ディアナ 対 魔獣(オオカミ)(3)
魔獣は狂ったように風の盾に攻撃を続けていた。
――キン、カン、キィィン
その度に金属同士をぶつけたような、硬質な音が辺りに響いた。
一見黄緑色の薄い膜は頼りなさそうに見えるが、魔獣が幾度となく攻撃を加えても、障壁が破れることはなかった。
「くっ!」
だが、魔獣が障壁に攻撃をおこなうたびに、ブルーノの表情が苦痛に歪む。
障壁で攻撃を受けるたびに、それを維持するための魔力がどんどんとブルーノから吸い出されていくからだ。
風の盾に限らず障壁魔法全般は、長時間維持するようにはできていない。
最初に張った障壁に見合うような攻撃なら、難なく防ぐことができるが、それ以上の攻撃を受けると障壁を維持するために相応の魔力が消費されてしまうからだ。
そのため本来の障壁魔法の使い方としては、相手の初手の攻撃を防ぐ場合や、胸や頭などピンポイントで守るため緊急避難的に張るのが普通だった。
ブルーノのように自分とモニカを守るためとはいえ、範囲を広げた使いかたは魔力の消費が激しすぎるのだ。
「きゃあ!」
魔獣の爪が彼女の顔のすぐ横で弾け、モニカが思わず悲鳴を上げる。
魔獣の激しい攻撃に晒されるたび、半球状の障壁の範囲は徐々に狭まってきていた。
最初は二人が並んで立てるほどの大きさだったものが、今ではモニカが腰をかがめ、ブルーノに寄り添わなければ維持できないほどになっていた。
そして、ついに魔法が切れた。
ブルーノがふらつき、モニカが慌てて彼の身体を支える。
障壁が消えた今、無防備で二人は魔獣の前に晒されていた。
「うぐっ!!」
「ブルーノ!?」
再び杖を構え、障壁を張り直そうとしたブルーノだったがよろめいてしまう。
魔獣が前足を振り上げる。
――ガッ!
だが、振り下ろされる寸前、魔獣の目の前に再び松葉杖が突き刺さる。
次いで、足もとに火球が次々に着弾し、魔獣は忌々しげに飛び退いた。
その直後、高速移動してきたディアナが二人の目の前に立った。
「ゴメン、待たせた」
「すまん、助かった」
「大丈夫? ディアナちゃん」
安堵したブルーノと、ディアナを気遣うモニカの声が重なった。
「ん、問題ない」
ディアナは油断なく杖を構えながら答える。
左胸はズキズキと痛んだままだったが、そんなことを言ってる場合ではない。
彼女はこれが終わるまで、痛みを無視することに決めていた。
しかし、このままではジリ貧になることも確かだ。
「だけど、アレはひとりじゃ手に余る。ブルーノとモニカにも手伝って欲しい」
ディアナは顔を魔獣に向けたまま、ブルーノに初めて協力を頼んだ。
「わかった、何をすればいい?」
ディアナは休憩中に考えてきた作戦を二人に告げた。
それを聞いたブルーノは、思わず目を見開く。
「できるのか!?」
ブルーノは先ほどの障壁魔法で魔力は尽きかけていた。
残りの魔力では威力の高い魔法は放つことはできない。
ディアナの作戦がうまくいったとしても、魔獣のあの防御を突破できるとは思えなかった。
「いける。あそこはオオカミの一番弱いところ」
オオカミと魔獣化したオオカミでは、まったく違うように思えるが、ディアナが言うには基本的には特徴は同じらしい。
だからあれほど巨大になって凶悪になっても、オオカミ時代の弱点は変わらないという。
ブルーノやモニカには、俄には信じられない話だった。
だが、それを告げたディアナの翡翠色の目は、少しも揺らいではいない。
ブルーノにとっては、彼女はツンケンしていていけ好かない奴だが、逆にこんなときほど頼りになることも確かだ。
「あたしがチャンスを作る。ブルーノはとっときの魔法を奴に叩き込んで」
「わかった、もうそれしかなさそうだな。だが、……できるのか?」
この作戦はディアナに掛かっていた。
彼女がブルーノのためにチャンスを作れなければ、そもそも成り立たない作戦だ。
ブルーノの魔力はほとんど残っていないが、ディアナの魔力もそれほど残っているとは思えない。
何をする気なのかはわからないが、魔鳥のときに使ったような大規模な魔法を、今の彼女が使えるとは思えなかったからだ。
そう言うと初めてディアナの表情が揺らぐ。
「やってみる……けど、……ダメだったらゴメン」
彼女は不安そうにそう言うと目を伏せた。
だが、できないのにできると豪語する奴よりは、信用できるような気がした。
「まあいい。散々お前に助けられてきたんだ。ダメなら仕方ないさ」
「うん、わたしはディアナちゃんを信じてるよ」
二人は意外にも穏やかな表情で、命運をディアナに預けた。
ディアナは意外な言葉に軽く目を見開くと、
「ありがとう。頑張ってみる」
素直にそう言って立ち上がり、魔獣を睨む。
ブルーノの見立て通り、ディアナの残りの魔力は少なかった。
今の魔力量では、強力な魔法である下降噴流を使えば、五秒と保たないだろう。
ディアナは右手に松葉杖を逆さに持ち、左手に杖を掴むと飛び出していった。
ブルーノは集中力を高め、残った魔力を杖の先に掻き集めていく。
普段の彼なら取るに足らないような魔力だが、今となってはディアナの言う「とっとき」の魔力だ。
いつもより集中し、いつも以上に丁寧に魔力を練り上げていく。
――二人とも頑張って
モニカは同じ魔法士として、この場で何もできずにただ見守ることしかできないもどかしさに、歯噛みしながら祈っていた。
ディアナは、真っ直ぐに魔獣へと突進していく。
これまで一貫して受けに徹していたディアナが、突っ込んでくるとは思わなかったのだろう。
不意を突かれたように、魔獣は一瞬動きを止めた。
そこに、松葉杖を振りかざしたディアナが殴りかかった。
――グァ!?
