ディアナ 対 魔獣(オオカミ)(1)
遭難から四日目を迎えていた。
ブルーノの傷は随分とよくなっていて、少しぐらいなら曲げ伸ばしができるようになっていた。
昨日までブルーノは二本の松葉杖を使っていたが、今日からは一本のみとなり、今は残りの一本をモニカが使うことになった。
そのため、朝食後にモニカに合わせてディアナが松葉杖を調節し、ブルーノの杖は三日ぶりに本人の手に戻った。
ブルーノに比べるとモニカの倦怠感は相変わらずで、こうして座って会話する分には平気そうに見えるが、いざ歩き始めるとすぐに動けなくなっていた。
「森はあとどれくらい続くのかしら?」
休憩中、モニカが南の空を見上げて呟いた。
しかし、期待した返事は帰ってこない。ふと彼女が隣を見ると、ディアナはうつらうつらと居眠りをしていた。笑みを浮かべたモニカが、ズレて落ちかけているディアナの毛布を直す。
この三日間、ディアナは満足に動くことができない二人に代わって、斥候や採取などを進んでおこなっていた。
彼女は何も言わなかったが、相当に疲労が溜まっているのだろう。無尽蔵に見える彼女の魔力も、回復量より消費量が上回った状態が続いていては、どれほど保つかはわからない。
疲れているのはディアナだけではない。
モニカも昨日までと比べ、明らかに顔色が悪くなっていた。
魔力枯渇の症状の中、無理を重ねてきたのもあるが、疲れも相当溜まっていた。
それはブルーノも似たようなものだ。
ブルーノは慣れない松葉杖のせいで、木の根に取られて転ぶことも増えている。
何より自由に動けない身体に苛立っているのか、舌打ちすることが増え、昨日に比べると口数が極端に減っていた。このままだと遅かれ早かれ、三人とも限界を迎えてしまうのは目に見えていた。
『もう少し歩ければいいんだけど』
身体強化を使うことができれば、もう少し動けるかも知れない。
モニカは試しに身体に魔力を纏わせようとする。
「痛っ!」
体内の魔力は回復してきているものの、ほんのわずかにでも魔法を使おうとすれば、その途端に針で滅多刺しにされたかのような鋭い痛みが頭に走る。
涙目になったモニカは、口を押さえながら周りを見渡した。
ディアナは相変わらず船を漕いでいて、ブルーノはそっぽを向いたままだった。昨日、こうやって試したときには、二人に激しく怒られていたのだ。モニカは誰にも気付かれていないことに、ホッと胸をなで下ろした。
「まだダメね……」
「ふう」と長い溜息を吐く。
自分がいなければ、もしかしたら森を抜けていたかも知れない。そう考えると非常に申し訳ないと思うが、二人は決してモニカを責めたり見捨てようとはせず、「歩かせてしまって申し訳ない」と逆に謝られることもあった。
『二人のためにも、魔力枯渇なんかに負けてられないわね』
モニカはこっそりと気合いを入れるのだった。
それから数時間後、昼食を摂るために少し長めの休憩を取っていた。
森の様子はこれまでと明らかに違ってきていた。
木々の密度が薄くなり、日の光が足もとまで届くようになってきていた。明らかに人の痕跡も見られるようになっていて、森の終わりが近いことを予感させるものだった。順調に行けば夕方までには森を抜けることができそうだった。
「モニカ大丈夫?」
「ありがとう、大丈夫よ」
ディアナが、モニカの顔色を覗き込みながら、体調を気遣う。
お互いに顔色はひどいが、出口が近づいているためか表情は明るかった。
「みんなゴールに辿り着いているかしら?」
「クレアとアルマが一緒なら大丈夫」
二人がいれば魔獣にさえ襲われなければ、多少のトラブルがあったとしても無事に脱出を果たしているだろう。それだけディアナは、クラリッサとアルマの能力を信頼していた。
「そうね、きっと大丈夫よね。あと少し、わたしも皆に負けてられないわね」
そう言ってモニカが拳を握る。
三人とも体力はすでに限界を超え、気力で何とか動いているような状態だ。
今日森を抜けることができなければ、力尽きて動けなくなるのは確実だろう。
――ヴオォォォォォォォォン!
「っ!?」
また居眠りをしていたディアナを、起こそうかと彼女が考えていたときだ。
森の奥から、魔獣の遠吠えが聞こえてきた。モニカは身を固くしながら、辺りを見渡す。
姿は見えないが、その声はここからそれほど離れていないように感じた。
すぐに目を覚ましたディアナが杖を構え、ブルーノも同じように杖を手に辺りを警戒していた。
「どこだ!?」
しばらく警戒していたが、森の中は何の変化もないように見える。
だが、ざわっとした嫌な感じは消えることがなく、警戒したままそそくさと荷物をまとめ始めた。
装備を調えると、三人は無言のままその場を後にしようとしたそのとき。
――バキバキッ!
