魔獣討伐(2)
ヘイディが広場に出ると、ちょうどアランとアハトの二人が、息を切らして広場に駆け込んでくるところだった。彼女を見た彼らの顔は、魔獣の接近による緊張と、ヘイディがここにいることへの驚きが入り混じっていた。
「ヘイディ!? なぜここに? 子供達はどうした!?」
彼女が広場にいることに気づいた二人は、ほとんど同時に声を上げた。
無理もない。魔獣討伐の経験が豊富な二人に対し、ヘイディにはそのような経験が皆無だったからだ。彼女は生まれつき誰よりも魔法への適性が高かったが、攻撃魔法への適性が全くなく、いくら努力しても使うことができなかった。しかし、その桁外れの魔力量と、珍しい天候魔法への適性を見出されたヘイディは、将来を嘱望される魔法師候補として、学生時代を王都で過ごした経験があった。だが、最後まで攻撃魔法の才能が開花することはなく、やがて魔力量も頭打ちとなった彼女は、魔法師になる事を諦めてボンノ村に帰ってきたのだった。
「わたしも戦うわ! 攻撃できなくても魔法で補助くらいはできるはずよ! それに、ここで食い止めないと、子供達が危ないじゃない!」
ヘイディは、自分を案じる二人の気持ちを理解しつつも、強い意志をもって反論した。子供達の安全を最優先に考えれば、ここで退く選択肢など彼女にはなかった。
「しかし、くっ!?」
アランが反論するよりも早く、魔獣が広場へと侵入してきた。こうなっては、もはや待避するのも難しい。
「わかった、ただし魔獣の動きは速い、無理だと思ったらすぐに逃げろよ」
アランは、ヘイディを魔獣から庇うように素早く位置取りをすると、肩越しにヘイディに声をかけた。
「わかったわ」
「来るぞ! 防御魔法を準備しておけ」
ヘイディが防御魔法の詠唱を終えるのと、魔獣が動き出すのは、ほぼ同時だった。
「早っ!?」
まだ距離があると思っていた次の瞬間、魔獣は彼女のすぐ目の前に迫っていた。
――ガキン!
金属同士がぶつかるような、硬質な音が広場に響き渡る。
ギリギリで間に合ったヘイディの防御魔法が、魔獣の歪に枝分かれした角の一撃を防いだ。しかし、防御魔法の淡い光の向こうには、巨大な魔獣の禍々しい姿がはっきりと見えていた。魔獣の凶悪な血走った目が彼女を睨みつけ、噎せ返るような生臭い息が顔にかかり、ヘイディは思わず顔を背けた。そのおぞましさに、彼女の覚悟は一瞬にして削り取られ、ただ何もできずに呆然と魔獣を見上げることしかできなかった。
「させるかよっ!」
その時、魔獣の横合いからアハトが風魔法を放ち、魔獣の注意をそらした。その隙を逃さず、アランが魔獣に猛然と突進し、組み合うようにしてヘイディから魔獣を引き離していった。
「ヘイディ大丈夫か!?」
アハトが、魔獣を警戒しつつもヘイディの無事を確かめるように声をかける。
「兄さん……」
「無理をするな。魔獣は俺たちが何とかする。お前は子供達を守ってろ!」
アハトはヘイディの前に立ちはだかり、その視線は常に魔獣を捉えながらも、彼女にすぐに避難するよう強く告げた。
「ごめん、ちょっとびっくりしただけ。大丈夫だからもう少しだけやらせて」
ヘイディは、先ほどの魔獣の突進に一瞬たじろいだ自分を恥じながらも、アハトに懇願した。意気込んで出てきたのだ。何もできずに終わるわけにはいかない。高鳴る鼓動を抑え込み、魔力を全身に巡らせながら、ヘイディは強く、しかし震える声で訴えた。
「……わかった。だが、あの魔獣は、あの巨体だが元はシカだ。馬や牛と同じだと考えていたら痛い目に遭うぞ!」
アハトはヘイディの覚悟を感じ取り、渋々ながらも了承した。
眼前の魔獣は、たしかに馬や牛に匹敵するほどの巨体を誇るが、その動きは紛れもなくシカのそれだ。俊敏で予測不能な動きに、油断は一瞬にして命取りになる。アハトは巨体に惑わされないようにと注意点を伝える。
「ありがとう兄さん」
「礼はアレを倒してからだ。行くぞ!」
「ええ!」
二人は同時に動き出した。アランの援護に向かいつつ、魔法を放つ。
その間、家の窓に齧り付くようにして外の様子を窺っていたディアナとペトルは、常人離れした父の動きに、目を奪われたように釘付けとなっていた。
「お父さんすごい!」
幼いディアナの瞳は、輝きに満ちていた。
普段、農夫として穏やかに過ごしている父からは想像もつかない、力強く、そして素早い動き。それは、アランが若い頃、街の衛士として自身の身一つで、魔獣や盗賊と命のやり取りをしてきた証だった。
