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68 忘却がどれほど大きな罪か

 大広間は先ほどと同じように、瀬音が静かさを際立たせていた。


 脱ぎ捨てたスーツも武器も、そのままの状態にある。

 テーブルも椅子も、ボトルもグラスも誰かに触れられた形跡はない。

 電灯はほのかな光を変わることなく投げかけ続けている。



 しかし、ンドペキは胸騒ぎを覚えた。


 大広間からいくつか伸びている暗い通路。

 その通路に誰かいて、こちらの気配を窺っているような。


 ンドペキは何食わぬ顔でテーブルに近寄り、いつでも武器を手にできる位置に立った。

 



 女は明日の会談について、さらに、

「でも、あなたには覚えておいて欲しいことがある」という。


 そして、椅子に腰掛け、グラスの水を飲んだ。

「簡単なこと。交渉相手を注意深く見ること」


 女はそう説明したが、心なしか、顔が青ざめていた。

 それきり、黙り込んでしまった。



 ンドペキの兵士としての感覚が、何者かの存在を告げている。

 敵意は感じられないものの。


 周囲に注意を払いながら、女を見つめた。

 女は、くるくるとよく動く瞳を閉じていた。


 先ほどまでの闊達さはどこへやら。

 悄然として、睫毛を伏せている。




 何から何までわからない女だ。

 しかし、ンドペキには、いとおしいという感情が生まれてもいた。


 この女と以前会ったことがある、という感触を持った。

 失われた記憶の時代に。




「ところで、おまえの名は。そろそろ聞かせてくれてもいいんじゃないか」


 女は、大きく溜息をついて、肩を落とした。

 グラスをテーブルに置くと、両手を膝に揃えた。


 そしてまた吐息。




「これだけ、一緒にいて、話もして、私の顔を見て、私の声を聞いても、思い出さないんだ」

 と、顔を上げずに言った。


 指先が震えていた。

 きれいな爪をしていた。

 そこにぽつんと涙の粒が落ちた。




 やはりそうだったのか。

 ンドペキは、自分の記憶の浅はかさを呪った。


「……」


 また、涙の粒。


「……、すまない」



 恋人だった人だろうか。

 あるいは妻だった人だろうか。

 言葉遣いからすると、娘ではなかったようだ。

 まさか、母、いや、それはない。


 あるいはかつて所属していた部隊の仲間……。

 それなら涙を見せることはないだろうし、素肌を見せることもないだろう。




 答の見つからないまま、ンドペキは女の手に触れようとした。

 しかし女は、すっと手を引っ込めてしまう。


 それはそうだろう。

 いとしい人だったであろう者の名前も顔も忘れて、手をとったところで、どんな言葉を掛ければよいのか。



「私の肌に触れたからといって、思い出しそうもないからね」

 女が顔を上げた。

 赤い目にもう涙は溜まっていなかったが、切ない目をしていた。

「それに、叱られちゃうから」


 そして立ち上がった。

「そろそろあなたは帰らなくちゃ。明日は大事なお仕事」

「ああ。で、誰に叱られるって?」

「自分で確かめてね」





 女は、自分の部屋に残ると言ってきかなかった。

 何者かの存在を感じると説明しても、そんなことはないと取り合おうとしなかった。


「今晩のことは、誰にも言わないで。そのときが来るまで」

 椅子から立ち上がろうとさえしなかった。


 表情から笑みは消え、苦悩だけが貼りついていた。


「気をつけろよ。何かが我々を見ている」

 ンドペキはそう言い残し、後ろ髪を引かれる思いで大広間を後にした。




 ああ、情けない記憶力。

 傷つけることしかできない自分には、ここに居続ける資格はない。


「私のこと、もう忘れないでよ」


 振り向くと、女が小さく手を振ったのだった。




 忘却がどれほど大きな罪か。


 そんなことを考えてしまう自分のセンチメンタルに嫌気がさしながら、洞窟を出た。


 月が出ていた。

 周りの景色が目に入った。

 深い山の中。うっそうと茂る木々。

 黒々とした巨岩の群れ。

 入り口の岩の隙間は、そうと言われなければ、それだとは思えないほど、小さい。

 頼り気なく、灌木の緑に埋没して覆い隠されていた。


「しまった。約束とは」


 今更、聞くべきことを思い出した。

 しかし、相手を思い出しもしないのだから、交わした約束など何の意味があるだろう。

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