51 私がマトになった理由
同僚に悟られないよう、すばやく涙を拭き取ったが、次から次へとこぼれ落ちる涙をこらえることはできなかった。
でも、冷静に、冷静に。
気を取り直し、バードはこの会話を交わした人物のIDを凝視した。
監視室には筆記用具は持ち込めない。
他人のプライバシーを盗み見る場所だ。
いかなる理由があっても、データを持ち出すことは許されない。
もちろん、自分のモバイルにも、どのような形であれ、記録に残すことはできない。
どこで探知されてしまうか分かったものではない。
おじさん!
今すぐ会いたい!
それが無理なら、今すぐ声を聞きたい!
コンフェッションボックスに駆け込みたかったが、省のそれは利用できない。
不良な「アギ」を接触監視するため、あるいは囮捜査として使用するものであって、確実に利用記録が残る。
勤務時間が終わるのを、今か今かと待った。
覚えたIDを忘れないように、繰り返し繰り返し反芻しながら。
頭の中を、いろいろな記憶と思いが駆け巡った。
出会いの日々。
楽しかった日々。
失意の日々……。
そして、おじさんと話し合ったこと。
おじさんはアギ。つまり、記憶のヒト。
私はマト。つまり、肉体のヒト。
本当はアギになりたかった。
その方が性格に合っていると思ったから。
でも、私達にはひとつの目標があった。
そのためには、おじさんと私は別々の道を進んだ方がいい。
そのことを決めるのに、議論の必要はなかった。
おじさんがマトになって、良いことはひとつも無かったから。
言われるまでもなく、私はマトになることを選んだ。
しかし、想像していた以上に、マトの、つまり私の記憶力は貧弱だった。
どんなに頑張っても、思い出せない事柄が多かった。
というより、思い出さねばならないことがある、そのこと自体に思いが至らなくなっていった。
そしていつしか、おじさんのことを忘れ去った。
おじさんと交わした約束も。
そして、自分がマトになった理由も。
今日、警告ランプが私の前で点滅しなければ、大切なことを忘れたまま、薄っぺらな思考力の中で矮弱な生を繰り返していただろう。
やっと終業時刻。
夜十八時、仕事帰りの人波の先頭に立って、バードは何食わぬ顔で街に出た。
トゥーアロードのもっとも賑やかな街角で、ボックスに入った。