アランは魔法こそ生活魔法程度しか使えなかったが、自身の身体能力を強化する身体強化魔法を使うことができた。
ヘイディと結婚してからは、基本的には農夫として一家を養っていたアランだが、今回のような非常時には、かつての経験を活かして村を守っていたのだった。
ディアナは、今回初めて父の活躍を目にし、普段ののんびりとした父の姿とのギャップに驚きを隠せない。そして、あんな凶悪な魔獣を相手に、たった一人で渡り合っている父を、改めて誇りに思うのだった。
その魔獣と対峙しているアランは、ただただ必死だった。
その巨体から繰り出される爪や牙の一撃は、かすっただけでも致命傷になりかねない。アランは魔力で強化した身体能力を駆使し、ヘイディとアハトの魔法の援護を受けながら、何とか魔獣の攻撃を受け流していた。しかし、魔獣の手数に圧倒され、彼の身体には徐々に傷が増えていく。
魔力を込めた槍の一撃は、魔獣の固い体表に阻まれ、浅い傷しか与えられない。アハトの魔法も威力が足りず、足止め程度にしかなっていない。
このままでは、ジリ貧になることは目に見えていた。魔獣を追い払うことはできるだろうが、それでは根本的な解決にはならない。討伐が終わるまで、村人は安心して農作業を行うことができないだろう。何としても、この場で魔獣を仕留める必要があった。
そのためには、ヘイディに危険な役割を担ってもらうしかない。しかし、彼女は魔獣と対峙すること自体が今回が初めての経験だ。その彼女に、一時的にでも一人で魔獣を相手をさせることに、アランは強い不安を感じていた。
「兄さん。アレに有効な魔法はないの?」
アランが葛藤を覚えていたころ、ヘイディもまた、アランとアハトの攻撃が魔獣に決定打を与えられないことに焦りを覚えていた。彼女の目には、アランが魔獣の攻撃を受けて傷を負っていく姿が痛々しく映っていた。
「もちろんとっておきがある!」
アハトは冷静に応じたが、その表情には焦りの色が見て取れた。
「ならさっさと仕留めてちょうだい。このままじゃアランがやられちゃう」
「無茶を言うな。今のままじゃアレの動きが速すぎて当たらんのだ。せめて五秒、いや数秒でいい。動きを止めることができればいいんだが……」
アハトの「とっておき」の魔法は、絶大な威力を誇るが、発動までに時間を要する。さらに、彼には一発しか撃つことができない切り札だった。もし避けられてしまえば、その後の手立てはない。だからこそ確実に当てるために、魔獣の動きを完全に止める必要があった。
「数秒でいいのね?」
ヘイディは、アハトの言葉に何かを決意したように、彼の前に進み出た。
「お、おいヘイディ、何をする気だ!?」
「動きを止めればいいんでしょ。その代わりちゃんと仕留めてね」
ヘイディは戸惑うアハトに笑顔を向けた。その表情には、確かな自信と、微かな悪戯っぽい光が宿っていた。
彼女はキッと魔獣を睨みつけると、杖を高く掲げた。魔法の詠唱が始まると同時に、彼女の全身から魔力があふれ出した。
魔力の高まりと共に、周囲の空気がゆっくりと魔獣に向かって流れ始めた。それは次第に速度を増し、やがて強力な上昇気流へと変貌する。
魔獣の真上には、見る見るうちに漆黒の積乱雲が隆起し、雷鳴が轟き始めていた。
――グルウォォォ……
膨大な魔力の高まりを感じ取った魔獣は、その原因となっているヘイディを明らかに意識し始めた。その巨体が僅かに重心を移し、ヘイディへとその敵意を向ける。
「行かせるか!」
アランには、二人の会話は聞こえていなかった。しかし、ヘイディが何かしようとしていることは理解できた。満身創痍の体で、アランは決死の形相で魔獣の前に立ちはだかる。
「こっちにもいるぞ!」
アランに合わせるように、アハトも下級の攻撃魔法を放ち、魔獣の注意をヘイディから逸らそうと奮闘する。
「二人とも下がって!」
やがて、ヘイディの準備完了を告げる声が響いた。二人は迷うことなく、一目散にヘイディの傍まで下がる。そして同時にアハトが、自身のとっておきの魔法の詠唱を始めた。
「下降噴流!」
ヘイディの叫びと共に、積乱雲から激しい下降気流が魔獣に襲いかかった。
ヘイディによって生み出された上昇気流と連動するように、今度は魔獣を下方へ押し潰す重圧となって襲いかかる。魔獣の巨体が、その強力な圧力によって、地面に縫い付けられるかのように動きを止めた。
「くっ!?」
