54 センチメンタル
どれほどの時間、そうしていただろう。
やがてアヤは胸にうずめた顔を上げ、まっすぐ見つめてくる。
「おじさん、私の記憶と変わらないね」
「そりゃ、まあ」
当然なのだ。
仮想の肉体は、当時のままを保っている。
しかしイコマはそうは言わず、「生きてきてよかったと思う」と言った。
「私も。死ななくてよかった」
アヤが、自分の涙をイコマの胸に擦り付けた。
「おじさんやユウお姉さんのことを思い出した途端、人生はガラリと変わった」
そして微笑み、自分の指でイコマの涙を拭った。
「生きていく芯ができたというのか、過去も未来も、両方を見ることができるようになったというか」
「なるほどね」
あまりいい台詞は出てこない。
こんなに心がときめく瞬間は、もうどれほどなかっただろう。
イコマはまた涙が出てきそうになって、もう一度、アヤを抱き寄せた。
過去の積み重ねで、今の自分がある。
それがあるから、先のことも考えることができる。
今まで、そんな風に考えたことはなかった。
誰でも、過去の記憶を心の中から引き出したり仕舞い込んだりすることができるからこそ、明日の自分を思うことができるのだ。
アヤが胸の中で言う。
「昨日のことも忘れるようでは、明日のことは考えようもない。以前の私、そんな人間になってしまってた」
体が離れた。
寂しさがこみ上げてくる。
しかし、今日の面会時間は終了。
またいつの日か、一緒に暮らせるようになるだろうか。
そうは思うが、もう、悲しい状況を自ら作り出す必要はない。
無理をして危険な橋を渡る必要はない。
傍受しているコンピュータがどんな判断を下すか、分かったものではない。
アギは、声帯を震わせて空気中を伝播する声は出せない。
政府のシステムを使って、電気的な発声をしているし、聴いたことも電気的な信号で電脳に送られている。
もちろん、すべて政府のアラートシステムに筒抜け。
だから、これでいいのだ。
こうして、訪ねてきてくれるアヤと会うだけで。
つまらぬ世間話をするだけで。
今でも、アヤと出会う前の数百年に比べると、腐りきったどぶ川と南太平洋の大海原くらいの違いがあるのだから。
「ちょっと、やばかったかな。抱きついたりしたし、パパを呼び間違ったりしたから」
アヤが、ちょろっと舌を出した。
「じゃ、パパ、またね」
アヤが出て行くと、部屋に並べられた椅子が、空しさを募らせる。
がらんとした部屋に、座る者のない椅子の群れ。
冷めた空気。
仮想で作られた部屋に風が流れることはない。
何の物音もない、鼓動のない空間。
イコマはある作業を始めた。
一心不乱に。
センチメンタルだな、と呟きながら。