き動かしていた。
そしてこの日、アランはディアナを連れて、森へとやってきていた。木々の間から木漏れ日が差し込み、鳥のさえずりが響く、穏やかな場所だ。
「じゃ、行くぞ」
アランはそう言うと、右の拳に魔力を集中させ始めた。そして、おもむろに目の前にそびえる木に、右の拳をまっすぐに叩き込んだ。
――ドゴッ!
鈍く、しかし重々しい衝撃音が森に響き渡った。素手で殴ったとは思えないほどの衝撃に、ディアナは息を呑んだ。アランの拳が叩き付けられた部分の木の表皮が砕け散り、幹がわずかにえぐれていた。
「すっごーい!」
ディアナは目を輝かせ、興奮した声を上げた。その無垢な反応に、アランの顔にも自然と笑みがこぼれる。
「これが身体強化魔法なんだ! 簡単に言えば拳を魔力の膜で覆って強化するようなイメージだな。お父さんはそこまでできないけど、もっと魔力を多く込めれば、あのくらいの大木だってへし折ることもできるんだぞ!」
アランは得意げに、しかし分かりやすい言葉を選んで身体強化魔法について説明していく。
「あと武器なんかにも纏わせることで、威力や耐性も強化できるんだ」
アランはそう言うと、足元に落ちていた適当な枝を拾い上げた。何の変哲もない、ただの枯れ枝だ。アランは枝に魔力を纏わせると、先ほど拳で殴ったのと同じ木に、今度は横から叩きつけた。
――ガゴッ!
今度は、枯れ枝とは思えないほど重く、硬質な音が響いた。木が大きく揺れ、枝葉がざわめき、まるで雨のように葉がひらひらと舞い落ちてくる。叩きつけた場所を見ると、先ほど拳でめくれた表皮の傍に、筋状の新しい傷が増えていた。
「すごい! それ、あたしにもできるかな?」
ディアナは目をさらに輝かせ、今度は自分もやってみたいとばかりにアランを見上げた。その瞳には、憧れと期待が入り混じっていた。アランはディアナの頭を優しく撫でながら、その問いにどう答えるべきか、少し考え込んだ。
「身体強化魔法をか? もちろんできるだろうが、ディアナはお母さんみたいな魔法士になるんだろう?」
アランは、少しばかり驚いたような眼差しでディアナを見つめた。これまで娘は、妻であるヘイディのような、魔法士を目指しているとばかり思っていたからだ。毎日こつこつと魔力循環の練習に励むディアナの姿を知っていただけに、その変化に少し戸惑いも感じていた。
「うん、そうだよ。あたし、お母さんみたいな魔法士になりたい。でもお父さんみたいにできたら、あたしお父さんの代わりに魔獣討伐もできるんだよ」
ディアナはキラキラとした瞳でそう答えた。
「ははは、ディアナは欲張りだな」
「えへへ、あたしはもっと一杯強くなって、お父さんやお母さんみたいにみんなを助けられる人になりたいんだ」
「そうか、なら今まで以上にいっぱい練習しないとな」
アランはディアナの頭を優しく撫でた。
彼自身、身体強化魔法を使いこなすことで、数々の困難を乗り越えてきた。しかし、魔法士が身体強化魔法を使うというのは、彼が知る限りではこれまで聞いたことがなかった。
多くの魔法士は、遠距離から魔法を操るのが一般的だ。アラン自身も、これまでに多くの魔法士と出会ってきたが、誰も身体強化魔法を習得した者はいなかった。もし彼女がそれを習得できれば、確かに彼女の言うように、多くの人々を救える存在になるかもしれない。
「ディアナは毎日魔力循環の練習してるけど、これからは身体強化の練習もしないといけなくなるけど、できるのか?」
「ええ、わかんない」
心配そうに尋ねたアランに、ディアナは間髪を入れずに答えた。その素直すぎる返事に、アランは思わずうなだれてしまった。
「えっと、ディアナはお父さんみたいに戦ってみたいんだよな」
アランは言葉を選びながら、もう一度確認した。
「違うよ。お父さんみたいにできたら凄いけど、やっぱり魔獣に近づくのは怖いもん」
ディアナはきっぱりと否定した。
確かに魔獣に接近戦を挑むのは、熟練したアランでさえ恐怖と隣り合わせだ。わずか八歳の娘が、そんな危険な道を選ぶはずがない。自慢の娘とはいえ、お転婆にも程があるだろう。
