264 唇にはまだスゥの唇の感触があった
白い、黄色味を帯びた光。
飛んでいる。
ふわり、ふわり。
これは……、虫……。
そうだ……、蛍……。
巨石にもたれて……。
荒い石の表面……。
手の平に砂が食い込む感触……。
得体の知れない動物の顔を持つ石像……。
それが真っ二つに割れ……。
はっとした途端、幻影は消えた。
唇にはまだスゥの唇の感触があった。
ンドペキは目を開けると、今度はスゥを抱きしめた。
そして口づけた。
スゥが涙ぐんでいた。
「すまない……。やはり、思い出せない……」
ンドペキは、スゥを抱きしまたまま、感じたものを話した。
「ンドペキ、すごいよ……」
スゥの目から涙が溢れ出した。
体に回されたスゥの腕に力がこもった。
「それは、大昔、あなたが見たもの……」
「そう、な、のか……」
「若い女性は私。女の子はアヤちゃん……。岩代神社のクスノキで、聞き耳頭巾を試したとき……」
朦朧としていた。
すべてが霞の中にあるような気がした。
スゥとキスしたことも。
今見えたものも、耳にしたことも。
自分がしたことではないような感じがした。
自分がかつて見たものだと説明されても、言葉として脳には伝わったが、そこから引き出せるものは何もなかった。
ンドペキは、スゥを抱いている腕を緩めた。
そして肩に両手を乗せ、「ふがいないだろ」と、呟いた。
スゥの目から、どんどん涙が流れ出し、頬からこぼれて、ぽとぽと落ちている。
「でも、私が出てきた。よかった。それだけでも……」
それから何度試してみても、もう聞き耳頭巾の力は現れなかった。
「もはや、ここまでか」
「力みすぎてるから。また今度ってことね」
「ああ。でも、一旦は返さないと」
「もちろん。ね、あの子には、今のこと、絶対に話さないでね」
「ああ。ん? なぜ?」
「まずは、あなたが先」
ンドペキは、心が少し晴れたような気分になった。
依然として、スゥのことは何ひとつ思い出せなかったが、幻影だけは見えた。
スゥが、それが自分だという女性が。
なんとなくうれしかった。
そして、いつか思い出せそうな気もした。
そして今、はっきりと、自分はスゥが好きなのだと思った。
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作者注:
ここに出てきます一連の幻影は、ミステリー小説「ノブ、ずるいやん」のシーンです。そちらも、ぜひお読みください。イコマ、ユウ、アヤが主人公で時代設定が現在の推理小説です。