アルフィーと呼ばれたい
「風の翼!」
ディアナは、杖にまたがり飛行魔法の呪文を唱えた。
すると杖の先に、緑色をした半透明の鳥の翼のような羽根が、うっすらと現れる。
――トン
つま先で軽く地面を蹴ると、ディアナはフワリと空中へ浮遊していった。そのすぐ後ろにはクラリッサも続いている。二人はときに前後が入れ替わりながら、晴れた空を自由に飛び回っていた。
今年のヴェットカンプで、二人は飛行競技のヴィンドとルンド、そして花形競技であるレヴィアカンプフェのメンバーに入るのではと目されるほど注目されていた。
そんな二人を羨ましそうに見上げながら、ブルーノも杖にまたがり飛行魔法の呪文を唱える。
「風の翼!」
ブルーノの杖にも、同じような翼が現れる。
集中するように、ひとつ大きく深呼吸すると、彼は意を決したように地面を蹴って飛び上がった。
安定して飛行しているディアナ達に比べると、ブルーノはまだまだ上体がフラフラと安定していない。だが以前のように魔力の制御ができないという状態ではなく、浮遊感にまだ慣れていないだけといった様子だ。
「待ってろよ。すぐに追いついてやる。うわっ!」
上空を楽しそうに飛び回る二人を見て羨むが、途端にバランスを崩して危うく落下しそうになり、慌てて杖にしがみつくのだった。
その日の夕食時のこと。
飛行魔法が遅れ気味のブルーノは、クラリッサやディアナから駄目出しされていた。
「ブルーノはなかなか上達しませんわね」
「ん。魔力制御は上達してる。怖がってちゃダメ」
二年生になって以来、ほとんど欠かさず魔力循環を続け、ブルーノの魔力制御も今では随分と上達を見せていた。そのため繊細な魔力制御が必要とされる飛行魔法でも、安定して浮遊できるようにはなっている。しかし彼は、不安定な杖にまたがって浮遊する恐怖を、いまだに克服することができていなかったのだ。
ブルーノの症状はいわゆる『高所恐怖症』だ。彼の場合、寮の屋上などから下を見下ろす分には平気だが、飛行魔法時の浮遊感がどうしても克服できずにいた。
「それは俺も分かってる。だけど不安定な杖一本で空中に浮かんでると思うと、どうしてもダメなんだ」
「少しずつ慣れていけばいい」
言ってるうちにその恐怖がフラッシュバックしたのか、ブルーノが自分の身体を抱くようにする。ディアナは彼の恐怖の感覚は理解できないながらも、焦ると逆効果になりそうだと思い、ゆっくり克服すればいいと慰めた。
「すまんな。俺達でアインホルン寮を勝たせようと言った張本人がこんなざまなんて」
「仕方ありませんわ。高所恐怖症なんて本人の意思とは関係ありませんもの」
「ん。ブルーノは頑張ってる」
ブルーノは、このままでは前年のレヴィアカンプフェの終わりに、ブルーノが言い出した約束「来年は俺たちでチームを変えよう」を果たせそうにない事を気にする。だがクラリッサもディアナも彼が苦手としていた地道な努力を続ける姿を見ていたため、彼を責めるようなことはしなかった。
その気遣いに応えるように、ブルーノはいつまでも悩んでいても仕方がないと、気を取り直して話題を変える。
「それで休暇の予定なんですが、結局何名になりそうですか?」
「あたしとクレアを合わせて、……五人?」
「そうですわね。マーヤからも休暇が取れたと連絡が来ましたから、五名で確定ですわ」
休暇の予定とは、去年の長期休暇時に約束した、子爵領のブライトナーへ海を見に行くという約束だ。アルマやモニカからは早々に「参加する」と連絡が来ていたが、マーヤだけが仕事の都合で保留となっていたのだ。
「わかりました。そのように伝えておきます」
「もしかして、男性はあなた一人なのかしら?」
「いえ、エルマーも来ますよ。さすがにわたし一人で、五名全員をエスコートはできませんから」
「それでも男性が二人だけだと、少しバランスが悪いのではないかしら?」
「いえ、お言葉ですが、これはただの休暇です。ディアナ達のことを考えて、公式な行事やパーティも一切入れてません。せっかくなので皆には、気軽に海を見ていただければと考えております」