枝を強引にかき分けるように、彼らの頭上を巨大な影が飛び越えていった。
「きゃあ!?」
その直後に、頭上から枝や葉などが降ってきて、モニカが悲鳴を上げた。
太い木々をなぎ倒しながら着地した影は、身を震わせて身体に付着した枝や葉を払い落とすと、ディアナら三人をジロリと睨んだ。
今まで行方がまったくわからなかったオオカミの魔獣が、彼らの行く手に立ち塞がった。
「ちっ、ここまで来て……、発光信号!」
悪態を吐きながらブルーノが発光信号を撃ち上げた。
信号は赤い尾を引きながら、木々の間を抜けていく。
発見してくれるかどうかは賭けになるが、森の出口が近い今なら運がよければ救助隊の目に留まるだろう。ディアナも念のために、同じように発光信号を撃ち上げると、満足に動くことができない二人を庇うように立ちはだかった。
「救援が来るまであたしが何とかする! ブルーノはモニカを守って!」
「わかった!」
ブルーノは守られる対象となったことに悔しそうにしながらも、素直にモニカの前に立った。
明るい中でこの魔獣を見るのは初めてだったが、想像していた以上の体躯に、彼は内心恐怖していた。
オオカミと言えば大きい個体でも大型犬とそれほど変わらないはず。しかし、目の前の魔獣は荷馬車を引く大型の馬よりもはるかに大きく、文字通り見上げるほどの大きさとなっていた。
口に見える牙は、優にディアナの背丈を超える長さがあり、足の爪も一本一本が剣のように鋭く尖っていて、掠めただけで致命傷となりそうだった。
『まるで山のよう』
ディアナは魔獣の巨躯を見上げ、そんなことを考えていた。
魔獣が動くたび、地面が揺れるような錯覚に襲われる。一歩近づくたび、その体から発せられる威圧感に押しつぶされそうになる。恐怖で呼吸は浅くなり、口がカラカラに渇いていた。
ディアナの背後でも、ブルーノが構える杖が小刻みに震えていた。モニカは恐怖に目を見開いたまま、瞬きすらできないようだ。
今この場でまともに動けるのはディアナだけだ。
彼女は震える両足でしっかりと地面を踏みしめ、杖を握る両手に力を込める。恐怖に萎えそうになる心を奮い立たせ、覚悟を決めた。
先に動いたのはディアナだった。
杖の先から、魔獣へ向けて火球を放つ。牽制の一撃は、魔獣の注意を惹きつけるためのもの。
火球を放つと同時に、ディアナは大きく弧を描いて魔獣を回り込むように走った。
――ガルァ
魔獣は煩わしそうに火球を振り払うと、ディアナの動きに合わせて身体を正面に向けて回転させていた。
どうやらうまく、二人から注意を逸らすことができたようだ。だがホッとしたのも束の間、次の瞬間には赤黒い体毛に覆われた巨体が、まるで嵐のようにディアナの目の前に迫っていた。
「ちっ!?」
風を切るような魔獣の鋭い牙が頬をかすめ、唸り声が鼓膜を震わせる。
同時に鼻を突く腐臭混じりの生臭い息づかいに、ディアナは思わず顔をしかめた。
ディアナは身を捩るように迫り来る牙を回避する。そして、回避行動を取りながら同時に火球を放つ。
至近距離から放たれた火球は、確かに魔獣の額に命中した。だがディアナの魔法では、赤黒い体毛を焦がすことしかできない。
まるで嘲笑うかのように血走った魔獣の瞳が、ディアナを見据えていた。
巨体にかかわらず魔獣の動きは思った以上に機敏だ。
魔力をできるだけ節約して時間を稼ごうという、ディアナの目論見は早くも破綻していた。
このままでは、じり貧となるのも時間の問題だ。
身体強化魔法に魔力を割り振れば、今のディアナでは相対的に攻撃魔法の威力を落とさざるを得ない。
ただでさえ高い耐久性を持っている魔獣に、それでは最早ダメージを与えることすらできなくなるだろう。
――詰んだ
ディアナの脳裏に、絶望の二文字が刻まれていた。
しかし、彼女は慌てて頭を振ってその言葉を振り払う。
まだ諦めるわけにはいかない。
ディアナが諦めれば、ブルーノとモニカの二人を危険に晒すと言うことだ。
せめて二人だけは、無事に脱出させなければならない。
ディアナは魔獣から距離を取ると大きく息を吐く。
そして、気合いを入れて杖を構え直すのだった。
――焦るな、まだできる
ディアナは自分に言い聞かせるように、何度も心の中でそう呟いていた。




