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鍋が教えてくれるのよ

ヘイディが、ゆっくりと鍋をかき混ぜていた。

炉端まで椅子を運び、その上にちょこんと立って、ディアナは身を乗り出すようにして鍋の中を覗き込んでいた。

鍋からは甘く、しかしどこか薬草独特の複雑な香りが漂っていた。レードルでかき混ぜられるたび、とろりとした黄色の液体が艶めかしく揺れる。

その美味しそうな見た目と香りに、ディアナのお腹は「くるるる」と可愛らしい音を立てる。しかし、どれほどお腹が鳴ろうとも、ディアナがこの鍋の中身を口にすることはない。見た目からは想像もつかないが、実際には独特のえぐみと苦味が口いっぱいに広がるのだ。そのため、この薬を苦手とする者は多く、もちろん幼いディアナも例外ではなかった。

このえぐみの正体は「アヒレス草」という名の薬草だ。さまざまな魔法薬の材料として扱われ、魔法薬と言えばアヒレス草と言われるほどポピュラーな素材である。

鍋の中にはアヒレス草の他に、「バツヘム」と「カマー」という木の実の粉末が共に煮込まれていた。これらを調合して作られているのは、一般的な回復薬だ。しかし、その効能から「万能薬」とも呼ばれていて、服用しても、あるいは外傷に塗布しても効果のある薬だった。

今日は、久しぶりに降った恵みの雨のおかげで、採取や農作業の仕事がお休みになった。そのため、ヘイディとディアナは二人で回復薬の調合に取り組んでいたのだ。回復薬作りの工程は、まず素材を薬研(やげん)でつぶすところから始まる。薬研とは、金属製の舟形の器具と、中央に軸の付いた円盤状の金属製()き具からなる道具だ。これで薬剤を碾いて粉末にしたり、すり潰して汁を作ったりする。

潰した素材をそれぞれを鍋に入れ、かき混ぜながらゆっくりと煮詰めていく。以前から薬研を使っての下準備は、ディアナも手伝ったことがあった。しかし、火を使う作業は危険だからと、これまで関わらせてもらうことはできなかった。今日は初めて煮詰める作業を見せてもらえるとあって、ディアナは目を輝かせ、飽きることなくヘイディの手元を見つめていた。時折、「これは何?」「どうしてこうするの?」と質問を投げかけるディアナに、ヘイディは優しく応えていた。

鍋の状態を見極め、水を追加したり、素材を追加で投入したりと、回復薬の調合は非常に集中力と根気のいる作業だ。しかし、ディアナは煮詰めてる間はずっと傍にいて、その様子を面白そうに眺めていた。


「そろそろよ。ようく見ててね」


ヘイディの声には、長年の経験からくる自信がにじみ出ていた。

数時間、じっと鍋の前に座り、回復薬の素材が煮込まれる様子を真剣な表情で見つめていたディアナは、元気よく「うん!」と返事をした。


「ほら、今よ」


その言葉と同時に、ヘイディの手が素早く動き、鍋はかまどから上げられた。


「むむむっ?」


ディアナは瞬きもせず見ていたはずなのに、ヘイディが言う「タイミング」が全く分からなかった。眉根を寄せ、小首をかしげるその仕草は、まだ幼い娘の純粋な疑問を物語っていた。


「わからなかった?」


「んん?」


ヘイディの問いかけに、ディアナは困惑の声を漏らす。


「ほら、鍋が教えてくれたでしょう?」


「……全然わかんなかった」


力なく首を振るディアナの姿は、期待と落胆がない交ぜになった、しょんぼりとしたものだった。彼女は母親の「鍋が教えてくれる」という抽象的な言葉を信じ、ずっと鍋を睨んでいた。

しかし、回復薬の素材がただグツグツと煮込まれていただけで、鍋自体が何か変化したようには見えなかったのだ。音も、色も、香りも、彼女には特別な変化を感じ取ることができなかった。