明らかに戸惑った様子を見せる魔獣。
だが身体強化をしてないため、ディアナの動きは遅い。
攻撃は難なく避けられてしまった。
だが、彼女はそこで身体強化を発動して速度を上げると、迷うことなく追撃に移った。
いきなり速度が上がったディアナに虚を突かれたものの、その速度は先ほど体感している。
魔獣は煩わしそうに右前足を振り上げて踏みつぶそうとした。
それを素早く躱したディアナは、一抱えもある大木のような魔獣の前足を、魔力で強度を増した松葉杖で殴打した。
――ガンッ!
重量物を殴ったような鈍い音と共に、魔獣が短く悲鳴を上げた。
松葉杖の一部が砕けるが、ディアナは構わずそのまま二発、三発と追撃する。
魔獣は堪らず、大きく跳んで距離を取った。
「ふう」
ディアナは軽く息を吐く。
松葉杖を見ると、強化していたとはいえすでにボロボロだ。
彼女は松葉杖を迷うことなく投げ捨てると、左手の杖を右手に持ち替えた。
右前足を引きずる魔獣を見て、彼女はニヤリと口角を上げた。
そして、左手を手のひらを上にして胸の前まで上げると、手招きをして挑発した。
――ガァァァッ!!
その意味するところが分かったのだろう。
魔獣は怒りを露わにし、ディアナに向かって突進していく。
退避したときに足を引きずるような仕草を見せていた魔獣だったが、そもそも大木を小枝でぶっ叩いたようなものだ。もうダメージは残っていないようだった。
攻守が変わり、今度はディアナが避ける番となる。
魔獣の素早い動きに、ディアナは時折杖で防ぎつつ躱していく。
大木のような足が身体を掠めるたびに、ゴオッという風を切る音が耳朶を打ち身を竦ませる。
そのせいだろうか。
ディアナは足を滑らせ、仰向けに倒れてしまった。
慌てて起き上がろうとするが、魔獣はこのチャンスを逃すまいと、すぐに飛びかかった。
――かかった!
転倒したように見えたのは、ディアナの仕掛けた罠だった。
ディアナは仰向けになったまま杖を構える。
魔獣はその瞬間に失敗を悟ったが、空中ではもはや何もできない。
ディアナは目の前に迫ってくる魔獣に向けて、準備していた魔法のトリガーを放った。
「旋風!」
倒れているディアナを中心に、激しい竜巻が沸き起こる。
魔獣を飲み込むほどの大きさではないが、それでも巨体を持ち上げるには十分だった。
――グワゥ!
魔獣は空中で必死にもがくが、それが逆にバランスを崩し大きく体勢を崩してしまう。
そこでディアナが準備していた、もうひとつの魔法を発動させる。
「下降噴流!」
上昇する気流に抗っていた魔獣は、今度は吹き下ろしの下降気流によって地面へと背中から叩きつけられた。
だが、魔力消費の激しい天候魔法の二連発に、ディアナの魔力はあっという間に底をつき、せっかくの魔法がすぐに霧散してしまう。
魔獣は魔法が消えるとすぐに起き上がろうとしていた。
「させない」
魔力の枯渇によって視界が暗転していく中、ディアナは最後の力を振り絞ると、なんと杖を投擲した。
――カハッ!
