ディアナ
村の広場は、幼い子供達の元気な声でいつも賑わっていた。
彼らは皆、小さな体で一生懸命に魔法の練習に励んでいた。しかし、その魔法は決して人を傷つけるようなものではない。彼らが学んでいるのは、日々の生活に溶け込んだごく当たり前の「生活魔法」と呼ばれるものだ。桶に水を満たしたり、かまどに火を灯したり。誰もが当たり前に使いこなすごく初歩的な魔法である。
この村では三歳にもなると、親から手ほどきを受け、少しずつ魔法の練習を始めるのが慣例となっていた。最初はぎこちなかった子供達の魔法も、練習を重ねるうちに少しずつ様になっていく。そして、友達同士で集まると、自然と自分の覚えた魔法を披露し合うようになる。それは、まだ幼い彼らなりの、ささやかな自慢の場だった。
「お前、なんでこんなカンタンなまほうができないんだよ!」
そんな賑やかな広場の片隅で、ディアナだけが魔法をうまく扱えずにいた。
同じ歳の子供達が楽しそうに魔法を繰り出す中、ディアナの小さな手からはいくら念じても何の現象も起こらない。
「むぅ、できるもん!」
悔しさに頬を膨らませてディアナが反論する。
「そう言って、さっきからできてないじゃない」
「早くやってみろよ!」
周囲の子供達は、容赦なくディアナをからかった。
口を尖らせ、必死に魔法を使おうとするディアナの姿は、彼らにはただ滑稽に映るだけだった。
涙が滲む目を擦りながら、それでも諦めずに魔法の発動を試みるディアナ。だが、どれだけ集中し力を込めても、魔法は発動しない。
「ディアナはダメだな。ぜんぜんできねぇじゃん!」
「あっち行こうぜ。ディアナといっしょにいたらヘタになっちゃうぞ」
まだ自我が芽生えたばかりの子供たちは、時に大人以上に残酷な一面を見せる。
悪気があるわけではない。しかし、そのストレートすぎる言葉は、幼いディアナの心に鋭い刃物のように突き刺さり、深い傷をつけていった。
「できるもん……」
一人、広場に取り残されたディアナは、ポツンと立ち尽くしていた。
込み上げてくる涙を必死にこらえながら、唇を噛みしめていた。
彼女の小さな心の中には、自分だけが魔法を使えないという、拭い去れない劣等感が募っていくばかりだった。夕暮れの空が、ディアナの小さな影を長く伸ばしていた。
それ以来、ディアナはめったに家の外に出ようとはしなくなった。かつては好奇心旺盛に庭を駆け回り、蝶を追いかけていた幼い少女の面影は、もうそこにはなかった。一日のほとんどを家の中で過ごし、両親にもあまり笑顔を見せなくなっていた。
外に出たとしても、ディアナはヘイディの服の裾をぎゅっと掴み、決して離そうとしなかった。
「ちょっと、ディアナ。そんなにくっついたら、洗濯物が干せないわよ」
庭の物干し竿に洗濯物を掛けようとしながら、ヘイディが軽く溜息を吐いた。
しかし、ディアナはヘイディの言葉には耳を貸さず、固く唇を結んだまま、頑として離れようとはしなかった。
ヘイディは、ディアナが魔法を使えないのは、決して魔力が足りないわけではないと感じていた。むしろ、同世代の他の子どもたちと比べても、ディアナの魔力は多い方ではないかとさえ思っていた。
現に、村の子どもたちと集まって魔法の練習をしていたときも、他の子がすぐに疲れてしまう中、ディアナだけは明らかに長時間、集中して練習を続けることができていたのだ。だからこそ、ディアナの魔力に問題があるとは到底思えず、なぜ彼女がごく簡単な生活魔法すら上手く使えないのか、ヘイディには全く理解できなかった。それは、彼女自身の経験とあまりにもかけ離れていたからだ。
そのヘイディが、ディアナくらいの幼い時期には、簡単な魔法はすでにマスターしていたのだ。周囲からは「天才少女」「ディアナ様の再来」などと称賛され、その才能は村中に知れ渡っていた。物心ついた頃から、まるで呼吸をするかのように、感覚的に魔法を扱うことが得意だった彼女にとって、ディアナがどこでつまづいているのか、どうすればその壁を乗り越えさせられるのか、全く見当がつかなかった。
