32 記憶 ああ、この声……
生駒は歩き出した。
上着を脱ぎ捨てた。
帽子を目深にかぶり、視線を足元に落として。
進むほどに、目の前に巨大な圧力を感じた。
重くて熱い幕を押しながら歩いてゆくように。
十分ほども歩いたろうか。
振り返ってみると、白一面の世界の中に、自分の影がぼんやりと立っているだけだった。
そこにあるはずの綾の姿はおろか、丘陵も空も何もかもが消え失せていた。
歩を進めるたびに、いよいよ気温は高くなってくる。
遠くから見たときには建物が見えていたが、もうそれもわからない。
白い光そのものの位置さえわからなくなっていた。
ただ、水流のような重い光の圧力を押し返しながら、一歩一歩と進んでいった。
光の粒子が岩や石ころを粉々に砕いたのだろうか。
足元はいつしか、一面の細かい粒子で覆われていた。
その粒子がパウダー状になり、歩みはますます遅くなっていった。
「優に会う」
この言葉を呪文のように繰り返した。
何度も意識を失いかけては、呪文を大声で唱え、また一歩を踏み出した。
すでに足元さえ、白く光って見えなくなっていた。
「優に会う」
優に会う……ぞ
優に……会う……
「ノブ、馬鹿だなあ」
夢の中で、声を聴いた。
「私を信じてって、書いておいたのに」
声がまた聞こえた。
「こんなところまで来て」
生駒の意識はその声を聴いた。
と同時に、目を開けようとした。
夢ではない。これは現実、なのだから……。
目の前には愛しい人が……。
しかし、やわらかく暖かい指が生駒のまぶたに触れた。
「目は閉じたまま」
と、声が言った。
「また、会える日があるんだから、こんなところまで来なくてもよかったのに」
やさしい声だった。
ああ、この声……。
閉じたまぶたから涙が零れ落ちた。
「ユウ」
生駒は、女の名を繰り返し呟いた。
「ユウ……」
「ねえ、ノブ。約束、覚えてる?」
「うん。でも体が動かない」
生駒の唇に、優の唇が触れた。
意識は再び急速に薄れていった。
「もう来ちゃだめよ」
優の声がかろうじて脳に届いた。
「送っていくね」
それだけ聞くと、生駒の意識は途切れた。




