干ばつの兆候
「いってきまぁす!」
「そんなに慌てたら転ぶわよ!」
家から元気よく女の子が駆け出していくと、赤ん坊を抱いたヘイディが玄関先から笑顔で見送った。
このボンノ村はビンデバルト領の田舎にある典型的な農村のひとつだ。
かつてはエルフの偉大な魔法士がこの村を守っていたが、彼女がこの地を去って既に長い年月が流れていた。
その間、彼女の子孫は代々村長として村を守り続けていた。
長寿を誇るエルフの子孫であるが、何世代も重ねた現在では寿命は人とほとんど変わらなくなっていた。
村では伝承で伝えられているその話だが、一族以外にはそのエルフの名すらも忘れ去れていた。そのため今ではその伝承自体が、本当のことなのかどうかも怪しくなっていたが、一族に現れる尖った耳の形が、エルフとの血のつながりを示す唯一の証拠となっていた。
「お父さぁん、おべんとうもってきたよ!」
「おお、ありがとうディアナ」
農作業中のアランに抱きついたディアナが、ヘイディが持たせてくれたお弁当を嬉しそうに差し出した。
伝承に残る偉大な魔法士の名を授けられた少女は、五歳になっていた。
両親からの愛情を受けてすくすくと育ったディアナは、去年生まれた弟ペトルの存在もあって、姉としての自覚も芽生え始めていた。
「今日はディアナ、お父さんといっしょにたべるの!」
ディアナはそう言って自分の分のお弁当も取り出すと、ヘイディそっくりの翡翠色の瞳を輝かせた。
「そうかそうか、今日は俺といっしょに食べるのか。
じゃあ道具を片付けるからちょっと待ってな」
アランは嬉しそうに、娘の藍色の頭をクシャクシャと撫でると、散らかっていた農具を片付けはじめ、水路の水で汚れた手を洗うと、土手の木陰に二人並んで腰を下ろした。
「どうしたのお父さん?」
「うん?」
ディアナが不思議そうな顔を浮かべて、アランを見上げていた。
「むうってここにしわがよってる。なんかおこってる?」
ディアナが自分の眉間を指差して、父親の顔真似をする。
どうやら無意識に、娘の前で難しい顔を浮かべていたようだ。
「怒ってはいないよ。ちょっと気になることがあるんだ」
アランはそう言って眉尻を下げる。
「また、ばばさまにおこられた?」
ディアナは、アランがマルタに怒られたのかと、心配そうに覗き込んでいた。
マルタはディアナはもちろん、去年生まれたペトルも取り上げるなど、村最年長の産婆でもあった。
村の人間ならほとんどが彼女の世話になっていて、ヘイディや彼女の兄である村長のアハトもマルタが取り上げてきた。
七十歳も半ばを過ぎてなお現役を続けていたが、ペトルを取り上げたのを最後についに産婆を引退した。
しかし静かに余生を過ごすと言いながら、マルタは用もなく村をうろうろしては、あれこれと口喧しく口を出しては皆に煙たがられていた。
「それは違うぞディアナ。
お父さんはばばさまには怒られてるんじゃなくて、お話してるだけだよ。
それに今日はまだ、ばばさまには会ってないから」
思わず苦笑したアランが、やんわりと否定する。
アランが、口達者なマルタの標的となったことは、一度や二度ではない。
村の人間がマルタを邪険にする中でも、アランは辛抱強く彼女の相手をすることが多かったからだ。
その際は、ほとんどマルタが一方的に怒鳴り散らすだけだったため、ディアナから見れば怒られているように見えていたのだ。
「じゃあどうしたの?」
マルタに話題が移ったことで、話を誤魔化せたかと思ったアランだったが、ディアナは忘れてなかったらしくもう一度質問してきた。
アランは仕方ないと考えつつ、ディアナにキチンと理由を説明した。
「そろそろ雨季のはずだけど、雨がなかなか来ないなって考えてたんだ」
ここ数年、雨期に十分な雨量を得られないことが、少しずつ増えてきていた。
一時的なものかも知れず、今のところはっきりと干ばつというほど、被害は出ていないため判断が難しいが、このまま雨量が少なければ、収穫量にも影響が出始めるところがあるかも知れない。
「じゃあまた、お母さんに雨をふらせてもらうの?」
「そうだね」
無邪気に喜ぶディアナの頭を、優しく撫でるアランだが、その顔は晴れなかった。
ヘイディはこの村で一番の魔力を誇っていて、上位の陽属性の魔法である降雨魔法を使うことができる村唯一の魔法士だった。
しかし天候を操作する魔法は膨大な魔力が必要とされ、多くの魔力を持つヘイディでさえ一時間ほど雨雲を呼ぶのが精一杯だった。
一度雨を降らせば魔力の枯渇によって、ヘイディは数日間起き上がれなくなるのが常だった。
また去年ペトルが生まれたばかりで、ヘイディの体力はまだ完全に回復している訳ではないことも、アランを不安にさせる原因のひとつとなっていた。
ディアナのときのような、難産だった訳ではないことが救いだが、ヘイディは頼まれれば断らないことを知っていたアランは、できることなら彼女に無理をさせたくなかったのだ。
「ディアナがお母さんのかわりをできたらいいのに」
そんなことを考えていると、ボソリとディアナが呟いた。
「どうして?」
「だって雨をふらせたあと、いっつもお母さんうごけなくなるんだもん」
アランが尋ねると、ディアナは心配そうにそう答えた。
魔法のことはまだよく分かっていないはずのディアナだったが、彼女なりに降雨魔法のヘイディへの負担が大きいことは分かっているようだ。
「ディアナ!」
「わっ!? お父さんおひげがいたいよ!」
他人を思いやれる子に育ってくれたことが嬉しいアランが、思わずディアナを強く抱きしめた。
無精ひげが痛いと文句を言うが、そんなことはお構いなしにアランはしばらくディアナに頬ずりを続けた。
「じゃあ、魔法を苦手だとは言ってられないぞ」
「ん、がんばってれんしゅうするもん!」
顔を離したアランにそう言って意気込んだディアナだったが、彼が指摘したようにいまだに彼女は魔法が苦手だった。
ヘイディから習った魔力循環は、約束通りあれから毎日続いていた。
そのお陰で今では随分と魔力量も増え、ヘイディが言うには、彼女とまではさすがにいかないものの、村のどの大人達よりも多くなり、彼女の兄である村長のアハトに匹敵するくらいの量となっているらしい。
それでも相変わらず魔法はうまく使えず、特に魔法の制御が苦手で、発動前に暴発させてしまうことが多かった。彼女の魔力量が多くなるに比例して被害も大きくなっていて、暴発させるたびに家の壁や調度を破壊するようになっていた。
「そうだな、頑張って練習してお母さんを助けないとな」
「うん、あたしがんばる!」
気合いを入れてそう答えたディアナは、早速目の前で魔法の練習を始めた。
するとアランの目の前に、思わず目を見張るほどの巨大な火の塊が現れた。
「ディアナ、ちょっと待て。火魔法はダメだ!」
アランが慌ててやめさせようとするが、少し遅かったようだ。
――ボンッ!
「きゃっ!?」
制御に失敗したディアナの火魔法が弾け飛び、アランの服と髪の毛を少し焦がしてしまうのだった。