十代になると、ヘイディはその才能を伸ばすため、村を出て街の魔法学校で研鑽を積んでいたほどだった。そんな彼女にとって、娘の苦しみは、あまりにも理解しがたいものだったのだ。
一方、父親であるアランの方も同様だった。
彼はもともと街の衛士をしていたため、ヘイディとは異なり、魔力量も少なく魔法はほとんど使えなかった。しかし、生活魔法は当然ながら使うことができた。だが、どれだけ思い返してみても、生活魔法を使うことに苦労した記憶は、アランには一切なかった。だからこそ、目の前で生活魔法に戸惑い、苦しむディアナに、どう教えればいいのか皆目見当がつかなかったのだ。
ディアナのことは、二人とも深く心配していた。しかし、この世界において「使えない者はいない」とまで言われるほど基礎的な生活魔法だということもあり、この時点では二人とも、「まだディアナは三歳だし、そのうちできるようになるだろう」と、それほど深刻に考えていなかったのである。
「おかあさん、ディアナにまほうをおしえて?」
ある日、ディアナはいつになく真剣な表情で、母ヘイディにそう訴えかけた。
「どうしたのディアナ? できないから嫌じゃなかったの?」
ヘイディは驚きを隠せずに尋ねた。
「こんど、おねえちゃんになるでしょ? そしたらディアナがまほうをおしえてあげないといけないから」
理由を聞くと、ディアナは少しはにかんだようにそう答えた。その言葉に、ヘイディは胸が温かくなるのを感じた。
ヘイディは二人目を妊娠しており、先日軽い気持ちで「弟か妹どっちがいい?」と、赤ちゃんができたことをディアナに伝えていたのだ。そのときは、それほど興味を示していなかったディアナだったが、姉になるという意識が、再び魔法に向き合うきっかけを与えてくれたのだ。
「それじゃお母さんが、とっておきの方法を教えてあげる」
嬉しくなったヘイディは、思わずそう言ってしまった。
魔法が苦手にしているディアナのためではあったが、ヘイディが教えようとしている方法は、三歳の少女にはあまりにも高度すぎるものだった。
「とっとき?」
ディアナの瞳が輝きを増した。その幼い好奇心に、ヘイディは微笑んだ。
「そ、お母さんのとっておきの魔法の練習方法なんだから。これをやれば、きっとディアナも魔法を使えるようになるわ」
ヘイディの言葉に、ディアナは目を輝かせながら頷いた。
幼いディアナにとって母の言葉は絶対であり、魔法が使えるようになるという響きは、何よりも魅力的だった。
「おかあさんのとっとき、ディアナするぅ!」
ディアナはすでにやる気になっているようで、きらきらと目を輝かせながらヘイディを見つめている。その純粋な瞳に、ヘイディは一瞬言葉を詰まらせた。言ってしまった手前もう引っ込みがつかない。だが、この方法を実際に幼いディアナに教えていいものかどうか、ヘイディは迷っていた。これをおこなうことで、ディアナが魔法嫌いになってしまうかも知れないからだ。
「お母さんは今はもうやってない方法なんだけど、それでもいい?」
ヘイディが魔法士を目指していたころは頑張って毎日おこなっていた方法だ。しかし、その夢を断念してからはほとんど行っていない。身体への負担も大きいのはもちろんだが何より大の大人でさえ続けることを躊躇うほどの気持ち悪さがある方法だったからだ。
「いい。ディアナ、おかあさんのとっときするぅ!」
娘は目を輝かせて、すでにやる気になっている。
頑固なところがあるディアナは、こうなればテコでも動かなくなることをヘイディは知っていた。一度言い出したことは最後までやり通す、それがディアナの長所でもあり、時としてヘイディを困らせる短所でもあった。
「しょうがないわねぇ」と軽く息を吐いたヘイディは、もう一度確認するように念を押した。
「でもこれは最初はすごく気持ち悪くて、続けられない人がとっても多いの。それでも毎日きちんとしないとダメなんだけど、ディアナにできるかな?」
ヘイディの言葉は、ディアナの決意を揺るがすための最後の試みだった。しかし、ディアナの瞳は揺るがなかった。
「ディアナできるよ!」
「気持ち悪い」という言葉に一瞬怯んだように見えたディアナだったが、それでも鼻息荒く返事を返した。