「それもそうですわね。大変でしょうけど、よろしくお願いいたしますわ」
男性二人、女性五人の人数比をクラリッサが気にするが、クラリッサ達以外全員が平民だ。そのため、今回はクラリッサを招いたパーティなどの予定も敢えて外していた。あくまでもプライベートな休暇だとブルーノが強調すると、クラリッサも納得したように頷くのだった。
「天候がよければクルーズできるように船も準備しています。ぜひ楽しみにしていてください」
「おぉ! 海、楽しみ!」
ディアナは見たことのない海に思いを馳せ、珍しく待ちきれない様子でそわそわと落ち着かない様子を見せていた。
「何やら楽しそうな話をしてるじゃないか?」
「で、殿下!?」
休暇時の話題で盛り上がっているところ、食事を終えたアルフォンスが珍しく声をかけてきた。
アルフォンスとは朝の日課で毎日顔を合わせているが、学年が違うことやディアナが露骨に彼を避けるため、それ以外ではほとんど接点がなかった。
アルフォンスは、ディアナと衝突して以来は態度を改め、傲慢な振る舞いは行わなくなっていた。それどころか、身分に関係なく気さくに話しかけるため、例の性癖を知らない寮生とは完全に打ち解けているようだった。
「それで、いったい何の話をしていたんだい?」
嫌な顔を隠そうともせずディアナが立ち上がろうとするが、彼はそんな彼女の肩に手をかけると、ちゃっかりと彼女の隣に腰を下ろしていた。
そっぽを向いたまま、まったく喋ろうとしないディアナに、仕方ないといった様子でブルーノが休暇の予定について語った。
「ブライトナーへ行くのかい? あそこはとてもいいところだと聞いているよ」
アルフォンスはそう言うと期待に満ちた目を、順番に三人に向けていく。
「……あたしじゃなく、行きたいならブルーノに頼んで」
最後に視線を向けられたディアナは、ジトッとした目をアルフォンスに向けた。その視線を、身震いしながら嬉しそうに受け止めた彼は、そのままブルーノにニコニコした笑顔を向ける。
しばらく気付かないふりをしていたブルーノだったが、王族からの無言のプレッシャーに耐えきれなくなると、根負けしたように大きく溜息を吐いた。
「よろしければ殿下もいらっしゃいますか?」
「いいのかい? まるで催促したみたいで悪いね」
悪いとは思っていないような顔で、アルフォンスは破顔した。
貴族は王族から催促されれば断ることは難しい。彼が話しかけてきたときからこうなることは予想できていたクラリッサは、心配そうにディアナを見るが、彼女もまた仕方ないと思っているようで、二人は視線を交わすとお互い軽く息を吐くのだった。
「いえ、人数には余裕があるので大丈夫です」
「休暇とはいえ王城に戻るのが億劫だったんだよ。戻らなくていい理由ができて正直助かったよ」
側室の第五王子としては、王城に戻ったとしても落ち着くことはできないのだろう。王族の強権を発動させたとはいえ、ブライトナーへ招待されたことで素直にホッとした様子で笑顔を浮かべていた。
「いえ、こちらこそブライトナーに殿下をお迎えできて大変光栄です。ただ、お招きするのはクラリッサ様以外は全員平民となっております。そのため、今回はあくまでもお忍びでの招待ですので、そこはお知りおきいただきたいと存じます」
基本的にはディアナら友人を招待するのが目的だ。領地の両親も、まさか突然王族が同行することになるなど夢にも思っていないだろう。子爵家にとってもこれは青天の霹靂に違いない。ディアナ達が訪れることはともかく、アルフォンスが急に同行することになった影響は計り知れない。彼の滞在する部屋の格式など、ブライトナーの屋敷は王族を迎えることを想定したものではないのだ。そのあたりをアルフォンスには目をつぶって貰わなければならない。
「無理を言ってる自覚はあるからね、もちろん考慮するよ」
そう言ってアルフォンスが笑う。