「まぁ誰でも最初はそんなものよ。何度か見てればわかるようになるわ」


ヘイディは慰めるようにそう言って、ディアナの頭を優しく撫でた。彼女自身も、調合を始めてから何年も経って、ようやく鍋の「声」が聞こえるようになったのだ。

だが、母親の慰めにもディアナは納得しきれないようだった。彼女の大きな瞳にはうっすらと涙が浮かび、ヘイディを見上げた。


「ねぇお母さん。お鍋はお口がないのにどうやって教えてくれるの?」


純粋で真っ直ぐなその問いに、ヘイディは優しく微笑んだ。


「そうねぇ……」


ヘイディは説明しようとしたが、すぐにその先が出てこない。彼女が言う「鍋が教えてくれる」というのは、実際に鍋が言葉や合図のようなものを送るわけではないからだ。それはむしろ、長年の経験と感覚が織りなす、研ぎ澄まされた直感に近いものだった。

彼女の場合、薬を煮込んでいると、ある特定のタイミングで鍋が微かに震えているような感覚を覚えるのだ。それは物理的な振動というよりも、五感を越えた「何か」が、鍋から伝わってくるような不思議な感覚だった。

昔からそのタイミングで鍋を火から下ろすと、決まって品質のよい魔法薬ができあがっていた。そのタイミングはいつも一定ではなく、その日の天候や、使っている薬草の状態によっても左右される。ある日は長く感じられ、またある日は短い時間でその瞬間が訪れる。それでも共通するのは、煮詰めていれば何となく「今だ」と教えてくれるような確かな感覚がある、ということだった。その漠然とした、しかし確実な感覚を、幼いディアナに分かりやすく言葉で説明するのは至難の業に思えた。ましてや、幼い頃から直感で魔法を使ってきたような彼女とって、その感覚を論理的に、かつ分かりやすく言葉で説明するのは無理な話だった。


「何度も調合を繰り返してれば、ある日突然聞こえるようになるわ」


ヘイディは、自らの経験を語るように、そっとディアナの頭を撫でながら言った。


「ほんと!?」


「本当よ。お母さんだって、最初からお鍋の声が聞こえた訳じゃないもの。ある日突然聞こえるようになったのよ。だけど、お鍋の声はとっても小さいから、聞き逃さないように集中すること。そうすればきっとディアナにもわかるようになるわよ」


答えに窮したヘイディだったが、これは紛れもない真実だった。どうしてこのような感覚が身についたのかは、彼女自身にも分からなかった。ただひたすらに、日々、魔法薬の調合を繰り返しているうちに、いつの間にか「何となくわかる」ようになったのだ。

そう説明すると、なぜかディアナのやる気に火を付けたらしい。


「じゃあもっとたくさん練習して、いつかお母さんみたいに魔法薬を作れるようになる!」


目を輝かせ、やる気をみなぎらせる娘に、ヘイディは笑顔を浮かべて、もう一度、愛おしそうに頭をなでた。


「そうね、あなたならきっとできるわ。お母さんも楽しみにしてる。だけど、魔法の練習みたいに急がなくていいのよ。魔法薬は、ゆっくりでいいのよ。あなたは放っておくと、根を詰めて頑張りすぎるから、お母さんもお父さんも心配になるわ」


「でも、早くお母さんみたいな魔法士さんになりたいもん」


ゆっくりでいいと言われながらも、ヘイディの手を頭に載せたまま、ディアナは上目遣いに口を尖らせる。


「お母さんだってディアナが魔法士さんになるのを応援しているわ。だけど今だって、お母さんの代わりに雨を降らせてくれてるし、ペトルの面倒だって見てくれてるでしょ? それに魔力循環や身体強化魔法の練習だって欠かさず頑張ってるじゃない。今でもいろいろ大変なのに、調合の練習も始めたら遊ぶ時間がなくなっちゃうわよ?」


