魔獣討伐(1)
ボンノ村の傍に森が広がっていた。
ある程度奥まで人の手が入っているため、子ども達だけでも比較的安全に木の実や薬草の採取に入っていける森だ。
その森の奥、村から三十分ほどの開けた場所の中央に、藍色の髪の少女がひとりで立っていた。
不思議なことに、付近に川や水場がないにもかかわらず、なぜかこの少女の周りは水浸しとなっている。
目を瞑り、集中するように大きく深呼吸した少女は、目を見開くと右手を前に突き出して叫んだ。
「水よ!」
すると、突き出した手の前方、八十センチメートルほどの所に、直径五十センチメートルの水の塊が現れた。
――むっ!
制御しようとしているのか、全身に力を込めるようにして唸ると、それに合わせてふよふよと水球が伸びたり縮んだりしてカタチを変え始めた。
――むむっ!
さらに力を込めると、水球はグルグルと回り始める。
初めはゆっくりだったが、少女が力を込めれば込めるほど回転は勢いを増し、だんだんと大きくなっているようだった。
――むむむっ!
さらに力を込めていくと、ついには数メートルほどの大きさとなった水球が、弾けるように暴発し辺りを水浸しにした。
「ふう……」
頭から水を被った少女が、軽く溜息を吐く。
この周囲の惨状は、少女が何十回と繰り返したことで引き起こされたものだった。
ディアナは八歳になっていた。
日課となっている魔力循環を休まず続けたことで彼女の魔力の総量は増え続け、今では母であるヘイディを凌駕するほどとなっていた。
あの日一緒に降雨魔法を使って以来、お互いの負担が減ることから雨を降らせる際は、二人で一緒におこなうようになっていた。
ただしそれ以外の魔法については、先程の結果の通り芳しくなかった。
魔力総量が増えたこともあって、コップ一杯の水を出す生活魔法でさえ制御できずにこの有様である。
これが火魔法だともっと悲惨だ。
一年前に家でこっそり火魔法の練習をした際、危うく家を火事にするところだったのだ。
普段はディアナに甘いところのあるアランとヘイディだったが、流石にその時ばかりは烈火の如く怒った。
それ以来、家での火魔法は禁止となり、森の中でも水場の近く以外では怖くて火魔法を使えなくなっていた。
魔法が使えなくても、無邪気に笑っていられた時期はとっくに過ぎていた。
かまどに火を起こしたり、瓶に水を出したりする生活魔法は、魔法士でなくても簡単に使えるような初歩的な魔法だ。それこそ呼吸をするように使え、誰もが一番最初に覚える魔法といっていい。
村では母以外に、誰も使うことのできない降雨魔法を使うことができるディアナだったが、簡単な生活魔法すら使えない事実は彼女に重くのしかかっていた。
「全然うまくいかないなぁ……」
以前のように発動しないという状況ではないが、全く制御できないのは問題だった。
簡単な魔法すらうまくできず、力ずくで抑え込もうと魔力を込めると暴発してしまう。
「このままじゃお母さんみたいになれないよ」
思わず零れ落ちた言葉に反応したように、じわりと涙が溢れてくる。
「ふうぅぅぅ……」
涙を振り払うように慌てて首を振り、気分を変えるように深く長い深呼吸をする。
三年前、初めて母と一緒に降雨魔法を使った。
その時の杖を持つ母の姿が忘れられなかった。
『かっこいい……』
素直に母に憧れ、幼心ながらあんな風になりたいと心から思った。
母のようになりたくて、母から教わった魔力循環の練習は休みなく続けていた。そのお陰か、降雨魔法を使う際の魔力制御も楽になっていた。
しかし、母しか使うことのできない降雨魔法が使えたとしても、生活魔法ですら使えない自分では母のようになれない。
「このままじゃペトルにも負けちゃう」
ペトルは三歳となり、よくディアナの後について村を駆け回っていた。
早ければそろそろ魔法の練習を始めるような年齢だ。
以前はよく「いっしょにまほうのれんしゅうしようね」と気軽に言っていたが、今はそれすらも簡単に口にできなくなっていた。
もしペトルが簡単に生活魔法ができたら?
