プロローグ
王立魔法学院アルケミアの二年目が始まります。
「ん?」
長期休暇が終わりに近づいた頃、アルケミアに戻ってきたディアナ、クラリッサ、そしてブルーノの三人は、アインホルン寮のいつもと違う雰囲気に首をかしげた。だならぬ緊張感が空気中に満ちており、普段は談笑の声が響き、のんびりとした空気に包まれているはずの談話室は、重苦しい静寂とざわめきに包まれていた。
「どうかしたのですか?」
クラリッサが近くにいた上級生に尋ねると、その学生は表情を曇らせ、困惑と警戒の色をにじませながら答えた。
「今年の新入生の中に、どうやら第五王子殿下がいらっしゃるらしいんだ。しかも、我々のアインホルン寮に入寮されることになったようなんだ……」
第五王子――その言葉に、クラリッサが思わずといった様子で呟いた。
「王族がアルケミアに入学するなんて珍しいですわね。王族とは本来、わたくし達が何があっても守らねばならない存在。例えるなら、レヴィアカンプフェのシンボル像のようなものですわ。王族の中にも騎士や魔法士はいますけど、余程のことがない限り前線に立つことはないと聞いていますけれど……」
クラリッサが疑問に思うのも無理はなかった。
アルケミアを含め、各地の魔法学校は、将来の魔法士の卵達を育成することを目的としている。そして、魔法士の目的は王国の守護であった。その中でも、王宮魔法師は王都を守る最高戦力として広く認識されており、たとえ紛争や大規模な災害によって各地に王宮魔法師が派遣される場合でも、王都防衛のために常に何名かが残されることがその重要性を示していた。
世間ではあまり知られていないことだが、第五王子は側室の子であるため、王位を継承する可能性はほとんどないと言われていた。だが、王族という立場から将来の王の補佐をすることを求められた彼は、政治向きの補佐をおこなうよりも、恵まれた魔力量を持っていたことから、それを活かす道を選んだ。そして、今回アルケミア入学へと至ったのだ。もちろん、そのために密かに魔法の鍛錬を重ね、学院の厳しい授業について行けると判断された上で、ついにアルケミアへの編入が認められたのである。
「その件で今、ライナーとエラがフリーダ先生に、どう接すればいいか相談に行ってるんだ」
ハウスリーダーであるライナーとガブリエーレにとって、この事態はまさに青天の霹靂だった。新入生の一人として平等に接するべきか、それとも王族として特別に配慮するべきか。その対応一つで、寮内の秩序や雰囲気、ひいては彼ら自身の立場にまで大きく影響する。
学校という場所にもかかわらず、王族から王宮と同じような対応を求められても困る。下手をすれば対応したほとんどの者が、不敬罪で罰せられる事態になりかねないだろう。二人は慌ただしく寮監のフリーダの元へ向かい、その答えを探ろうとしてるようだった。
「ふうん」
もしその不敬罪が適用されれば、真っ先に罰せられそうなディアナは、全く興味のない様子で相槌を打っていた。彼女にとっては、王族であろうと一般人であろうと、それほど大きな違いはない。それよりも今最も重要なことは、今日の夕食の献立だ。ディアナはお腹をさすりながら、夕食の時間が早く来ないかと心待ちにしていた。彼女の頭の中は、これから供されるであろう美味しい食事のことでいっぱいだったのである。
ディアナが心待ちにしていた夕食の時間はあっという間に過ぎ、談話室には二年生と三年生が全員招集されていた。中央に立つライナーとガブリエーレの二人は、夕食時の和やかな雰囲気とは打って変わって、硬い表情を浮かべていた。
「皆に報告がある。すでに耳にしている者もいるだろうが、このたび王家の第五王子アルフォンス殿下が、我々のアインホルン寮に入寮されることになった」
ライナーの言葉に、寮内はざわめきに包まれた。「やっぱり」と顔を歪める者、あるいは「えっ!?」と寝耳に水のような顔を浮かべる者など、反応は様々だった。しかし、次の言葉を待つかのように、そのざわめきは次第に静まり返り、しんと静寂が訪れた。皆の視線が、ライナーとガブリエーレに集中する。
「寮には、アルフォンス殿下と護衛役の側近二人の計三名が入寮します。殿下は魔力が高く、アルケミアへの入学はご本人のたっての希望だそうよ」
「三人も!?」
ガブリエーレがおっとりとした口調で説明を続ける。
