265 私に任せて欲しい。すべてを
「長くなったな。そろそろ帰ろう」
しかし、スゥの足は動かない。
「まだあるのよ」
「ん?」
「最も大切な話が」
また、腕を取ってくる。
「抜本的に、あなたの記憶を戻す方法があるとすれば、試してみる気、ある?」
ンドペキはスゥに向き直った。
即答できなかった。
記憶を戻したいという気持ちはもちろんある。
しかし、それが今の自分の最大の希望かといえば、違う。
今は、東部方面隊の危機。
ニューキーツの街の危機。
これがすべてに優先する。
自分の記憶を元に戻すというような、何の役にも立ちそうにない感傷的な望みは持っていない。
ンドペキは正直にそう答えた。
「悪いけど、今はそんなときじゃない」
スゥは組んだ腕を解こうとせず、じっと目を覗き込んでくる。
「いずれ、そう思う時が来るかもしれないが」
そう言って話題を終了し、洞窟へ戻ろうとした。
ほろほろとした気分は失せ、本来の自分に戻っていた。
「そのいずれというのは、案外近いと思うのよ」
ニューキーツの街が元に戻れるというのなら、それに越したことはない。
「じゃ、そのときにまた考えよう」
「そうじゃなくて」
スゥがきっぱりと言った。
「そのときがいつかってこと、私に任せて欲しい。すべてを」
あまりに、唐突な宣言だった。
「……」
スゥの腕に力がこもり、ぐっと引き寄せられた。
「時が来れば、ある意味で、あなたはあなたじゃなくなる。すべての記憶が回復するんだから。でも、私のことも思い出す。すべてを」
その勢いに思わず押されてしまった。
「ああ……」
「覚悟だけはしていて。そして、私に任せると言って欲しい。別に危険なことじゃない。ンドペキという人がいなくなるわけじゃない。ンドペキはンドペキのまま。本当の自分を取り戻す。いい?」
「今じゃなくちゃいけないのか。その返答は?」
「そう、今」
「うーむ」
「私、何度もこんな話、したくないし、できない事情もあるのよ」
「んー」
「聞き耳頭巾を試すのは、今度から、ひとりでしてね。ふたりきりで話す機会はもうあまりない」
「えっ、そうなのか?」
例によって、スゥがまた秘密めいたことを言い出した。
今と同じように、ふたりで出掛けてくればいいではないか。
もともと洞窟はスゥのもので、それを借りているのだ。
二人きりで話をすることに、だれに遠慮することもない。
「ということは、ここ数日のうちに、また大きな動きがあると?」
「そうじゃない。私の方の事情」
スゥの腕にますます力が入っている。
「しかしな」
と、組んだ腕の力が抜けていった。
「そうよね。いきなりそう言われてもね。でも、本当に考えておいて。そうしてくれないと、私はどうなってしまうかわからないから」
ンドペキは思い出した。
スゥが、自分の行動の裏に誰かがいる、と話してくれたことを。
「誰かの指示で動いてるって、前に言ってたな」
「あ、ま、それは忘れて」
図星だ。
会ったことはないが、スゥの同業者、ライラという老婆の顔を想像していた。
「ンドペキ、キスしてくれてありがとう。こんなにうれしい夜は、まさしく六百年ぶりだったね」
そう微笑んで、スゥがようやく腕を放した。