「まあいいか。とりあえず教えるからやってみな」
アランは深く考えることなくそう言った。
万が一、魔獣や害意のある人物の接近を許した場合、身体強化が使えれば窮地を脱する手助けとなるかも知れない。護身術として、あるいは非常時の備えとして、知っておいて損はないだろう。
「ディアナは毎日魔力循環の練習してるから意外と簡単にできるかもな。まずはいつもと同じように魔力を循環させるんだ」
ディアナは真剣な眼差しで頷き、目を閉じて意識を集中させた。
「できたよ」
「よし。今度はその魔力をグルグルと循環させるんじゃなくて、右手に集めてみな」
アランの指示に、ディアナは再び集中する。やがて、彼女の右手に魔力が集まったのだろう。ディアナが目を開けた。
「こうかな? 次はどうするの?」
「そしたらその魔力を身体の外に出すんだけど、魔力は身体から離れすぎると消えちゃうから、そうだな……手袋をはめてるような感じで右手に沿って、できるだけ薄く広く纏わせるんだ」
アランは言葉を選びながら、丁寧に説明した。抽象的な概念を幼い子供に伝えるのは難しい。だが、ディアナは彼の言葉を真剣に受け止め、想像力を働かせているようだった。
「むうっ! できた!?」
ディアナの右手が、薄く透明な膜のように魔力を纏っているのが、アランにも感じられた。
「ほう、もうできたのか!? 初めてにしちゃ上出来だ!」
アランは内心驚いていた。言ったことをすぐに実行できるディアナの吸収力と才能に、彼は目を見張るばかりだった。
「えへへ、あっ!」
だが、アランに褒められて集中が切れたのか、せっかく纏わせた魔力が霧散してしまった。ディアナは悔しそうに口を尖らせる。
「もっかいやる!」
口惜しかったのか、ディアナはすぐに魔力を右手に集めていく。
「できたよっ!」
すぐに右手に魔力を纏わせたディアナは、今度は失敗しないように右手から目をそらさないようにしながら、アランにできたことを報告した。
「じゃあ、そのままそこの木を叩いてみようか?」
アランはディアナの傍に立っている、細い若木の幹を指差した。
細いと言っても、ディアナの太ももくらいの太さがある幹だ。ちょっとやそっと叩いたくらいでは傷をつけることすらできないだろう。
ディアナは「わかった」と言うと、魔力を消してしまわないように慎重に木に近付いていく。
「えいっ!」
そしてひとつ深呼吸すると、可愛らしい気合いの声とともに右手を突き出した。
――ドゴン!
イメージ的には、ペシッと木の表面を軽く叩いた程度だった。しかし、結果は想像を遥かに超えるものとなる。彼女が叩いた若木は、信じられないことに真っ二つに折れてしまったのだ。
「はぁっ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、傍で見ていたアランだった。
初めて使ったディアナの身体強化魔法は、アランの目にも魔力の制御は甘いと感じるほどだった。それにもかかわらず、まだ若木とはいえ、そこそこの太さのある幹を真っ二つにしてしまったのだ。
「できたよ!」
一方、当のディアナは、自分の成し遂げたことに単純に喜びを爆発させていた。普通はこれほどうまくいくことなどまずない。初めての場合、多くの者が途中で魔力を霧散させてしまうのが常だった。
「お父さん?」
沈黙してしまった父の様子に、ディアナは不安そうな顔で尋ねた。何か失敗してしまったのだろうかという心配が、その表情にはっきりと表れていた。
「……す、凄いぞディアナ!」
我に返ったアランは、弾けるような笑顔で娘を抱き上げ、頬ずりをした。
「お前は天才だ! 本当に凄いぞ!」
アランのあまりの喜び具合に、逆にディアナの方が戸惑ってしまうほどだった。
「あたし凄いの?」
アランは興奮冷めやらぬといった様子で、ディアナを抱きしめたまま続けた。
「ああ、凄いぞ。初めてでこれだけできた奴を、お父さんは知らない。普通はお父さんが見せたみたいに、幹に傷が付けば十分なレベルなんだ。ディアナがお母さんと毎日練習する、魔力循環のお陰かも知れないな?」
