67 悪夢が現実になる魔法がかかっていたら
人といるとき、その人と一緒に居るだけで楽しい、それは大切な感覚。
それがなければ、たとえどんなに面白い話をしようが、美しいものを見ようが、いい仕事ができようが、場合によっては抱き寄せたり、キスしようが、すべては虚しい。
この女から発散されている、一緒に居るだけで楽しい、というシンプルだが基本的な心情に、ンドペキは感染していた。
同じ気持ちが、芽生えていた。
しかしンドペキは、フムと頷くばかりで、冗談を言うようなことはしなかった。
何しろ、ここをなぜ使うことになるのか、まったくわからない。
しかも女は、ここに篭城するかのような口ぶりである。
サリを殺そうとしたことで、政府に追われているとでも考えているのか。
女の解説に、どんな反応をすればいいのかわからなかった。
「本当は、使わない方がいいのにね」
「じゃ、なぜ、こういうことをする」
「そういう運命なのよ、きっと」
女はそう言って、溜息をついた。
「さ、大切なところに案内するわね」
向かった先は、洞窟の奥部。
大広間に比べると、ふた周りほど小さい広間。
バレーボールコートくらいだろうか。天井もそれほど高くはない。
「瞑想の間って呼んでる」
「やたら広いところで瞑想するんだな」
「そうよ。真ん中にラグを敷いてね」
ここにも水が流れている。
流速はあるかないかという程度だが、かなり深い。
光は底まで届かず、黒々として、何者かが潜んでいるような気もした。
ここにも照明が灯されてあった。
家具の類はない。
出入り口は二箇所のみ。
「ここから先は、行かない方がいいわよ。理由は危険だから、とだけ言っておくけど」
「恐ろしい魔物がいるってわけだな」
「ま、そういうこと。魔物とはちょっと違うけどね」
「そいつが、こっちに出てくることはないのか」
「来ない。彼は自分の持ち場を離れないのよ」
「彼……、了解」
「ただ、万一の時には、ここを抜けていくのよ。とても長い長い通路が続いているわ。洞窟のもう一つの隠された出口に繋がっているはず」
「行ってみたことはないんだな」
「だって怖いじゃない。もしもよ、本当はどこにも出口がなかったら? 奈落に繋がってるだけだったら?」
女が肩をすくめて、顔を近付け、真剣な目をした。
森羅万象、あらゆる物質を溶かしてしまう有毒ガスが充満していたら、どうする?
一瞬にして生気を吸い取ってしまう、恐ろしい化け物が行く手を阻んでいたら、どうする?
逃げる間もなく天井が落ちて、ペッシャンコに押しつぶされる仕掛けがあったら、どうする?
女が恐怖の例を並べたてた。
「もっと恐ろしい場合もあるよ」
引き返すことができないよう、振り返った瞬間、無限の通路が現れる魔法がかかっていたら、どうする?
悪夢が現実になる魔法がかかっていたら、どうする?
どんどん若返って赤ちゃんになって、最後は消えてしまう魔法がかかっていたら、どうする?
「怖いじゃない」
「しかし、万一のときはそこを抜けろと」
「そういうこと」
女はンドペキの目をじっと覗き込んだが、すっと視線を外すと、帰ろうという仕草をみせた。
「さ、あなたが先に歩いて。ちゃんと大広間まで帰れるかどうか、テストするから。通路がたくさん枝分かれしてたけど、間違わないよね」
「間違わない。メインストリートにある照明器具にはバラの模様の刻印があり、脇道は剣や月や星。稲妻みたいな模様もあったな」
「お、すごい。観察力はさすが。へへ、それを説明するのを忘れてた」
大広間まで戻る途中、女は明日の会談のことに触れた。
交渉は同行する者に任せて、ンドペキは黙っておればよいという。
ただ交渉が、それは違う、という方に向かったときには、自分の正しいと思う行動をすればよいともいう。
「相手は、女性ひとり。こちらも女性ひとり。あなたは一応はこちら側だけど、正義の使者として立ち会う。そんな役割ね。大げさにいえば」
「何の交渉なんだ」
「それは話せない。条件によって、様々に変わるかもしれないから。ただ言えることは、相手は好戦的ではないということ」
ンドペキは彼らを見たときのことを思い浮かべた。
川原や森の中で静かに暮らしているかに見える穏やかなコロニー。
黒く大きなアンバランスな肢体。
水の上を労なく歩いてきた……。
「彼らはただ、存在を認めて欲しいだけだから」