干ばつの兆候
「いってきまぁす!」
元気いっぱいの声が家中に響き渡る。
「そんなに慌てたら転ぶわよ!」
ヘイディは笑いながら玄関先から見送った。
ディアナが今日もまた、勢いよく家を飛び出していく。
赤ん坊のペトルを腕に抱きながら、ヘイディはその愛らしい後ろ姿を目で追った。
このボンノ村は、ビンデバルト辺境伯領の田舎にひっそりと佇む典型的な農村のひとつだ。豊かな自然に囲まれ、人々は農業を営みながら、つつましくも幸せな日々を送っていた。
かつては、エルフの偉大な魔法士がこの村を守っていた。彼女の魔法は村を豊かにし、人々を災厄から守ったと伝えられている。しかし、彼女がこの地を去ってから、既に長い年月が流れていた。
その間、彼女の子孫は代々村長として、村を守り続けていた。
彼らはエルフの血を引く長寿を誇る一族であったが、何世代も時が経つにつれて、その寿命は人間とほとんど変わらなくなっていた。
村では伝承として語り継がれているその話も、一族以外にはそのエルフの名すらも忘れ去れていた。そのため、今ではその伝承自体が、本当のことなのかどうかも怪しくなっていた。それでも、一族に現れる尖った耳の形が、エルフとの血のつながりを示す唯一の証拠として残っていた。
「お父さぁん、おべんとうもってきたよ!」
畑仕事に精を出すアランのもとへ、ディアナが駆け寄っていく。
彼女は小さな腕をアランの腰に回し、しっかりと抱きついた。
「おお、ありがとうディアナ」
アランは嬉しそうにディアナの頭を撫でた。
ディアナが差し出したのは、ヘイディが持たせてくれた、温かい愛情のこもったお弁当だ。
伝承に残る偉大な魔法士の名を授けられた少女は、五歳になっていた。
両親からの愛情を受けてすくすくと育ったディアナは、去年生まれた弟ペトルの存在もあって、姉としての自覚も芽生え始めていた。
「今日はディアナ、お父さんといっしょにたべるの!」
ディアナはそう言って自分の分のお弁当も取り出すと、ヘイディそっくりの翡翠色の瞳を輝かせた。その瞳は、まるで春の若葉のように鮮やかで、アランの心を和ませる。
「そうかそうか、今日は俺といっしょに食べるのか。じゃあ道具を片付けるからちょっと待ってな」
アランは嬉しそうに、娘の藍色の頭をクシャクシャと撫でた。散らかった農具を素早く片付け、水路の水で汚れた手を丁寧に洗う。そして、土手の木陰にディアナと二人並んで腰を下ろした。
柔らかな日差しが木漏れ日となって、二人の顔に降り注ぐ。鳥のさえずりが心地よく響き、のどかな時間が流れていた。
「どうしたのお父さん?」
ディアナが不思議そうな顔を浮かべて、アランを見上げていた。アランの眉間に、いつの間にか深いしわが寄っていたのだ。
「むうってここにしわがよってる。なんかおこってる?」
ディアナが自分の眉間を指差して、父親の顔真似をする。その仕草が可笑しくて、アランは思わず苦笑した。どうやら無意識に、娘の前で難しい顔を浮かべていたようだ。
「怒ってはいないよ。ちょっと気になることがあるんだ」
アランはそう言って眉尻を下げた。
彼の視線は遠く、乾き始めた畑の向こうを見つめていた。もう雨季が近いというのに、今年は雨脚が遠かった。そのため水路の水量も減り始めていて、そのせいか作物の成長も鈍いように感じる。
農民にとって、それは死活問題だ。しかし、幼い娘の前で、その不安を表に出すわけにはいかない。
ディアナは、そんな父親の複雑な胸中を知る由もなく、ただ無邪気にアランの顔を見上げていた。
「また、ばばさまにおこられた?」
ディアナは、アランがマルタに怒られたのかと、心配そうに覗き込んでいた。
マルタはディアナはもちろん、去年生まれたばかりのペトルも取り上げるなど、村最年長の産婆でもあった。
村の人間ならほとんどが彼女の世話になっていて、アランの妻ヘイディや彼女の兄である村長のアハトもマルタが取り上げてきた。
七十歳も半ばを過ぎてなお現役を続けていたが、ペトルを取り上げたのを最後についに産婆を引退した。しかし静かに余生を過ごすと言いながら、マルタは用もなく村をうろうろしては、あれこれと口喧しく口を出しては皆に煙たがられていた。
「それは違うぞディアナ。お父さんはばばさまには怒られてるんじゃなくて、お話してるだけだよ。それに今日はまだ、ばばさまには会ってないから」
思わず苦笑したアランが、やんわりと否定する。アランが、口達者なマルタの標的となったことは、一度や二度ではない。
村の人間がマルタを邪険にする中でも、アランは辛抱強く彼女の相手をすることが多かったからだ。彼女の言うことに耳を傾け、時にはなだめ、時には穏やかに反論するアランの姿は、村人たちの間でも評判だった。その際は、ほとんどマルタが一方的に怒鳴り散らすだけだったため、ディアナから見れば怒られているように見えていたのだ。