アルフォンスの実力は、教師達が行った特別試験によって高く評価され、合格と判断されたという。しかし、問題は側近たちの実力だった。現時点では、彼らが魔法士なのかどうかも不明で、ただアルフォンスと同世代の少年だという情報だけが伝えられていた。王族の側近という立場上、彼らが特別な訓練を受けていることは想像に難くないが、それが魔法に関するものなのか、あるいは剣術などの護衛術なのか、一切の情報がなかった。
アルフォンスだけではなく、王族の側近を務めるような者を含めて三名も入学してくることに、寮内には露骨に嫌な顔を浮かべる者も少なくなかった。アルケミアは実力主義の学園であり、王族であろうと特別扱いはしないという建前があった。しかし、内心では誰もがその建前がどこまで通用するのか、不安に感じていた。寮内は、歓迎ムードとは程遠い、重苦しい雰囲気に包まれていく。
「それで、王族相手に俺たちはどう対応すればいいんだ?」
上級生の一人が、皆が最も気にしていることを代表するように尋ねた。
アルケミアの学生の半数以上が平民出身である。そして、貴族出身だとしても、上級貴族でない限り、王族と直接言葉を交わす機会などまずない。そのため、学校に通う貴族の中にも、王族の対応に慣れた者などほとんどいないのが実情だった。王族に無礼を働けば、取り返しのつかない事態になりかねない。そういった不安が、寮生たちの心を支配していた。
「そこは安心してくれ。殿下の希望により、普通の学生の一人として扱って欲しいとのことだ。もちろん乱暴な物言いはダメだろうが、過度に気を遣う必要はないはずだ」
ライナーの説明に、寮生達は表面上は安堵の息を漏らした。しかし、その場の重苦しい雰囲気が消えることはなかった。気を遣う必要はないと言っても、何が王族の逆鱗触れるか分からない状態で、普段通りに接することなどできるはずがない。王族と知り合うことなどまたとない機会だったが、それ以上に緊張感の方がはるかに大きかった。誰もが、これからの寮生活がどうなるのか、不安を抱いていた。
「クラリッサ様は、アルフォンス殿下をご存じですか?」
ブルーノが辺境伯令嬢であるクラリッサに尋ねた。王都にも屋敷がある辺境伯家ならば、王族と交流があるかもしれないという期待からだった。
「わたくしは挨拶程度しかお会いしたことはありませんわね」
クラリッサは、白い頬にそっと手を当て、記憶を手繰り寄せるように静かに答えた。
あれはまだユンカーに入学する前のこと。
幼いクラリッサが父に連れられて、王への謁見を賜った特別な日だった。広間には、王家の威厳を示すかのように煌びやかな装飾が施され、その中でアルフォンスは他の王子や王女たちと並んで立っていた。
色白で、どこか神経質そうな繊細な表情をしていたが、燃えるように鮮やかな真紅の髪と、吸い込まれるような赤い瞳は、居並ぶ兄弟の誰よりも、強く国王陛下の血筋を色濃く受け継いでいることを示していた。その圧倒的な存在感は、幼いクラリッサの記憶にも鮮明に焼き付いていた。
しかし、言葉を交わしたのは形式的な挨拶のみで、それ以降、彼女は王城を訪れる機会がなかったため、アルフォンスに会ったのもそれが最初で最後だった。
ただ、あのときの王子の表情からは、微塵も気さくさを感じ取ることはできなかった。むしろ、気位の高い、まるで全てを見透かすかのような鋭い目で、クラリッサを睥睨するように見下ろしていたのが忘れられない。あのときの高圧的な表情が、ライナーの言う「ごく普通の学生の一人」という言葉とどうしても結びつかず、彼女の胸中には密かに漠然とした不安が募っていた。
「どうしたの?」
ふと、顔を覗き込むようにして、ディアナが心配そうにクラリッサを見上げていた。
「いえ、何でもありませんわ」
クラリッサは、内心の動揺を悟られまいと、努めて平静を装って答えた。
「そう? むぅってなってた」
そう言って、ディアナが可愛らしく眉間に皺を寄せる。どうやら、知らず知らずのうちに不安が表情に出てしまっていたらしい。
もしアルフォンスがクラリッサが抱いた印象通りの、あの高慢な態度を崩さない人物であれば、せっかくの居心地のいい寮内は穏やかではいられないだろう。その時、アルフォンス王子に強く反発するのは、間違いなくディアナだ。
ディアナは、相手が王族であろうと、理不尽な態度には全力で抗うに違いない。いつもなら全力で彼女を守ろうとするクラリッサだったが、彼女自身が王国を支える貴族である以上、王族への忠誠は絶対的なものとして課せられている。その板挟みになる可能性を考えると、胸が締め付けられる思いだった。
「大丈夫ですわ」
クラリッサは、心に沸き上がる不安をディアナに悟らせないよう、精一杯の笑顔を浮かべるのだった。