入学早々に寮の部屋を変えてくれと言い出したものの、以降は大人しく穴倉のような部屋を我慢して使っていた。あの部屋と比べれば、どんな場所でも快適に過ごすことはできるだろう。
アルフォンスの言葉を聞いて、「自覚はあるんだ」とディアナは密かに目を丸くしていた。
「いっそのこと、わたしの身分も平民だと偽ってもいい」
「殿下!? さすがにそれはいけません」
平民でもいいと口にした途端、バルナバスが慌てた様子でアルフォンスを遮り、アウレールも同意するように激しく頷いていた。
「殿下、平民は普通護衛など付けませんし、付けたとしても護衛ではなく小間使いですわ。もし殿下が平民と偽るのであれば、バルナバス様とアウレール様も平民と偽らなければなりません。また、お二方の普段からの態度も改めなければならないでしょう」
護衛の二人は常にアルフォンスの傍で不測の事態が起こらぬように目を光らせていた。寮でもそれは変わらない。アルフォンスの部屋の前では、どちらかが必ず不寝番として部屋を守り続けていたくらいだ。そのような行動が身に染みている二人が、急にアルフォンスに気安く接することなどできないに違いない。
「できれば侯爵家や伯爵家の令息とした方が、まだ違和感は少ないかと存じます」
クラリッサの提案にしばらく思案顔を浮かべていたが、ひとつ頷くと顔を上げた。
「そうだね。キミ達がそう言うならその通りにしよう」
その言葉に護衛の二人はホッとした表情を浮かべる。
しかし、アルフォンスはそこでニヤリと口角を上げ、ひとつ提案を口にした。
「その代わりと言ってはなんだが、旅行の期間中だけでも、わたしのことはアルフィーと呼んで欲しいんだ」
その提案にはディアナを始め、クラリッサやブルーノはもちろん、護衛の二人も唖然とした表情を浮かべていた。
「で、殿下を愛称で呼ぶのですか?」
クラリッサが動揺しながらも何とか口を開いた。彼女の言葉に、ブルーノもコクコクと小刻みに首を動かしている。
「身分を偽って参加するんだ。キミ達もわたしを殿下と呼ぶわけにはいかないだろう?」
「アルフォンス様でよろしいかと存じますが?」
いくら王族といえど、王や王子の名が広く知られている訳ではない。平民やブルーノのような土地貴族からすれば、王族とは雲の上の存在であり、一生関わることがないのだ。例え名前で呼んだとしてもすぐに第五王子と結び付くことはないだろう。
「いや、これはわたしのわがままだよ。知っての通り、わたしの家庭は複雑でね。愛称で呼び合う仲ではないんだよ。だからクラリッサのように、愛称で呼ばれることに憧れを持っていたんだ。この機会にわたしのことは、気安くアルフィーと呼んで欲しいんだ。何なら愛称で呼び合ってもいい」
「旅行の間だけならば愛称で呼ぶのは構いませんけれど、殿下から愛称で呼ばれるのは申し訳ありませんが、ご遠慮させていただきますわ」
「わたしは特に愛称などありませんし、同じくご遠慮させていただきます」
クラリッサとブルーノの二人はすぐに拒否反応を示した。
継承順位が低いとはいえ、アルフォンスが王子であることに違いはない。その王子と愛称で呼び合う仲だと知られれば、辺境伯家は第五王子に与したと見られかねない。たかが愛称といえども、貴族にとっては非常にデリケートな問題だ。実家への相談もなく簡単に承服できる話ではなかったのだ。
「ん。あたしも嫌」
もちろんディアナは、そのようなことはお構いなしに、ばっさりと拒否した。
「はうっ!」
すると、彼女の差すような視線と拒絶の態度に、刺激を受けたアルフォンスが、胸を押さえてテーブルに突っ伏した。
食後とはいえ、まだ周りには学生が残っている。護衛の二人が慌ててアルフォンスの身体を起こすが、起き上がってきたアルフォンスは、何ともいえないうっとりした表情を浮かべていた。
その顔を、たまたま近くにいた女子学生が目撃してしまい、その少女が「ひっ」と小さく悲鳴を上げたのは言うまでもない。