「お母さんのおかげ?」
「お母さんもだけど、ディアナが毎日毎日ずっ~と練習してたからな。その成果が出たんじゃないか?」
普通の魔法ではなかなか成果が出なかったディアナにとって、父から手放しで褒められたことは、彼女にとって非常に大きな出来事となった。
「練習を続ければ、足に魔力を集めてお父さんみたいに高く飛んだり、身体に纏わせれば鎧代わりにもなるんだぞ」
「へぇ、色々できるんだ」
「お母さんの魔法みたいに分かりやすくないから地味だけどな」
アランは少し照れたように付け加えたが、ディアナの心には既に身体強化魔法への憧れが芽生えていた。
「そんなことないよ、魔獣と戦ってるお父さん、かっこよかったもん。やっぱりあたし、身体強化もちゃんと練習するね」
「そうか、練習するか」
「うん!」
前向きなディアナの返事に、アランは嬉しそうに締まりのない顔で笑顔を見せるのだった。
「あなた、ディアナに何教えてるのよ! ディアナが怪我をしたらどうするつもりなの!?」
その夜のことだ。夕食時、今日の出来事を嬉々として語るディアナとアランの姿があった。
二人は、ディアナが初めての身体強化魔法を使いこなしたことを、ヘイディに伝えるのを楽しみにしていた。しかし、一緒に喜んでくれるとばかり思っていたヘイディから、思いがけず盛大な雷が落とされたのである。
「大丈夫だよ? あたし凄かったんだから」
ディアナは、ヘイディの剣幕に驚きつつも、自信満々に胸を張った。
「そ、そうだぞ。ディアナは本当に……」
「あなたはちょっと黙ってて!」
アランもディアナを庇うように言葉を続けようとするが、ヘイディの鋭い声に、アランは思わず口を噤んだ。ヘイディの視線は、アランからディアナへと向けられた。
「本当に大丈夫なの? 痛くしてない?」
ヘイディは心配そうな顔でディアナの右手を取り、怪我の有無を丁寧に確認する。しかし、ディアナは不思議そうな顔を浮かべて首を傾げた。
「本当に大丈夫だよ。お母さん、何で怒ってるの?」
ディアナにとっては、ただアランと魔法の練習をしただけのことであり、なぜヘイディがこれほどまでに怒っているのか理解できなかったのだ。
「だって初めて使う身体強化魔法で、いきなりで木を殴らせたのよ」
「でもあたし、平気だったよ?」
ディアナは少し不満そうな顔で反論した。
「そういうことを言ってるんじゃないの! もし身体強化が不十分だったら、怪我をしていたかも知れないのよ。それにディアナが簡単にやっているのを見て、ペトルが真似したらどうするの? ペトルは魔力循環の練習だってしてないのよ」
ヘイディの言葉は、ディアナの頭の中で反響した。確かに、彼女はアランとの訓練に夢中になるあまり、ペトルが真似をすることまでは想像もしていなかった。そう諭されればディアナでも、ヘイディが何を危惧しているのかが痛いほどわかった。
「ごめんなさい」
ディアナの口から紡がれた謝罪の言葉は、幼いながらも心からの後悔を含んでいた。ヘイディはディアナの小さな体をそっと抱きしめ、その頭を優しく撫でる。
「ごめんね、お母さんも言い過ぎたわ。お母さんが使えない身体強化を、ディアナが使ったって聞いてびっくりしちゃったの。だって身体強化魔法って、普通魔法学校なんかでは習わないのよ」
「そうなのか!?」
彼女の言葉に反応したのは、意外にもアランだった。彼は目を丸くし、驚きを隠せない様子でヘイディに問いかけた。
「そうよ、領の魔法学校では少なくとも教えないわ。王都の上級魔法学校でも、教えてなかったはずよ」
ヘイディはきっぱりと言い放つ。魔法士としての常識からすれば、身体強化魔法は非常に特殊な部類に入る。
「そうか、兵学校では教えてるから、てっきり魔法学校でも教えてると思ってたよ」
アランは納得したように頷く。彼が通っていた兵学校では、基本的な技術として身体強化魔法を教えられていた。だから、魔法士も当然使えるものだと思い込んでいたのだ。
「そんな訳ないでしょ。魔法士が身体強化魔法を使ってるのを見た事ある?」
