53 一度や二度の抱擁では埋められない……
イコマはバーチャルではあるが、実像を伴ってアヤと向き合っている。
他に誰もいないがらんとした仮想の部屋で、他人行儀に向かい合って座っている。
親子なら、もっと自然に自分の居場所を見つけて、自由にくつろいで話をするだろう。
再会したとき、アヤと抱き合った。
頬を寄せて、涙を流しあった。
しかし、そうしたのはあれきり。
マトの狂気。アギの狂気。
父と娘の会話にしては、なんとも味気ない。
しかし、これでいいのだ。
二人、顔を見合わせて話せる。
これでいいのだ。
よしとしなければ。
「うん。アギの場合は、思考は途切れることなく続いていくでしょ。それはそれで苦しいのかもしれないけど、マトの場合は死亡という節目があって、そのたびに記憶が消えていく。ある期間の記憶がぽっかり失われていく。なにも残っていない。それに気づいたときのやるせなさといったら」
アヤは、涙ぐんでいた。
他人に言えない苦しみもあったのだろう。
記憶を失うとは、どんなに辛いことか。
失われることのない記憶の存在となったイコマだからこそ、その恐怖や虚しさが分かる。
「もうどうでもいい、って何度思ったことか」
娘がこんな言葉を吐けば、父親なら、抱きしめてやりたいと思うだろう。
抱きしめる。
それが、それぞれの神経がそのように反応し、感じていると脳に伝えるだけのことであっても。
イコマに質量を伴った本物の肉体があるわけではない。
この空間同様、仮想の産物。
そんなまやかしの肉体であっても。
「アヤちゃん」
イコマは椅子から立ち上がった。
せめて手を繋ぎたいと思った。
せめて、頬の涙を拭ってやりたいと思った。
せめて、アヤの髪に触れたいと思った。
仮に見えているだけの手であっても。
「おじさん」
アヤも立ち上がった。
なんとなく、おずおずと。
昔、思春期の頃のアヤがそうしていたように。
今、こうしていること。
これが幸せだと思う。
離れ離れになった数百年間の空しさは、一度や二度の抱擁では埋められない……。