そこまでやる気になっているならやらせてみよう。そう考えたヘイディは、迷いを断ち切るように努めて明るい声を上げた。
「わかった、じゃあ両手出して」
「こう?」
ディアナは素直に両手をヘイディの目の前に差し出した。その小さな手のひらは、これから始まる未知の体験への期待に、ほんのりと汗ばんでいるようだった。
娘の両手を軽くつかんだヘイディは、集中するように目をつぶり、軽く一呼吸すると目を開いた。その瞳には、かつて魔法士を目指していた頃の、真剣な光が宿っていた。
「いい? いくよ?」
「うん」
不意に雰囲気の変わったヘイディに、緊張した様子でディアナが答える。その声は、わずかに上擦っていた。
安心させるよう軽く笑顔を浮かべたヘイディは、右手からゆっくりと娘に向けて魔力を流し始めた。
「わっ!?」
その瞬間、驚いたように、ディアナが思わず両手を離した。
得体の知れない何かが、突然左手から入って来たため全身が一瞬にして粟立ったのだ。それは、これまで感じたことのない、生理的な嫌悪感を伴う感覚だった。
「手を離しちゃだめよ。ほらもう一度」
優しくヘイディが声をかけるが、ディアナはさすがにすぐに母の手を取ることができなかった。
あの、全身を駆け巡るような気持ち悪さが、脳裏に焼き付いて離れない。元気よく「できる」と言った手前、頑張ってヘイディの手を取ろうとはするが、あの気持ち悪さを思い出すとすぐに手を引っ込めてしまう。その小さな顔には、恐怖と葛藤が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
「やっぱりやめておく?」
ヘイディが今から娘にやろうとしていることは、繊細な魔力制御に効果は抜群で、やり続けることで魔力量も増えていく方法だ。通常は優秀な魔法士が、より高度で繊細な魔力制御をおこなうために習得する方法で、魔法すら使えない娘に教えるなんて、おそらく史上初の試みだろう。
しかし、ディアナが一瞬で怯えたように、大人でも最初の気持ち悪さを乗り越えることができずに断念する者が後を絶たなかった。これによって魔法に対する心的外傷を植え付けられてしまえば、彼女は二度と魔法を使いたいと思わなくなってしまうかも知れない。
「……やる」
激しい葛藤がディアナの幼い心を支配していた。それでも姉になるという責任感、そして何よりも母であるヘイディへの信頼が、彼女にその手を取らせた。震える小さな手が、ヘイディの温かい手をぎゅっと握りしめる。
「本当に大丈夫? 無理ならやめていいのよ?」
ヘイディの優しい声は、ディアナの決意を揺るがしかねないほどだった。だが、ディアナは顔を上げ、きゅっと唇を結んで答えた。
「だいじょぶ。ディアナ、おねえちゃんだもん」
その言葉は、明らかに我慢している様子を隠しきれていなかった。
ヘイディはやっぱり早かったかと後悔の念に駆られる。しかし、ディアナは歯を食いしばって、真剣な眼差しを浮かべたまま、震える手でしっかりとヘイディの手をつかんでいた。
娘のその健気な姿に、ヘイディの心は温かさで満たされる。ほんのわずかに残っていた迷いは、小さな紙くずのように丸められ、捨て去られた。
「じゃあもう一度流すよ?」
「ん」
母の言葉に固く目を閉じたディアナは、短く肯定の言葉を発した。
ヘイディは、先ほどよりもさらに慎重に、優しく魔力を流していく。
「……!」
ヘイディの右手からディアナの左手へと、ゆっくりと何かが流れ込んでくる。それは、体の中を這うような奇妙な異物感で、ディアナは思わず顔をしかめた。しかし、彼女は声一つ上げずに、その不快感に耐え続ける。
ほんの三十秒程度の魔力の流入が終わった時、ディアナはまるで真夏の炎天下で走り回ったかのように、玉のような汗をかき、全身びっしょりになっていた。呼吸は激しく乱れ、すぐに言葉を発することができなかった。
「どうだった?」
ヘイディの問いかけに、ディアナは大きく息を吸い込み、そして吐き出した。
「はぁはぁ…、かだらのなかでなんかうごいてた!」
意外にも、ディアナの目は輝いていた。
恐怖や不快感よりも、未知の体験への好奇心が勝っていたのだ。
「そうね。その動いてたのが魔力よ」
