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56 木枯らし一番が吹いた翌朝のこと

 イコマは、アヤが出て行った扉を見つめて、立ち尽くした。

 バーチャルとはいえ、肉体を持った状態である。

 泣いていることに気づいた。

 涙を流す感触を味わうことが、それが喜びの涙であればなおさらのこと、これほど心地よいものだったとは。




 あの声、あの表情……。


 彼女が中学生だった頃、学校から帰ってきては、今日あったことを、口の回りが追いつかないほどの勢いで次々に話してくれたあの頃。


 叱られて、トイレに篭って泣いていたあの頃。


 夕飯のカキフライを食べながら、少しずつ悩みを打ち明けてくれた高校生の頃。


 バイト仲間とのカラオケが楽しかったといっては笑い、就職の面接が上手くいかなかったといっては泣いていたあの頃。


 そしてなぜか、急によそよそしくなった朝。


 酔った勢いで抱きついても、身をよじって逃げていったあの夜。




 彼女と一緒に過ごした日々。

 大阪のマンションの一室。



 アヤが工作で作った紙粘土の魚はいつまでも洗面台の上に飾られていたし、アヤの作った鉛筆立てをイコマは最後の日まで使い続けていた。


 結婚に夢破れ、家に帰ってきたとき、アヤは初めてイコマをお父さんと呼び、また一緒に暮らしていいですか、と聞いたものだ。


 その幸せは永遠に続くかと思えるほど、平凡でなにげなく、春の日の木漏れ日のように柔らかな暖かさに満ちていた。




 そんな暮らしが一変したのは、木枯らし一番が吹いた翌朝のことだった。


 優がいなくなったのである。

 アヤは自分が帰ってきたことがその原因ではないかと感じ始め、たった二人になってしまった小さな家族の関係はギクシャクし始めた。


 それからの重苦しい二十数年の日々。


 そしてイコマがアギになり、アヤがマトとなってからの百年。


 それはいずれも遠い過去であったが、鮮明な記憶となってイコマの肉体を駆け巡る。




 あのとき……。


 初めて見た子供の瞳の美しさ。

 かげりのない信頼と愛情の色。

 ひたむきにイコマの言葉を待っている黒い透明感。

 そしてその視線が自分から外れたときの喪失感……。


 聞き耳頭巾をめぐって、アヤと交わした言葉の数々……。



 ふとイコマは、聞き耳頭巾はまだあるのだろうか、と思った。

 作られてからゆうに千年は経つ。

 アヤは、特殊な樹脂製の繊維を編みこんで補強したと言っていたが。

 もうそれも、数百年前のこと……。


 聞き耳頭巾。

 不思議の頭巾。

 鳥の声や木々の声、さらには岩の声さえ聴くことができる。


 妖しの品。

 魔法がかかったもの。

 霊力を持った頭巾。

 命や意思を持った道具。妖怪ともいえる。

 あるいは未来から来た一種の生命体。

 などと、優やアヤと想像力を膨らませたものだ。



 アヤが聞き耳頭巾をかぶった姿を最後に見たのは、優を訪ねて金沢へ行ったとき。

 強烈な光に晒されて真っ白になった荒野を歩きながら、アヤは風の声を聞こうとしたのか、頭巾をかぶり、とぼとぼとイコマの後ろを歩いていた。


 やがてイコマはアギとなり、決して失われることはない記憶を持って、優との再会を待つ身に。

 待つだけではない。あらゆる手を尽くして優の消息を捜し求めた。

 アヤはマトとなり、実体を伴った行動でイコマの手足となり、世界中の町を歩いた。

 そして、あらゆる機会を見つけては、聞き耳頭巾をかぶって、優の噂を拾おうとした。

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