286 俺を安心させてくれ
海……。
全く予想もできない世界だった。
記憶は、自分の脳にあるものだと思っていた。
それは正しいと同時に、間違っていた。
真実は違う。
ユウは、大事なことだからと、さらに説明してくれる。
マトやメルキトの思考や記憶をつかさどる脳の働きは、すべて海に注ぎ込まれているのよ。
政府のコンピュータシステムを経由して。
ヘッダーやゴーグルを外して誰かと話しても、実は政府のコンピュータはその中身を取得しているのよ。
いいえ、話の内容なんてシンプルなものだけじゃなく、その時の心の動きまでもね。
そして海に蓄積される。
再生時には、それをあるアルゴリズムでチョイスして、インプットされるのね。
「ものすごいシステムだな。脳の働きをすべて蓄積するというのは。とてつもないデータ量だ」
「そう。だから、海を使うことを考え出したのね。いつそのように移行したのか知らないけど、私が宇宙に出て行ってる間に人類が発明したものの中で、最大の意義あるものじゃないかな」
「俺を見つけ出してくれた状況は、だいたいわかった。しかし、俺の、つまりイコマとしての記憶はどうやって取り戻してくれたんだ? たった今のこと」
「タブレットのこと?」
「そう」
あれは、生駒延治という人物の記憶を、海から正確に抽出するための基礎データ。
つまりフックのたくさん付いた網みたいなものね。
それに加えて、あなたの脳に埋め込まれているマイクロ装置を動かすプログラム。
そしてアギとなったノブの思考と同期させるためのプログラム。
「ちょっと待ってくれ。俺の脳に、そんな機械が入っているのか」
「当然やん! マトは本当に何にも知らないんやね」
それがあるから、脳の動きを政府のコンピュータが吸い出すことができるんじゃない。
それがあるから、監視衛星であろうが、通信傍聴システムであろうが、個人を特定できるんじゃない。
それがあるから、死んだとき、その位置に次元の扉が開くんじゃない。
「魔法でもあると思ってたん?」
「そうだったのか」
知らないことだらけだった。
ユウは少しづつ、大阪イントネーションになっていく。
ンドペキは、そんなことにも胸を震わせた。
「その装置は、出力だけじゃなく、アーカイブを作り続けてる。だから再生時に、記憶をインプットできるねん。私はそれを逆手にとって、生駒延治の記憶をあなたにインプットしたのよ」
大阪イントネーションはうれしいが、話の内容には背筋が寒くなる。
となれば、あらゆる人間の記憶や知識や感情を、入手できることになる。
ふと思った。
ちょっと待てよ。
「ということは、俺はイコマじゃないこともありうるよな。今は、自分は生駒延治だと思っている。心の底から信じて疑わない。しかし、それは違っている場合もあるってことだよな」
「ないよ。そんなこと」
「でも、どうして俺、ん、つまりンドペキがイコマだとわかったんだ? 人違いってことも、あるんじゃないか?」
ユウが笑い出した。
「なに言ってるねんな! ほんまにノブは。この期に及んで。違和感でもあるん?」
「全くない。おれはイコマだ。しかしそう信じているのは、その記憶が脳にインプットされたからじゃないのか?」
ユウがまた笑った。
「間違いないって」
「でも、どうして間違いないってわかるんだ?」
「私が海にいて、大阪で一緒に暮らしたノブの記憶を見つけ出したとき、それを辿っていくとンドペキと名乗っているあなたに繋がっていた。それで十分とちがう?」
「それだけのことで……」
「嫌なん? 生駒延治であったことが」
「とんでもない! 俺はイコマだ。しかしだな!」
「面倒な人やね」
ユウの笑みが大きくなる。
「昔から、そういう人やったけど。じゃ、教えてあげる。この話は最後にしようと思ってたんやけど」
「教えてくれ。そして俺を安心させてくれ」
「わかった。ねえ、ンドペキ、あなた、聞き耳頭巾を使ったやん。そのとき、何を見て、何を聞いた?」
「あっ」
「あの記憶はノブのもの。種も仕掛けもない聞き耳頭巾を使ったことで、あなたは自分の記憶を少しだけ思い出した。それが決定的な証拠。それがあったからこそ、私は今日の日を迎えることができた。そういうことなのよ」
ンドペキは、まざまざとあの夜のことを思い出した。
暗い神社で、アヤと……。
そうだ!
スゥと一緒に!
森の中、スゥはずっと唇を寄せて、俺の記憶が蘇るようにサポートしてくれていた!
そうだ!
スゥは!
ンドペキは、セラミックのテーブルを振り返った。