163 部所替えをして欲しいんだけど
腹這いになって進みました。
「バード!」
「起きてるよ。大丈夫」
などと言い交わしながら、少しずつ進みました。
言葉を交わしていなければ、とても前へ進めるものではありませんでした。
不安で、手足はなかなか動こうとしません。
「ちょっとでも頭を上げちゃだめよ。頭蓋骨が切られちゃうかもしれないよ」
「怖いこと、言わないで」
頭を下げたまま、脚と手を使って這い進むのは骨が折れました。
「ねえ、食堂の定食ランチ、なんだった?」
「知らない。その前にここに放り込まれたから。行かなかったの?」
「うん。パリサイドとの会談があって、それどころじゃなかったから」
施設の中は、声が反響しました。
小さな声でも、かなり遠くまで届いているような気がしました。
暗闇なので、どれくらいバードと離れたのか、見当がつきませんでした。
「ねえ、部所替えをして欲しいんだけど」
「どうして?」
「あそこにいると、友達できないような気がするし」
「そうよね。私に任せて」
「よかった」
私もバードも、なんとか普段どおりの話題を探しては、声を掛け合いました。
しかしその声も、徐々に遠ざかっていきます。
腹這いで進んでいても、それなりに遠くまで来たようでした。
「どうしよう。きっと、かなり離れているよ」
遠くから、バードの声が小さく響いてきました。
「ダメだよ。帰ってきちゃ。せっかくそこまで行ったのに、水の泡になる」
「だって、どこまで行っても、終わりがないような気がしてきた」
「そんなはずはないよ。閉じ込めておく施設なんだから」
「そうなんだけど」
「だから、どんどん行って。声が聞けなくなっても、こっちは死にはしないから」
「わかった」
ここまで進んでくる間に、いくつかの死体を見つけていました。
それは、かなり古いものもあれば、比較的新しいものもありました。
衣服を身に着けているので、暗闇でも、それが人間だと分かります。
しかし、そのことをバードに報告しようとは思いませんでした。
何を吸い込んだのか分かりませんが、何度も咳き込みました。
それらに触れた手が気持ち悪い。
でも、そんなことに構ってはいられませんでした。
本当は、すでに絶望的な気分になっていました。
ここは無限地獄。
そんな思いが、心にのしかかっていました。
もう、出られない……。
体の一部を切り取られるか、そうでなければ気が狂って死ぬ。
最善の場合でも餓死するのだと。
最後かもしれないと思って、バードに声をかけました。
「ねえ、バード!」
「なに!」
声が、ますます遠くでこだましました。
「私さ、あなたの親友?」
「ハッ、当たり前。そう思ってるよ。でも、レイチェル! そんな今生の別れみたいなことを言わないで!」
私はまた泣きました。
泣き声は聞かせたくない。
「ごめん。ありがとう」
バードに聞こえないように、呟きました。
それからも、腹這いになって進みました。
依然として、周囲にはなにも見えません。
どんな物音さえしません。
小さな光一筋さえもありません。
ただ、冷たい床があるばかり。
大声で呼んでみても、もうバードは応えてくれませんでした。
バードは死んでなどいない。
声が届かなくなっただけだ。
そう自分に言い聞かせて、なおも進みました。
手足だけではなく、顎も使って。
もう、何も考えていなかったと思います。
考えられなかった……。
死体はたくさん転がっているし、腕の筋肉も、腹筋も、太ももも、限界を超えています。
肘や膝、そして顎の辺りがひどく痛みました。
それでも、力の限り進みました。
前に進むことだけしか、考えていませんでした。
でも、とうとう、もう一歩も進めない状態になりました。
腕も脚も顎も、前に出ないのです。
どれくらい進んだのでしょう。
結局、部屋の端に行き着くことさえできなかった。
私のせいで、親友のバードをこんな暗闇地獄に放り込むことになってしまった。
彼女を救えないばかりか、私自身もこんな形で罰を受けることになってしまった。
そう思って、泣きました。
いろいろな人の顔がまぶたに浮かびました。
昔の友人達、両親。
親衛隊の面々。
バードと出会ってからのことも、たくさん思い出されました。
そして、ハクシュウやンドペキのことも。
ここで死ぬのだと思いました。
そしていつしか、眠ってしまったのか、あるいは意識がなくなってしまったのか。
……記憶があるのは、ここまでです。