ディアナよりも上達がはやく、そのうちに降雨魔法まで使えるようになったら?
『おねえちゃんは、なんでまほうつかえないの?』
何よりもペトルの口から、決定的なその言葉が紡がれることに恐怖を覚えていた。
ある日、村の近くに魔獣が現れた。
魔獣とは、魔力によって変異した動物の総称だ。
ネズミやリスなどの小動物から、シカやイノシシなどの大型の哺乳類まで様々だ。
魔獣化は、普段魔法として魔力を放出する人と違って、魔力を体内に取り込み続けることで変異してしまうと言われていた。
魔獣と化せば、一様に体長がひとまわりほど巨大化し、凶暴性が増して手当たり次第に暴れるようになる。そのため発見次第、直ちに討伐することが推奨されていた。
また、オオカミなどの獣が魔獣化した場合は、脅威度が跳ね上がり、逆に単独での討伐は禁じられ、軍が出動するような魔獣災害となる。
今回はシカの魔獣だったため災害には認定されないが、一般人にとっては脅威度は高く、アラン達男性を中心に村人総出で討伐に当たることになった。
「ディアナ、ペトル。
あなたたちは家から出ちゃダメよ!」
ヘイディは子供達にそう言い聞かせると、杖を手に村の広場へと向かった。
広場には逆茂木が築かれ、強張った顔を浮かべている他の女性達と一緒に、最終防衛を担うことになっていた。
「おとうさんもおかあさんもだいじょうぶかな?」
窓から母親の姿を見送りながら、ペトルは怯えたように不安を口にする。
「きっと大丈夫。
今日は少し村に近いから、みんな緊張してるけれど、きっと今日も大丈夫だよ。
もしここに魔獣が来ても、ペトルはおねえちゃんが守ってあげるからね」
ディアナはそう言って、ペトルを抱き寄せる。
その言葉はペトルに向けて話していたものの、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
村の近くで魔獣が出没することは、一年の内に一、二回の頻度であった。
だがこれまでは小動物の魔獣が多く、シカのような大きさの魔獣となると数十年単位で出ていない。
また大型の魔獣がこれほど村の近くで発見されたことはなかったため、普段は討伐に出ないヘイディも万が一に備えて広場で待機することになっていたのだ。
ディアナは森での採取中に、一度だけ魔獣と遭遇したことがあった。
その時はリスの変異体だったため、脅威度はそれほどではなかったが、それでも普段に比べ二倍から三倍に膨れあがり、赤黒い禍々しい雰囲気を放つリスには恐怖を覚えた。
リスの魔獣でさえ、ディアナは恐怖で足が竦んで動けなくなった。
すぐに大人が駆けつけてくれたため、リスの魔獣はすぐに討伐されたが、今回はそれよりもはるかに大きなシカの魔獣だという。
彼女は家にいるという安心感と、それでも心の多くを占める恐怖心の間を揺れ動きつつ、何があってもペトルを守るという正義感だけで必死に平静を装っていた。
「来たぞっ!」
斥候役の農夫が、丘の上で両手を振りながら叫んでいた。その後すぐに退避のために、慌ててこちらに駆け込んでくる。
アランは農夫が指差す方向を見たが、まだ魔獣の姿は見えなかった。
だが、追い立て役達が立てる鳴り物の音は、少しずつ聞こえてきていた。
この分だと間もなく姿を現すだろう。
「よし、ここで絶対に仕留めるぞ!」
アランは気合いを入れて男達に声をかける。