しかし、地面に叩きつけるような気流は、轟音と共に水平方向へと吹き荒れる強烈な突風へと変化し、ヘイディたちの立つ広場を襲った。
アランはとっさに身を低くし、槍を地面に深く突き刺すことで、この暴風に耐えていた。彼の周囲では、固定されていない農具などが派手な音を立てながら宙を舞い、広場の外へと吹き飛ばされていく。
突風はディアナたちが覗いていた家の窓にも容赦なく叩きつけられ、その勢いで古びた板戸がバタンと音を立てて閉じた。
「兄さん、今よ!」
ヘイディの鋭い声が、暴風の唸りにも負けずにアハトの耳に届く。彼女の合図と同時に、アハトは温存していたとっておきの魔法を発動させた。
「炎の投槍」
アハトの杖から、灼熱の炎の槍が、身動きの取れない魔獣を目掛けて一直線に放たれた。その一撃は、まさしく必殺を期した渾身の攻撃だった。
だが、仕留めたと思われた瞬間、魔獣は必死でその巨体をよじり、急所への直撃だけは間一髪で回避する。それでも炎の槍は、魔獣の分厚い肩口へ深々と突き刺さり、肉を焼く焦げた臭いが風に乗って漂った。
今までどんな攻撃も体表で弾き返してきたはずの魔獣に対し、ようやくまともな一撃が通じたのだ。
「避けやがった!?」
しかし、急所を外されたことにアハトは悔しげな声を上げる。その横で、ヘイディが焦れたように問いかけた。
「もう一度撃てないの?」
「無茶を言うな! お前と違って、もう残りカスみたいな魔力しか残っちゃいねえよ」
アハトは荒い息を吐きながら答える。全身の魔力を絞り出した今の彼には、とても次の魔法を放つだけの余裕は残されていなかった。
「そんな……」
ヘイディの顔に絶望の色が浮かぶ。せっかくの一撃も、魔獣を完全に仕留めるには至らなかった。
仕留めきれずに悔しそうなアハトと、魔力が残っていても足止めしかできないヘイディは、呆然と魔獣を見つめるしかできなかった。
「まだだ。諦めるな!」
そんな中、なぜか上からアランの声が響いた。
二人がはっと顔を見上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。槍を固く握りしめたアランが、家屋の屋根から、まるで獣のように身をかがめ、次の瞬間には高く宙へと飛び上がる所だった。
「これで終わらせる! おらあぁぁぁぁ!」
アランは咆哮と共に、身体強化魔法を最大限に活かして驚くべき高さまで跳躍した。
ヘイディの魔法の勢いも利用し、アランはまさに流星のごとく魔獣へと一直線に飛び込んでいく。魔獣もまた、その危険を察知したかのように必死で巨大な頭部をもたげ、凶悪な角を突き出し、迎え撃つ構えを見せた。
――ドン!
アランの着弾と同時に、周囲に激しい砂塵が巻き上がった。視界は白く覆われ、何が起こったのかを認識することを困難にした。
「アラン!?」
悲鳴のようなヘイディの叫び声が響くが、砂塵に視界を遮られ、アランと魔獣がどうなったのか確認ができない。数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。
やがて、ゆっくりと砂塵が晴れていくと、そこに現れた光景は二人の心を激しく揺さぶった。
アランの槍は、確実に魔獣の頭部、その眉間を正確に貫いていた。しかし、アランもまた無傷ではなかった。魔獣が最後の抵抗として突き出した凶悪な角が、アランの腹部を深く貫いていたのだ。鮮血がじわりと彼の服に滲み、地面に滴り落ちる。さらに、落下の衝撃なのだろうか、アランの左足が不自然な方向を向いているのが分かった。
「アラン!」
アハトとヘイディが駆け寄った時、彼はもう自力で動くことができなかった。魔獣から引き離され、地面に横たえられたアランの姿は、見るに堪えないものだった。腹部の傷は深く、脇腹を抉られた跡が生々しい。しかし、それ以上に目を覆いたくなるのは、左足の無残な骨折と、肘から先が失われた左手の傷だった。
「馬鹿がっ! なんて無茶をするんだ!」
アハトの怒鳴り声が響く。
ヘイディは、アランの失われた左手に慌てて回復薬をかける。彼女の瞳には、とめどなく涙が溢れていた。もう一本の魔法薬を差し出しながら、ヘイディは震える声で訴える。
「そうよ、兄さんの魔法で十分弱っていたでしょう? こんな、……魔法薬で治らない傷を作るなんて」
その言葉は、アランの無謀さを責めながらも、彼の身を案じるヘイディの深い悲しみを表していた。しかし、アランはそんな二人の気持ちを意に介さず、片手で器用に魔法薬の蓋を開けると、一気に飲み干してあっけらかんと笑った。