「じゃあどうしたの?」
マルタに話題が移ったことで、話を誤魔化せたかと思ったアランだったが、ディアナは忘れてなかったらしくもう一度質問してきた。その探るような視線に、アランは観念した。アランは仕方ないと考えつつ、ディアナにキチンと理由を説明した。
「そろそろ雨季のはずだけど、雨がなかなか来ないなって考えてたんだ」
ここ数年、雨期に十分な雨量を得られないことが、少しずつ増えてきていた。一時的なものかも知れず、今のところはっきりと干ばつというほど、被害は出ていないため判断が難しいが、このまま雨量が少なければ、収穫量にも影響が出始めるところがあるかも知れない。
「じゃあまた、お母さんに雨をふらせてもらうの?」
ディアナは、父のその言葉にぱっと顔を輝かせた。彼女にとって、雨は魔法士である母親がもたらす、神秘的な贈り物だった。
「そうだね」
無邪気に喜ぶディアナの頭を、優しく撫でるアランだが、その顔は晴れなかった。
ヘイディはこの村で一番の魔力を誇っていて、上位の陽属性の魔法である降雨魔法を使うことができる村唯一の魔法士だった。
しかし天候を操作する魔法は膨大な魔力が必要とされ、多くの魔力を持つヘイディでさえ一時間ほど雨雲を呼ぶのが精一杯だった。一度雨を降らせば魔力の枯渇によって、ヘイディは数日間起き上がれなくなるのが常だった。村人たちは、ヘイディの献身的な働きに感謝しつつも、彼女の負担を案じていた。
また去年ペトルが生まれたばかりで、ヘイディの体力はまだ完全に回復している訳ではないことも、アランを不安にさせる原因のひとつとなっていた。
ディアナのときのような、難産だった訳ではないことが救いだが、ヘイディは頼まれれば断らないことを知っていたアランは、できることなら彼女に無理をさせたくなかったのだ。妻の身体を心配する気持ちと、村の未来への不安が、アランの心を締め付けていた。
「ディアナがお母さんのかわりをできたらいいのに」
そんなことを考えていると、ボソリとディアナが呟いた。その小さな声には、母親を気遣う優しさが滲み出ていた。
「どうして?」
「だって雨をふらせたあと、いっつもお母さんうごけなくなるんだもん」
アランが尋ねると、ディアナは心配そうにそう答えた。
魔法のことはまだよく分かっていないはずのディアナだったが、彼女なりに降雨魔法のヘイディへの負担が大きいことは分かっているようだ。幼いながらも、母親の苦労を理解しているディアナの姿に、アランの胸は締め付けられた。
「ディアナ!」
「わっ!? お父さんおひげがいたいよ!」
小さなディアナの頬は、アランの無精ひげに擦れて赤くなっていた。
それでもアランは、愛しい娘が他人を思いやれる子に育ってくれたことが嬉しくて、思わずディアナを強く抱きしめた。無精ひげが痛いと文句を言うディアナだったが、アランはそんなことはお構いなしに、しばらく娘の柔らかな頬に頬ずりを続けた。
「じゃあ、魔法を苦手だとは言ってられないぞ」
顔を離したアランの言葉に、ディアナは「ん。がんばってれんしゅうするもん!」と、幼いながらも健気に意気込んだ。しかし、アランが指摘したように、いまだに彼女は魔法が苦手だった。
ヘイディから習った魔力循環は、約束通りあれから毎日続いていた。そのお陰で今では随分と魔力量も増え、ヘイディが言うには、彼女とまではさすがにいかないものの、村のどの大人達よりも多くなり、彼女の兄である村長のアハトに匹敵するくらいの量となっているらしい。
それだけの魔力量がありながらも、相変わらず魔法はうまく使えず、特に魔法の制御が苦手で、発動前に暴発させてしまうことが多かった。彼女の魔力量が多くなるに比例して被害も大きくなっていて、暴発させるたびに家の壁や調度を破壊するようになっていた。
「そうだな、頑張って練習してお母さんを助けないとな」
「うん、あたしがんばる!」
アランの言葉に、ディアナは瞳を輝かせて答えた。気合いを入れたディアナは、早速目の前で魔法の練習を始めた。
するとアランの目の前に、思わず目を見張るほどの巨大な火の塊が現れた。ディアナの魔力の暴走は、もはや日常茶飯事となっていたが、この日はいつもよりもその規模が大きかった。
「ディアナ、ちょっと待て。火魔法はダメだ!」
アランが慌ててやめさせようと手を伸ばしたが、少し遅かったようだ。ディアナの集中が途切れた瞬間、火の塊は制御を失い、見る見るうちに膨れ上がっていく。
――ボンッ!
「きゃっ!?」
ディアナの火魔法が弾け飛び、爆発音と共に、二人の服と髪の毛を少し焦がしてしまった。焦げ付いた匂いが鼻をくすぐり、二人は思わず苦笑いを浮かべるのだった。
2025/8/31 加筆・修正しました。
 




