59 思い出そうとする行為
ンドペキは落ちつかなかった。
自分が指名された会談は明日。
昨日の作戦以来、ハクシュウからは何の指示もない。
自分の役割はなにか。
どう振舞えばいいのか。
教えてくれる者がいないばかりか、あの連中が何者なのか、レイチェルとは誰なのか、何のための会談なのか、という基本的な情報さえなかった。
スジーウォンやコリネルスらに聞いても、誰もまともな言葉を返してこない。
答えようがないからなのか、自分だけに伏せられていることだからなのか。
いてもたってもいられない気分だった。
とはいえ、口外無用と、ハクシュウから釘を刺されている。
知人と呼べる者はいなかったし、共用のデータベースにレイチェルという名をインプットすることもためらわれた。
俺は、なにか大切なことを失念してしまっているのか……。
記憶を呼び戻そうと試みる。
いつものように。
マトになる以前のことは、欠片さえ覚えていない。
どこの国の人間で、どんな暮らしをし、なんという名であったかさえ。
わずか六百年ほど前のことだというのに。
その記憶はどこかにあるのだろうか。
あるいは記録として残されているのだろうか。
それを手繰り寄せることができないだけなのだろうか。
実は、六百年はおろか、数オールド前の自分のことさえ、霧の向こうの人影のようにおぼろだった。
この街の兵士になる前は……。
つまり、一オールド前は……。
アジア大陸のホルンプールという街に住んでいた。
大手の輸送会社に勤めていた。
ンドペキではない名を名乗って。
厳しいノルマがあったが、それなりの暮らしをしていた。ただ、家族はない。
独り身の身軽さで、再生を機に、ニューキーツに移り住んだ。
新しく生き直すことにしたのだ。
兵士になるつもりではなかった。
商売を始めたい。
静かな暮らしがしたい。
そんなホロホロとした思いを持っていた。
しかし、ニューキーツは思った以上に小さな街だった。
小さければ小さいほど、民業は育たない。
あるいは阻止され、街の政府の力は強大となる。
ニューキーツでは、食料、エネルギー、情報通信といった基幹産業はすべて政府直営か、政府系の企業が押さえていた。
製造業や小売業でさえ、これといったものはすべて政府系組織が運営していた。
個人レベルであれ、企業レベルであれ、庶民ができる商売といえば、小さな商い、小さなサービス業程度のもの。
仮にその商売が上手くいっても、少し大きく成長するとたちまち政府に飲み込まれてしまう。
安定した職業といえば、政府の役人か、政府系企業で働くことしかない。
昔と変わらないと言えばそれまでだが、その存在は絶対的なもの。
そして、政府に勤めるということは、常に政府に監視される対象になる、と同義だった。
当時、俺はまだ、世を捨てていたわけではない。
自由でありたい。
そんな淡い気持ちを失いたくなかっただけ。
兵士になった。
食べていくために。
自分らしく生きていくために。
これが初めてではない。
むしろ慣れた職業。
兵士をしながら、チャンスを待とうと思ったのだった。
しかし、チャンスは訪れなかった。
ただ、それだけのこと。
その間、俺はどんなやつと出会っただろう。
レイチェル……。
その名を記憶の中にいくら転がしてみても、何かに触れることなく、どこかに消えてしまう。
ニューキーツでのことだろうか。
あるいは一オールド前か、もっと以前か……。
会談の代表に指名されるのだから、それなりの地位にある者だろうが……。
しかし、俺にはそんな地位も何もない……。
今も昔も……。
思い出そうとする行為。
次々と記憶を失くしていく者にとって、それは身を無理に捩るような鈍い苦痛を伴う。