90 信じてって言ったのに
慎重にドアレバーを押し、部屋を覗き込んだ。
レイチェルの視線を背後に感じながら。
不自然に見えない程度に、ゆっくり。
明かりつけた。
変化は感じられない。
振り返ると、レイチェルがまた手を振ってきた。
ドアを閉め、スコープを覗くと、レイチェルの姿はなかった。
ンドペキは、急いで装備を身につけると、再びドアスコープを覗いた。
いない。
けっ、下手な芝居を見せやがって。
あれじゃ、いかれた娘じゃないか。
なにが、肩を揉んだげようか、だ。
ンドペキは部屋を出、後ろを気にしながら城門まで来た。
いつもの夜の城門。
出入りは禁止されていない。
衛兵も、いつもどおり、退屈そうに外を睨んでいる。
「仕事か」
声を掛けてくる。見知った顔だ。
「おう。行って来る」
「気をつけてな」
城門を抜けると、ンドペキは一気に走り出した。
街を出るに手間取ったが、そのおかげで装備は身につけることができた。
早ければ夜半には洞窟に着ける。
走りながら、これまでのことを反芻したが、すぐに考えることをやめた。
何度考えたって何も始まらない。
それより、一刻も早く洞窟に着くことが先決。
そして、スイッチひとつで肉体を消滅させられる事態から逃れることだ。
あそこなら、と淡い期待を持って。
それにしても、女が言った「抹消」とはどういうことだろう。
サリの時と同じだろうか。
通常、刑罰は六段階に分かれている。
今の社会では、刑罰は極めて簡素化されている。
社会的な経費負担を減らすため。
最低のレベルⅥからレベルⅠまで。
レベルⅥからⅣまでは罰金刑や強制労働、強制再生といった刑。
Ⅲは強制再生と記憶の完全な抹消。
レベルⅡは、いわゆる死刑。肉体と記憶の消失である。
瞬時に消え失せ、再生されることはない。
そして最高刑のレベルⅠ。
ヘブンズゲイトと呼ばれる牢獄送り。
人を殺したからといって、この刑に処せられるものではない。それほどの重罪。
別名、ペインズベッドとも呼ばれている。
言葉にできない激痛が全身を駆け巡り、耐え切れずに死ぬ。
瞬く間に思考と神経のみが再生されるやいなや、またその苦痛が襲ってくる。
その繰り返し。しかも無期限。いつ終るとも知れない。
ただ、たとえそれが数十年間続こうとも、刑期が終わったときに正気を保っていたなら社会復帰は可能。
しかし耐えられる人間は万人にひとりもいない。
一応、希望の光はあると見せかけてあるのみ。
ンドペキは、サリを殺してレベルⅡの普通の死刑を狙っていた。
つまり、己の消滅。
ただ、もうひとつ、ベールに包まれた刑があると言われている。
ヘブンズゲイトに替わる刑といわれている。
閉じ込められるのだ。何も与えられず。
そこで何が待ち構えているのか、誰も知らない。
いずれ、囚人は死ぬ。
再生されることはない。
重要な政治犯や、社会的影響力の大きい犯罪人が処せられる刑。
そういわれているが、実態は不明。
事例は稀だ。
ちなみに、その刑が執行される街はニューキーツ。
世界中の街から、該当する囚人がこの街に搬送されてくるらしい。
「抹消」がレベルⅡの死刑をいうのなら、元々望んでいたことではないか。
ンドペキは、今こうして荒野を走りながら、刑を回避しようとしている自分がおかしかった。
やれやれ。
いったい、今まで俺は何を考えていたんだ。
死にたいなんて。
単に暇だったから、なのか。
生きていく希望が見つけられず、妄想を膨らませていただけだったのか。
今もイライラは募るし、腹も立つ。
しかし、死にたいかと問われれば、今なら生きていたいと答えるだろう。
死が怖いわけではない。
それは明確に言える。
なんとなく……、心に明りが灯ったとでも言うべきか。
不思議な感触があった。
そう。
謎が多すぎる。
その解を知らずに死ねるものか、という気さえするのだった。
謎を解くことが生きていく目的、とまでは言わないが、少なくとも、今を生きる心の張りをもたらしてくれてはいる。
洞窟の女の素性を知りたい。
彼女は俺の、なんだった。
殺傷マシンも現れず、快調に飛ばしていった。
数キロほど来たところで、待っている者があった。
「待たせたな」
確かめるまでもなく、あの女だった。
「信じてって言ったのに、あなたって人は」
ンドペキがフル装備に着替えてきたことを非難しているのだ。
「いや、事情が」
「もういい!」
女は猛然と走り出した。
足元に、ヘッダーと走行補助装置の付いたブーツが放り出されてあった。
彼女が用意してくれていたもの。
「すまない」
ついていくのがやっとで、事情を説明するどころではなかった。