ヘイディは呆れたように首を振る。
「いや、確かに見たことはないけど、使えないんじゃなくて使わないだけなのかと……」
アランは言葉を濁す。確かに、魔法士が身体強化魔法を使う場面は見たことがない。しかし、それは必要がないから使わないだけではないのかと、漠然と思っていた。
「魔法士が魔法を使いながら、身体強化魔法なんてできると思う?」
「練習すればできるようになるんじゃないのか!?」
「そもそも魔法と身体強化魔法って、同じ魔法って言葉が付いてるけど全然違うものよ。それを両方使える人なんて、それこそ王宮魔法師でもいなかったはずだわ。わたしは身体強化魔法は使えないし、あなただって生活魔法以外に魔法なんて使えないでしょ」
「そういやそうなのか?」
アランは自分のことながら、どこか他人事のように頷く。彼は戦うことには長けていたが、魔法についてはからっきしだった。
「よくそんなんで領都の衛士になれたわね?」
「ざ、座学は苦手だったんだ。その代わり実技は満点だったぞ」
そう言ってアランは胸を張ったが、ヘイディは呆れたように軽く溜息を吐いた。彼の衛士としての実力は認めるが、魔法への無関心ぶりにはいつも驚かされる。
「とにかく魔法を使いながら身体強化するなんてことは、普通の魔法士には難しいの」
「あたし、変なの?」
これまでの会話の流れから自分が普通ではないと感じたのだろう。ディアナが不安そうにヘイディを見上げていた。
「ごめんね。そうじゃないの」
優しく頭を撫でながら諭すように続ける。ヘイディはディアナの顔を覗き込み、安心させるように微笑んだ。
「あなたが身体強化魔法を使えるなんて思わなかったから、ちょっとびっくりしたの」
「あたし、変じゃない?」
ディアナはまだ不安そうに問いかける。
「もちろん変なんかじゃないわ。雨を降らせる魔法が使えて身体強化まで使えるなんて凄いことよ。お母さんは雨を降らせることしかできないもの」
「ホント!?」
ディアナの瞳が輝く。自分の能力が褒められたことに、心底から喜びを感じているようだった。
「本当よ。もしかしたらこのまま頑張れば、将来ディアナは王宮魔法師になれるかも知れないわね」
「おうきゅう……魔法士?」
ディアナは聞き慣れない言葉を口の中で繰り返す。
「王宮魔法師よ。王宮魔法師はね、王様にお仕えする偉い魔法士のことなの。日照りや災害が起こったら、皆を助けるために働くのよ」
ヘイディは王宮魔法師は、人々の役に立つ素晴らしい職業だと分かりやすく説明する。
「あたし偉い魔法士になれる?」
彼女の心に、王宮魔法師になるという目標が芽生え始めていた。
「ああ、頑張ればきっとなれるさ」
「そうね、あなたはディアナおばあちゃんみたいに、魔法士として名を残しそうな気がするわ」
ディアナの肩に手を置いたアランが優しく語りかけ、ヘイディもどこか確信したようにディアナを見つめた。
「ええぇ、おねえちゃんばっかりずるい! ねぇボクは? ボクもえらいまほうしになれる?」
すっかり蚊帳の外に置かれていたペトルが、拗ねたように頬を膨らませる。
「もちろんペトルも頑張ればなれるわ」
「えへへ」
ヘイディが優しい笑顔でそう言ってペトルの頭をそっと撫でると、ペトルは嬉しそうにはにかんだ。
「ペトルはお父さんみたいに、衛士になるんじゃなかったのか!?」
アランが信じられないといった様子で声を上げた。
「ボク、おねぇちゃんといっしょにえらいまほうしになる」
ペトルはきっぱりと言い放った。衛士になるというアランの期待とは裏腹に、ペトルの中では姉への憧れがより大きくなっていたのだ。
「そんなぁ……」
アランはショックのあまり、情けない声を漏らした。ガックリと項垂れ、彼の背中からは絶望感が漂う。幼い頃から共に衛士になる夢を語り合っていただけに、ペトルの突然の心変わりは彼にとって大きな打撃だったようだ。
アランの沈んだ空気とは対照的に、リビングは温かい幸福感に包まれていた。
アランの親バカ発動!
2025/9/27 加筆・修正しました。