彼らがいるのは村の入り口だ。
ここには広場と同様逆茂木が組まれ、男達が槍や農具を手に待ち構えていた。
基本的にはここで仕留める予定だが、今回は魔獣化したシカが相手だ。
領都で衛士をしていたアランは、一度だけシカの魔獣の討伐に参加したことがあるが、その時は大勢の負傷者を出した。
多数の衛士を動員してもあれだけの被害が出たのだ。
今回は衛士はおらず農夫ばかりだ。
人数はいるものの、戦える者はアラン一人と言ってよく、自ずと緊張感が増していく。
アランは槍を握る手に力が入っていることを自覚し、ゆっくりと息を吐いて落ち着くように自らに言い聞かせた。
彼らが突破されれば、村に甚大な被害が出てしまうだろう。
またこれ以上、収穫間際の農作物に被害を出す訳にはいかない。
ここで食い止めなければ、近隣にも被害が及んでしまう。
「見えた!」
その言葉と共に、姿を見せたシカの姿に皆一瞬呆気に取られてしまう。
「で、でけぇ……」
シカは角は別にして、大きくても子供の背丈を超えるくらいしかない。
しかし現れたシカは馬ほどはあろうかという大きさだった。
体毛が魔獣特有の赤黒く変色していて、正気を失った血走った目からはまるで意思を感じない。涎が滴る口には、本来はあり得ない鋭い牙が見える。また元は立派な角だったのだろうが、今は鋭い刃のように変形した漆黒の角が鈍い光を放っていた。
「気を付けろ、来るぞっ!」
アランが叫んだ時だ。
馬ほどの大きさのシカの魔獣が、突然彼らの目の前から消えた。
「上だ!」
その動きに反応できたのはアランだけだった。
彼の声で上を見上げた農夫達は、驚愕に目を見開いた。
高くジャンプした魔獣が、彼らに向かって迫ってきていたからだ。
「避けろっ!」
反応できない農夫をアランが蹴っ飛ばした直後、彼の真上に魔獣が落下してきた。
――ドゥオォォォォン!
およそシカとは思えない衝撃音と振動が、着地した瞬間辺りに響き、一瞬にして周囲は土煙に塗れた。
「アラン!?」
アランに蹴られなければ、落下地点には自分達がいた。
彼に助けられたと知った農夫が、無事を願って口々に彼の名を叫ぶ。
「くっ……」
土煙が晴れると、辛うじて魔獣の牙を槍の柄で防いだ、アランの姿があった。
「アラン無事か!?」
「来るな!」
加勢に向かおうとした農夫達をアランの鋭い声が静止させる。
「こいつはやべぇ! お前らには無理だ。相手は俺がする」
「アランだけで大丈夫なのか!?」
アランが一人で対処するということに難色を示す農夫達。
この中で誰よりも魔獣討伐の経験があるのはアランだ。その彼が無理だと判断するほど、この魔獣は脅威だということなのだろう。
元がシカとは思えないほど巨大化した魔獣は、どう見ても領兵が動員されるレベルだった。
「弓で援護する!」
狩猟の経験がある男がそう言うと、すぐに矢を番えて放った。
しかし、矢は魔獣の体表に刺さることなく弾かれてしまう。
「刺さらねぇ!」
「相手は魔獣だぞ。魔力を込めなきゃ矢が刺さる訳がない!」
男達の絶望の声を尻目に、魔獣はギロリと目だけを動かして男達を睨む。
そして力を溜めるように一瞬首を下げてアランの体勢を崩すと、次の瞬間彼を跳ね上げた。
「うわっ!」
堪えきれず、バネに跳ね上げられたようにアランは真上へと飛ばされてしまう。
魔獣は後を向いて、アランの落下に合わせて後足を跳ね上げた。
――ガキン!