「討伐できたんだし、いいじゃないか」
その言葉に、ヘイディはさらに激高する。
「そんなのんきな……あなた馬鹿なの! なくなった手は生えてこないのよ!?」
ヘイディの怒りは当然だった。
回復薬による治療は一般的だが、完治できるのは小さな切り傷程度までだ。それも瞬時に治るわけではなく、小さな傷でさえ数時間はかかる。王宮魔法師の中には、欠損部位ですら回復できる治癒魔法を使える者もいるというが、それでもすぐに魔法を使用しなければ回復は不可能だ。
アランの傷は、骨折はともかく脇腹の裂傷でさえ、回復薬を使ったとしても数日間の加療が必要となる重傷だった。しかし、アランはそんな現実から目を背けるように、ボソリと呟いた。
「村を救うことはできたじゃないか! 村やキミや子供達を守ることはできたんだ。腕の一本なんて安いモノだ」
その言葉は、アランの覚悟の表れだった。彼にとっては、村とそこに住む人々を守ることが、何よりも大切なものだった。左腕を失うという大きな代償を払ったにもかかわらず、彼の心には後悔の色は微塵もなかった。むしろ、大切なものを守り抜けたことへの安堵と、静かな誇りが満ちていた。
その言葉を聞いたヘイディは、思わずアランの顔を見つめた。アランは子供のような照れた笑顔を浮かべ、少しだけ困ったように付け加えた。
「腕一本での畑仕事は大変になるけどね」
その現実的な一言に、ヘイディの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女はアランの背に額を押しつけ、震える声で言った。
「……そうね。わたしも手伝うわ。わたしがあなたの左手になる」
ヘイディの言葉は、アランにとって何よりも温かい癒しとなった。彼はヘイディの頭を優しく撫で、感謝の気持ちを込めて彼女の名前を呼んだ。
「ヘイディ……」
「……ありがとう。村を守ってくれて」
ヘイディの感謝の言葉に、アランは胸を張って答えた。
「それが俺の仕事だ。キミや子供達のためなら何度だって守るさ」
アランがそう言い終えた瞬間、興奮した子供達が勢いよく飛び込んできた。
「お父さーん!」
「おとうさん!!」
猛烈な勢いで胸に飛び込んできた子供達に、さすがのアランも顔を顰めた。しかし、すぐにその表情は緩み、心配そうに顔を覗き込む二人の子供に優しく問いかけた。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ?」
二人の重なる言葉に、アランは顔を綻ばせる。彼は二人の頭を愛おしそうに撫でながら、安心させるように笑顔で答えた。
「平気だよ。それより怖かったろ?」
「ううん、平気! お父さん凄かったよ。あれも魔法なの?」
ディアナは興奮冷めやらぬ様子で、目を輝かせまはら矢継ぎ早に質問を浴びせた。
ヘイディの魔法で閉じてしまった戸板を、慌てて開けた彼女の目に飛び込んできたのは、上空へと飛び上がり魔獣を討伐する父親の姿だった。その光景は、幼いディアナにとって、まるで絵本の中の英雄が現実になったかのように映っていた。
「ディアナ、お父さんは怪我をしているのよ。その話は後にしなさい」
娘たちの興奮ぶりに、さすがのヘイディもたしなめるように言った。
「あっごめんなさい。痛い?」
ディアナはハッとしたように謝ると、アランの腕を心配そうに見つめた。
「回復薬をかけたからもう痛くはないよ。でも疲れたから少し休みたいかな」
アランは苦笑しながら答えた。肉体的な痛みは回復薬で和らいだが、精神的な疲労は想像以上に大きかった。
「そうだな。魔獣の解体や片付けは俺たちでやるから、アランは今日はもう休んでくれ」
騒ぎが収まってから、避難していた住民達がようやく外に出てきた。仕留められた魔獣の周りには、あっという間に人だかりができていた。
魔獣の死骸は、角や体毛など様々な素材として高く売れるため、早いうちに解体する必要があった。アハトは他の村人たちへの指示を一通り終えると、アランに労りの言葉をかけ、帰って休むように促した。
「そうだな。すまんがそうさせて貰う」
流石に疲労困憊なのだろう。
アランは素直にそう言うと、ヘイディに肩を貸して貰いながら、子供達と一緒に家へと帰っていくのだった。
村人達は、そんなアランの背中を、感謝と尊敬の眼差しで見送っていた。
2025/9/21 大幅に加筆・修正しました。




