56 安全策の話題
ダイニングに戻り、テーブルについた。
昔の私の指定席。
「自殺願望のマトはとても多いよね。それを請け負う闇商売もあるって」
無理やり、現実的な噂話に話題を変えた。
昨日の話の続きを意識して。
聞かれていることを前提にした会話。
やりきれない思いだが、今の社会では仕方がない。
怪しまれておじさんの身に何かあれば、それこそ取り返しがつかない。
おじさんさえ無事なら自分はどうなってもいい、そう思った。
「再生しない完全なる死、だね」
おじさんも話を合わせてくる。
「そう。どの街にもひとりやふたり、いるらしいよ」
「へえ」
「死亡が確認されない深い海に身を投げる。自分が再生不可になるために殺人を犯す。そんな人も多いけど、そのどちらもできない人もいるよね。そういう人のための商売」
街の外に出れば、政府の監視が届かないところもあるかもしれない。
カメラやレーダーや、衛星の目や、電波を介した会話を拾うシステムの手薄なところが。
しかし、兵士でない者が街の外に出ることはできない。物理的に無理なこと。
殺傷兵器から身を守れないし、有毒ガスに耐えられる装備も持っていない。
政府機関で働く者はなおさら。
街の外へ出て行くなど、どんな理由があるのかと、たちまち怪しまれてしまう。
「私はもう、記憶を完全に抹消されない限り、今の仕事を辞めることはできないの」
思わず弱音を吐いた。
「そういう仕事に就いたんだから。自分を大切に、としか言いようがないよ」
おじさんは、少し離れたところに座って、くつろいだ声を出している。
心に生じた波を、できるだけ声に出さないようにして。
「そうよね。こうしてパパとまた会えて、今は幸せ」
「ぼくも」
「妙に言い寄ってくる男もいるしね」
そんな話をする気はなかったのだが、自然体で、と意識したあまりに、思わず口から出てしまった。
「へえ! そりゃいい!」
「相手はメルキト」
実際、当たり障りのない話題である。
彼に特別な感情はないから。
「ううん、もしかするとアンドロかも」
「アンドロ?」
「仕事場の人。あいにく、こっちは関心ないけど」
人造人間には、製造目的以外の思考能力はない。
しかし、画一的ではないのも事実である。
「本当は違うのよ」
そんな話をしようと思った。
秘密にしておかねばならない情報ではないはずだから。
「アンドロにもいろんな種類があるよね。パパはニューキーツの街の人口、どれくらいだと思ってる?」
「さあ、ニューキーツは世界を見渡しても、小さな街の部類に入るだろうな。一応、全部合わせてせいぜい十五、六万」
「ハハ、ぜんぜん。五十万以上。人数の上で、圧倒的派閥はアンドロ」
「そうなのか」
おじさんは特に驚いた風でもない。
あくまで、淡々とした声だ。
「いわゆる街の人の目にはあまりつかないけどね」
「ああ」
「お店をしたり、兵士をしたり。そんなマトやメルキトがどうしても目立つけど、彼らはごく少数派。極端な言い方をすると、私達が暮らしている部分や、活動していることは、街の機能のいわばお飾りの部分。街の実態はすべて、アンドロが動かしているのね」
当たり障りのない範囲で、アンドロの世界を話した。
地球人口は公式には一千万人ほどといわれているが、実際はそれよりもずっと多く、一説では四千万にまで回復しているともいわれている。
ただ、そのほとんどが人造人間アンドロである。
アンドロが支配している地球。
この概念が広まるのはまだ時期尚早、という判断がアンドロ側にはある。
低レベルな労働力として、工場の隅っこで働いているという印象をあえて維持しているというのだ。
「ま、そうだね。うすうすは気づいてる」
「アギは徐々にわかってる。でも、マトやメルキトはわかっていない。思考力は相当に低下してるのね」
「書き割りみたいなこんな薄っぺらな街で、細々とした営みだけで世界が成り立っているはずがない」
「そう。食料やエネルギーだけでなく、ほとんどすべての物が政府によって供給されているわけでしょ。マトやメルキトは、それによって生かされている」
そんなことを漫然と話し合った。
しかし、そろそろ危険水域に達した。
「街の人は気づいていない広大なエリアの存在。実は街に隣接してる。という情報もあるね」
話しすぎたのかもしれない。
おじさんは、応えにくい点を突いてきた。
これに返事をするべきではないだろう。
「パパ、あのお花、見に行った?」
と、話を遮った。
話題は、どんどん移り変わっていく。
意識的にそうして。
そして、すべてのことをさらりと言う。
あくまで、表面的に。
他愛のない噂話であるように。