56 その日もまた、楽しかった思い出に浸るために
イコマは、チョットマの誘いを受けることに決め、日課となっている英知の壷に向かった。
楽しかった思い出に浸るために。
あれは、イコマが五十歳代の頃だった。
優と知り合ってまだ数年。彼女はまだ二十歳代。
二人の間で、ようやく「愛」という言葉を使ってもよいという雰囲気になっていた頃だった。
一人の少女を挟んで、川の字になって寝たことがある。
その夜の思い出。
イコマと優は、京都の山奥の隠れ里で殺人事件に巻き込まれていた。
事件の真相を探るため、里の少女、綾と行動を共にすることになった。
不思議な少女だった。
村の長老に見初められ、聞き耳頭巾の使い手としての訓練を受けていた少女。
聞き耳頭巾とは、鳥の声や木々の声を聞き分けることのできる不思議な布。
おとぎ話の道具ではなく、実在していたのだ。
そんなものが代々引き継がれてきた、それほど山奥の、大昔の不思議が今もなお目の前にある、神秘が充満している村だった。
綾。
小学生とは思えない芯の強さ。
疑うことを知らない者のみが発散させる純真な喜びを、小さな体全体で表現していた。
あの夜、イコマと優の間に寝そべった綾が吐露した不安。
小学生らしい言葉と裏腹に、聞き耳頭巾の使い手としての悩み。
けなげな一言一句が、そのかわいい唇から無理なく発せられるたびに、瞳は不思議な色合いを帯びた。
イコマはその瞳を見つめ続けた。
そこには天井のシーリングライトとともに、頭の薄くなりかけた自分が写っていた。
瞳の奥底には、子が親に見せるゆるぎない安心と信頼が静かに横たわっていた。
あの夜、イコマは、子供を持つということがこれほどの幸せに満ちたことなのか、と初めて知ったのだった。