杖は魔獣の喉に直撃し、わずか一瞬だが動きを止めることに成功する。だがその鎧のような体毛に阻まれて突き刺さることはなく、杖は真っ二つに折れてしまった。
ディアナにとっては、母の形見として大事にしていた杖だ。
一瞬母の顔が脳裏に浮かんだが、笑って許してくれているような笑顔を浮かべてくれているような気がした。
「ブルーノ、今!」
「任せろ。氷の投槍!」
ブルーノが今使える中で、最大威力の魔法を放った。
それは中級の攻撃魔法にしか過ぎなかったが、それはオオカミの弱点である腹部に見事に着弾した。
――ウグァァァァァァァ……
魔法はブルーノも驚くほど、あっさりと魔獣の皮膚を貫き、背中へと突き抜けていた。
苦悶の叫びを上げた魔獣だったが、執念だろうか、それでもヨロヨロと立ち上がった。
その目の前には、力尽きて横たわるディアナの姿があった。
ふらつく足取りでゆっくりと彼女に近づいていく。
「ディアナ! つっ……」
ブルーノは慌てて魔法を放とうとするが、彼もすでに限界だ。
魔力枯渇により突き刺すような痛みが走り、頭を抱えてうずくまった。
「く、くそったれ」
痛む頭に構わず魔法を使おうとするが、魔力が杖の先に集まってこない。
それでも何とかしようと藻掻けば、今度は視界が急激に暗転していく。
「ディアナ、起きろ!」
ブルーノにできたのは、頭を押さえてうずくまり、声を枯らしながら叫び続けることだけだった。
腹から大量の出血をしながら、瀕死の魔獣はゆっくりとディアナの傍までやってきていた。
どうして動けるのか不思議なほどの状態だ。
もはや足から力が抜け、普通に立っていることさえできずにプルプルと震えている。
それでも魔獣はまだ、そこに立っていた。
口からは、真っ赤な血が唾液と混ざり合いながら滴り落ちている。
その血が、魔獣に足を向けて仰向けに横たわるディアナの足もとを、赤く染めていた。
「……」
ディアナは焦点が定まらない目で、魔獣を見るともなく見ていた。
彼女は、すでに指一本動かす力も残っておらず、身じろぎすらできない。
魔獣はディアナを見下ろしていた。
もはや見えているかどうかすら怪しい暗く淀んだ目で、ディアナを睨んでいた。
腹に空いた穴から臓物が零れ落ちそうになり、蹈鞴を踏んでかろうじて踏ん張っていた。
命運が尽きかけている魔獣は、ディアナを道連れにしようというのか、荒い呼吸を繰り返しながら、震える前足をディアナの上に翳した。
後は足を下ろすだけ。
そうすればその圧倒的な質量が、ディアナを踏み潰すことだろう。
「残念、あなたの負け」
しかし、そんな状況でもディアナは、小さな声で呟くとニヤリと笑った。
同時にすぐ横から声が聞こえた。
「これで終わりよ」
いつの間に来ていたのか、モニカが魔獣の横に立っていた。
手にはブルーノの杖が握られていた。
顔色はまだ悪く、杖なしではまだ立っていられないが、それでも決然とした表情で杖を突き出し魔獣へと向けた。
そして、モニカは魔法を放った。
「水の噴流!」
それは初級の攻撃魔法でしかない。
しかも、殺傷力は殆どないため、火災の際に消火に使うなど、どちらといえば生活魔法に近い魔法だ。
しかしその分魔力消費は少なく、今のモニカにできる精一杯の攻撃魔法だった。
「ぐっ……」
それでも魔力枯渇による激しい頭痛がモニカを襲い、思わず頭を抱えてうずくまる。
――アガァァ
しかし、魔獣はかろうじて意識を保っている状態だ。
しかも前足の片方を上げている態勢でいるところに、モニカの一撃は完全に不意打ちとなった。
顔面に大量の水を浴びた魔獣は、咄嗟に身体をひねった。
その瞬間、バランスを崩し体勢を大きく崩す。
足を広げ、踏ん張ろうと力を入れるが、開いた傷口からついに臓物がずるりと零れ落ちてしまった。
――ヴオォォ……
苦しげにひと声吼えた魔獣が、落ち葉を巻き上げながら崩れ落ちた。
はらはらと舞う落ち葉が治まったとき、魔獣は横倒しになっていた。
まだ息があったがその呼吸は浅く、立ち上がろうとする気力すらないようだった。
やがて、魔獣はディアナ達の目の前で静かに息を引き取った。
「ディアナちゃん。大丈夫?」
ぼんやりとした視界の中で、モニカが必死な表情で何かを叫んでいたが、ディアナには彼女が何を言ってるか、もうわからなかった。
ディアナは魔獣の最期を見届けると、安心したように意識を手放すのだった。
決着です