ディアナに視線を合わせるようにかがんだヘイディが、彼女の澄んだ目を見ながら、やさしく問いかけた。


「ん、大変?」


ディアナは、きょとんとした表情で首を傾げた。その顔には、今の自分の状況を「大変」だと認識していなかった純粋な疑問が浮かんでいた。


「そうよ、あなたは今でもいろいろお手伝いもしてくれてるじゃない。今はまだそんなに頑張らなくてもいいのよ?」


「ん?」


「えっ!?」


どうにも会話がかみ合わず、お互い疑問符を浮かべたまま首をかしげる。その仕草はさすが親子というべきか、そっくりだった。


「ぷっ!」


「えへへっ」


しばらく顔を見合わせていた二人が笑い出したのは同時だった。どちらからともなく、くすくすと笑い声が漏れ、それがつられて大きな笑い声へと変わっていく。


「えっと、もしかして大変だと考えてないの?」


ヘイディは少し落ち着いてから、もう一度ディアナに問いかけた。もしかしたら、自分の認識とディアナの認識に大きなズレがあるのかもしれないと感じたからだ。


「お母さんの言ってる大変っていうのがよくわかんない」


ディアナは素直に首を横に振った。ヘイディが何を「大変」だと捉えているのか、彼女には全く見当がつかないようだった。


「だって森に採取に行ったり、ペトルの面倒をみたり、最近では村のあちこちで雨を降らせたりしてるじゃない。それ以外にも魔法の練習もしてるでしょ? それに魔法薬の調合まで加えたらかなり大変よ?」


ヘイディは具体例を挙げながら、ディアナがどれだけ多くのことをこなしているかを説明した。一つ一つの行動を羅列するだけでも、その多さにヘイディ自身も改めて驚いていた。


「うーん、ちょっと違う、かな?」


少し考える仕草をしたディアナは、ヘイディに視線を向けるとフルフルと首を横に振った。


「違うの?」


ディアナが「違う」と言う理由が、彼女には全く理解できなかったからだ。


「だって全部いっぺんにすると大変かもだけど、採取のときにペトルの面倒をみるくらいで、それ以外は一緒にはしないよ?」


ディアナの言葉に、ヘイディは目から鱗が落ちる思いだった。ディアナ一人で採取に行くこともあるが、ここ最近は動けるようになってきたペトルの面倒をみながら一緒に採取することも増えてきていた。彼女が口にしたように、雨を降らせることも魔法の練習も、それぞれ個別におこなう案件だ。

魔法の練習は毎日おこなっているが、一人で採取に行くとき以外は、寝る前にすることが多いため基本的に他のことと重なることはない。雨を降らせることも、ディアナは魔法を練習することと同じような感覚だ。

彼女が関わっていることをひとつずつ数えたら意外と多いため、周りからすれば大変だろうと思っていても、本人は存外気にしていないようだった。ディアナにとっては、すべてが日常の一部であり、楽しみであった。


「それに魔法の練習は楽しいし、雨を降らせるのだってお母さんのお手伝いができて嬉しいもん」


「そうなんだ……」


ヘイディは、ディアナの言葉に深く納得した。自分が娘を心配しすぎていたのかもしれない。ディアナは、自分で思っている以上に強く、そして楽しんで毎日を過ごしているのだと、ヘイディは改めて実感した。

ヘイディはこみ上げてくるものをこらえて、ディアナをやさしく抱きしめた。

降雨魔法を使うディアナの姿を見るたびに、その小さな体に大きな負担がかかっているのではないかと、胸を締め付けられるような罪悪感を覚えていたのだ。しかし、ディアナの言葉は、ヘイディのその思い込みを打ち砕いた。ディアナは、決して無理をしているわけではない。むしろ、ヘイディの手伝いができることを喜び、魔法を使うことを楽しんでいる。そのことに気づかされたヘイディの心は、温かい光に包まれていった。


「わかったわ。これからお母さんは、もうあなたを止めたりしないわ。だからあなたはあなたの好きなようにやりなさい。その代わりしんどいと感じたら必ず言うのよ。いいわね?」


「うん、ありがとうお母さん!」


ヘイディの言葉にギューッと強く抱きついたディアナは、目を細めながら嬉しそうに笑った。

これがディアナの自制心という()()が外れた瞬間であった。

ディアナが規格外へと足を踏み出しました。


2025/10/13 加筆・修正を行いました。

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