ヘイディは優しく、それが魔力であることを告げた。
「あれが、まりょく?」
「大丈夫? 気持ち悪くない?」
ヘイディは娘の顔を覗き込み、心配そうに問いかける。
少し耐えることができたとしても、最初はその動く魔力に酔ってしまい、気分を悪くする者も少なくない。この方法は、魔力制御に非常に効果をもたらすが、同時にそのハードルを越えられずに断念する者も多い。最初の段階を越えることができれば、長く続けることができるのだが、高名な魔法士の中にもこれを苦手とする者は少なくないのだ。
「はじめはきもちわるかったけど、おかあさんのまりょくあたたかくて、やさしくてきもちよかったよ」
ディアナの口から出た言葉は、ヘイディにとって意外なものだった。不快感を訴えるどころか、温かさと優しさを感じたというのだ。
「ホントに? じゃあもう少し続けてみる?」
ヘイディは、喜びと驚きを隠せないまま問いかける。すると、ディアナは元気よく頷き、再びヘイディの手を取った。
「うん」
幼いながらも、その声には確固たる意志が宿っていた。ヘイディは優しく微笑み、再び魔力を流し始めた。
「どう?」
三度目の魔力循環を終えると、ディアナは先ほどと同じように、全身から汗が噴き出し、激しい呼吸を繰り返していた。しばらくの間、言葉を発することもできないほど息が上がっていたが、やがて呼吸が落ち着くと、ディアナはにっこりと笑顔を見せた。
「へいきだった」
その言葉に、ヘイディは確信した。
「やっぱりディアナは魔法の才能があるわね。いい? 今のは魔力循環って言うの」
ヘイディはディアナの頭を優しく撫でながら説明した。
ディアナは目を輝かせ、母親の言葉に耳を傾けている。
「まりょく、じゅんかん?」
聞き慣れない言葉に、ディアナは首を傾げた。その愛らしい仕草に、ヘイディは思わず笑みを零す。
「そう。魔法を使うためには魔力が必要なの。魔力というのは、ディアナやお母さんの身体にもあるし、空気中や食べ物にもあるの。魔力循環は、身体にある魔力を、自分の思い通りに動かす練習になるのよ」
ヘイディは、幼いディアナにも分かりやすいように、丁寧に説明をおこなった。しかし、ディアナにとってはまだ少し難しい内容だったようだ。彼女は小首を傾げたまま、きょとんとした顔でヘイディを見つめている。
「これでまほうのれんしゅうになるの?」
ディアナの純粋な問いに、ヘイディは優しく答えた。
「なるわよ。魔力を思い通りに動かすことができれば、魔法が使いやすくなるの。それに毎日続けてれば少しずつ魔力量も上がっていくし、そうなればもっと難しい、すごい魔法も使えるようになるわ」
「すごいまほう!」
興奮気味に叫ぶディアナに、ヘイディはにっこりと微笑んだ。
「そうよ。火や水を出すだけじゃなくて、皆を守ったりする魔法も使えるようになるの。だけど、最初にも言ったけど、これは毎日しないと効果がないわ。慣れるまではお母さんが手伝ってあげるけど、毎日自分で練習しないとダメよ。ディアナにできるかな?」
ヘイディは、真剣な眼差しでディアナに問いかけると、ディアナは、きっぱりとした声で即答した。
「ん。ディアナやる!」
ディアナはヘイディの手を離すと、すぐに自分の両手をつないで、早速一人で魔力循環の練習を始めた。顔を真っ赤にして、うんうんと唸っている。しかし、ヘイディがやったようには簡単にいかず、魔力は一ミリも動いてくれない。
――ぷっ!
力みすぎたからだろう。
魔力は動かなかったが、代わりに可愛らしい音が響いた。
「あら!?」
ヘイディが驚きの声を上げる。ディアナは、照れくさそうに「えへへへっ、おならでちゃった」と笑った。
その愛らしい姿に、ヘイディは思わず抱きしめたくなった。ヘイディはもう一度彼女の手を取ると、優しく、そして根気強く、魔力循環の感覚を教えていった。
この日、幼いながらもやる気を見せた娘のために、ヘイディが手ほどきした魔力循環。
それが、将来『規格外』と称される、一人の偉大な魔法士誕生のきっかけとなったのであった。
ヘイディがやらかしました。
2025/8/23 大幅に加筆しました。