槍を盾代わりにして蹴りを防いだアランだったが、その槍が真っ二つに折れ、そのまま彼はもう一度空中へと蹴り飛ばされてしまった。
反転した魔獣は、今度はその凶悪な角を落下してくるアランに向ける。
「アラン!」
悲鳴が重なる中アランを一陣の風が包み込み、衝突目前で軌道を変えた彼は辛うじて串刺しを免れた。
「大丈夫か?」
「アハトか? 助かった」
ようやく大地に降り立つことができたアランに、村長のアハトが駆け寄ってくる。
大丈夫と言うアランだったが腕や頬に裂傷を負い、それ以外にも体中に細かい切り傷ができていた。裂傷は魔獣の角による傷だが、それ以外は今の風魔法によるものだ。
アランを助けるためとはいえ、魔法を躊躇っていたら串刺しは免れなかっただろう。
ヘイディほどの魔力はないため、降雨魔法のような魔法は使えないアハトだったが、威力の弱い低級の攻撃魔法が使え、若い頃は探索士として魔獣退治などをおこなっていた経験もあった。
「どうする? 二人でやれるか?」
「いや、場所が悪い。危険だが広場まで引こう」
「わかった。作戦変更だ一旦下がるぞ!」
開けた場所では、動きの速い魔獣を捕らえることが難しい。
狭い村の広場ならば、多少は魔獣の動きを制限できるだろう。
短い相談を交わした二人は、即座に行動に移した。
二人で魔獣を牽制しつつ、アハトが農夫達を村へと下るように指示を出す。
「アラン、これを使ってくれ!」
「すまん、助かる!」
引き上げていく農夫の一人が、武器を失っていたアランに自分の槍を手渡した。
「さあて、久々だな」
「お前が村長になってからは初めてだ。鈍ってねえだろうな?」
「そりゃ多少は、な。
だが鍛錬は欠かさなかったつもりだ。合わせるさ!」
「わかった。頼りにするぞ!」
二人はそう言うと改めて魔獣と向き直った。
村長になる前、アランとアハトは二人で村に出た魔獣退治をおこなっていた。
元衛士で前衛職のアランと、元探索士で魔法職のアハトは相性もよく、二人で数々の魔獣を討伐してきた。
だがその当時でさえ、脅威度の高かったのはイタチが変異した魔獣で、今回のような大きさの魔獣は相手にしたことはない。
「正直、領兵を呼びたい所だがな」
「激しく同意するが、流石に時間がない。二人で倒す方が早い」
村に閉じ籠もってやり過ごすという手もあるが、相手は馬並みの巨大な魔獣だ。時間のかかる領兵の到着まで、村が無事だという保証はない。
二人は覚悟を決めた表情を浮かべ、連携を取りながらジリジリと魔獣を村の中へと誘導していった。
「おーい。作戦変更だ!
女達は家の中に避難だ、急げ!」
「何があったの?」
知らせに走ってきた男にヘイディが問いかけた。
「シカという話だったがとんでもねぇ!
牛や馬ほどの大きさになっちまってて、抑えきれなかったんだ」
「アランは無事なの?」
「やばかったが無事だ。いまはアハトと一緒にこっちに誘導している所だ!
お前さんもはやく避難しろよ」
男はそう言い残すと、他の者に声をかけながら走り去っていった。
村の出口に目をやれば、時折凄まじい音が響き、同時に土煙がもうもうと立ち上っている。
「アラン……」
ヘイディは踵を返すと家に駆け込んだ。
「お母さん!」
家に飛び込むとすぐにディアナ達が駆け寄ってくる。
ヘイディは子ども達を優しく抱き寄せ、諭すように告げる。
「ディアナ、ペトル。あなた達は家から絶対に出ちゃ駄目よ」
「お母さんはどうするの?」
驚いたディアナがヘイディを見つめる。
「お母さんは魔法士。
お父さんを手伝って村を守るわ」
そう言うと未練を断ち切るように立ち上がり、恐怖に震える手で杖を握る。
「あ、あたしも行く!
あたしもお母さんのお手伝いできるもん!」
ディアナはそう言って玄関横に立てかけてある自分の杖を手にした。
「ディアナ……」
娘の成長を嬉しく思い、ヘイディはディアナを抱きしめた。
「ありがとう。
でもディアナまで外に出たら、ペトルは一人よ?
だからディアナはここに残ってペトルを守ってあげて。
そしたらお母さんはうんと頑張れるから、ね?」
「わかった。わたしはここでペトルを守る」
「お願いね」
ヘイディは二人の頬に優しくキスをすると扉を開ける。
あれだけ震えていた手の震えは、いつの間にか止まっていた。