597 空気のように……、心を澄ませて……
風が吹いていたことに気がついた。
いや、風の音ではない。
遠くで何か、ささやくような……。
ラジオが鳴っている……。
早口のDJが何かを話している、あるいは音楽か……。
「聞こうとしちゃだめ。声を出しちゃだめ」
スゥのささやく声がした。
「空気のように……、心を澄ませて……」
まぶたに浮んでくるものがある……。
おぼろな影……。
森の中……。
夜だ。
大きな木の根元に、人影……。
少しずつ見えてくる……。
小さな女の子と、若く美しい女性……。
女の子は木の幹に耳を寄せて……。
音……。
ラジオじゃない。
水の音……。
小さな電灯が近づいてくる。
ひとつ……、またひとつ……。
くりのきからすな……。
後はよく聞きとれない。
そう思った途端、まぶたの裏は元の黒一色の世界に戻った。
もう何も見えないし、聞こえもしなかった。
ンドペキは薄く目を開けた。
すぐ目の前に、スゥのシルエットがあった。
ンドペキはまだ呆然としていた。
スゥの顔が近づいてきて、唇が触れた。
唇が触れるか触れないかのかすかなキス。
互いに体は触れないまま。
唇の感触だけが相手の存在であるかのように。
どれほど、そうしていただろうか。
ンドペキはいつしか、再び目を瞑り、幻の世界に戻っていった。
作者注:
ここに出てきます一連の幻影は、ミステリー小説「ノブ、ずるいやん」のシーンです。そちらも、ぜひお読みください。イコマ、ユウ、アヤが主人公で時代設定が現在の推理小説です。




